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乱の36 結局それはただ友がため

 

 開戦前のことだ。参謀カイムは広すぎるほどに広い地下の広場が千の人間で埋め尽くされたところで、二階のバルコニーから出来る限りの大きな声で語りかけた。


 一般兵は敵をかく乱させるだけでいい、捕らぬように戦え。という声は、音の良く響く地下のすみずみまで届いて「ちょっとうるさい」とけっこう多くの人が思っただろうとカイム自身、察した。自分の耳にもうるさかったから。


 顔をしかめる人はカイムの目でも見つけられ、彼の背後に控えて立っていたダンクルートが小さな声で「るっせぇ(うるさい)」と言った。言われなくても分かっている。

 だがさらに声を出すと、同じく背後に立っていたジャックが耐えきれなかったというよう「うわ」と驚いて、下の広場でカイムの真正面を陣取っているグレンとリースとアリスは耳をふさいだ。

 言われなくても分かっている。


 とはいえ幸いにしてカイムの声は、低音が妙に耳やさしい声なので、とくに野次などもでずにみな黙って聞いていた。


『知っての通り、城壁に門は四つある。このうち影の薄い西門から王は帰ろうとするだろう。あくまでお忍びの旅だからな。この門を重点的に、正門、北門の三つに力を尽くせ。東門は少数だけでいい。見落としていないと分からせる程度にだ』


 人々がうなづいた。

 鎖かたびらを着込んでいる人や、兜を付けている人や、兜ではなく額当てだけを付けている人たちが、うなづきながら自分はどこの配置だな、と心の中で確認する。


『捕虜はこちらから一人だす。それだけでいい。お前たちはなるべく逃げろ。仮に捕まったなら、適当に問題にならないことを言っておけ。必ず助けに行く』


 必ず助けに行く。その言葉が出たとき、ダンクはカイムを見上げる兵たちの目に安心と信頼が宿ったのを見た。

 カイムへの信頼がその瞳を生んだのだろう。


 カイムはやはり人の上に立てる人間だと確信した。そんな才ある大貴族の坊ちゃんを反乱分子にした今の国は、やはりどうにかしなきゃいけないんだろう。


 思い、ダンクは笑んだ。


 らしくないことを思ったものだ。



 カイムがさらに演説をつづけて、最後に全員で気合を入れた地下の光景はダンクの記憶の中を通り過ぎ、今の、王城前の景色が意識のすべてになった。



 西門では争いが始まっているが、ここでは始っていなかった。ダンクは徐々に城へと近づいていきながら、周囲を観察する。


 ずいぶんと危険な役目を引き受けたもんだと、改めて自分に驚いた。

 何の義理もないというのに、変な奴だなと自分に思う。


 ダンクはアルザートに育ったわけではない。父はアルザートの人間だが旅人で、ドコル帝国で母と出会ってからずっとドコル暮らしだった。

 たまに里帰りをするかと言えばそうでもなく、どうやら祖父母はすでにいないのだと幼心に理解していた。

 アルザートの友人だとかいう人がたまに訪れてくる程度にしか縁がない祖国だった。


 自分が旅人になってから初めて来たアルザート。当然ながら忠義なんてもので反乱に関わるわけがない。

 それがいつの間に、こんなことになったのか。やれやれ。


 必死に国を思い行動する姿に興味を持ったのが運のつきか。ギルドから雇われたのが始まりで、結局こんなところまでくっついてきている。


 だからほとんど成り行きで一緒にいるだけだが、それが今回、捕虜になりにいくなどという大役を任された。


 秘密を漏らさないという信頼関係の必要なそんな役目を俺にして、いいのか、それで。と思ってから、むしろ逆なのかと考えた。

 使い捨てるつもりだろうか。


「くっ……はは」


 考えすぎだ。


 使い捨てなら、もっと情報を隠すはずだ。しかしダンクは多くを知っている。

 ジャックより、グレンより、クローより反乱軍に詳しい。そんな人間を捕虜に出すというのは、捨てるより合理的な理由があってのことだろう。

 とくに理由もないのかもしれないけれども。



 だいぶ門の近くまで来ていた。


 ダンクはしまりのなかった口を閉じ、動きを消す。


 すぐ近くの東門の前はまだ静かで、番兵が緊張した面持ちで辺りの様子を見ている。反乱がおきていることには気づいているようだ。西門は大賑わいなのだから気づかない方がおかしいか。


 王が城に逃げ込んでいったのは、少し意外だった。


 タルタスとの戦いぶりを聞く限りでは、残って戦うものかと思っていたのだ。だから意外で、そしてありがたい幸運だと思った。


 正直な話、この反乱軍には、国の王に剣を向ける度胸のある奴はほとんどいないのだ。


 王を殺す度胸があるのは、グレンと他少数といったところだろう。

 ダンク自身も避けられるなら避けたいと思っている。神に等しい王を殺すような大罪を、自分は犯したくない。それが大多数の本心だ。アルザートに育ったわけではないダンクでさえ、あがめる気持ちは無いとしても心に抵抗が存在している。


 王側がどう思っているか知れないが、反乱軍なんてそんなものだ。だから当然、目的は王ではない。ダリシュだ。そいつを叩けば王がなんとかしてくれると、ぼんやり期待しているのがこの反乱軍だ。


 そんなんで大丈夫なのかねぇ。とダンクは声を殺して笑った。


 見通しが甘くはないか。と思いつつ、そうなれば良いなとも思う。


 草木に身を隠しながら、静かに門へ近づいた。隠れている林は荒れ放題で、森と呼んだほうがふさわしいほどに深く、熊のような体も十分に隠れる。本物の熊もいそうなくらいで、草が揺れるのに気付かれないようにするだけで楽に近づける。


 などと微笑した直後、耳が、しゅっと矢の飛ぶ音をとらえた。


 気づいた時には門の石壁に矢が鈍い音をさせてはじかれ、門についている番兵が剣を抜いた、その刹那せつな、熊の咆哮ほうこうのごとき声が、緊張する空間を突き破った。


「うおおおっ」


 戦場の声が、ぞくりと、ダンクの体を駆けぬけた。唐突に船から海に落とされたよう、全ての神経が戦いへ向かう。

 近くから、鎧を着込んだ反乱軍の男が飛び出していく。番兵は一瞬気おされながらも応戦し、甲高い金属音が響き始めた。

 これは、ダンクルートの出番が近付いた合図だ。


 林からさらに数人が門へ押し寄せていく。

 水を打ったように静まっていた東門にも、ついに荒波が押し寄せた。

 西門の方からくる剣や弓など鉄がぶつかり合う音と東門の音が混ざりあい、乾いた夏空へのびやかに響いてダンクの耳を叩く。


 森の、道を挟んで向こう側にある森からもさらに数人、仲間たちが門へ向かって走っていくと、先に咆哮をあげて攻撃を仕掛けた者はこちらにもどって身を隠した。

 荒い息が聞こえる。それでもダンクは、門へ突入するその時をじっと待った。


 反乱軍であまり人を配していないこの門は、王兵も少なく、願いどおり隙は多い。城から援軍が来はじめているが、戦力は五分五分と言ったところか。これならいける。


 すぐ近くを王兵がいらだたしげに走っていた。仲間はうまく敵をかく乱させているようだ。


 ダンクは無音を保って剣を抜いた。

 仲間が門への攻撃を始めるのは、奴がこちらに向かっていると分かったからだ。奴が現れるのは確実。


 剣と弓矢がぶつかる音が響いている。深く呼吸をした。

 そろそろ、門へ攻撃を始めてからの時間と、門への坂を登りきる時間が重なるころだ。


 耳をすました。

 兵が走り回るあわてた音、それ以外の音を探せ、例えばそう、慎重な足音。


 ダンクの茶色い瞳が、すいと目尻へ動いた。

 いた。木々の隙間の向こうを、戦場に不似合いな団体が歩いている。林の側に寄りながら、警戒して歩いてくる、高そうな服を着た、官吏かんり一行。ダリシュがいる一行。

 護衛は黒服の魔術師と、兵士が二人。


 ダンクは気配をよりいっそう押し殺し、走りだせる体勢で剣を構えた。

 そして官吏らが門の目前にまでたどり着いたとき、絶えず門へ押しかけていた反乱軍が、たまたま、すべて林に押し返される。老い始めた官吏たちはここぞとばかりに走り出した。


 官吏らが門の内に入りきれるよう、番兵も守りを緩めて隙間を作る。するすると、さも蟻が巣へ帰って行くように入っていくその中に、しかし一つ毛色の違う蟻が紛れ込んだ。


 複数の驚きの目が、ダンクの視界に広がる。


「うおおおおおお」


 大剣が風をなぐ。うんと圧された空気が、番兵と官吏へ突風と覇気となって叩きつける。

 構えのなっていなかった番兵と官吏はふらりと倒れ、城が見えた、あいた空間をまた、戻りの一振りの覇気が飛んでいく、視界が開ける、ダリシュがいる、白髪の交じった黒髪を首後ろで縛る老官吏、間を邪魔するものは気配さえもない。


 走った。放置された裏門に生える雑草が踏まれてつぶれ、悲しく揺れた。

 唐突の乱入者に番兵たちは冷静さを欠いた。ダンクを妨害しようとまで気を取り戻した者にはしかしまとまりが無く、ホコリのように払われていくだけ。


 老いた男が驚がくして振り返る。悪というにはあまりに輝く、青い瞳。

 まだ殺しはしない。戦死などと華々しく死なせなしない。

 ダリシュの横を素通りした。一般兵が数人外へ来ようとしている東口へ走っていく。その時。


「取り押さえろ!」

 魂まで震わせる、どこか神秘ささえ感じる澄んだ声が場の気配を一変させた。

 ダンクの視界に、銀の輝きがひるがえってる。


「うろたえるな。敵は一人。皆でかかって負ける相手ではない!」

 言いながら、現れた若い王は剣を構えた。良い時に来てくれるものだと思いながらダンクも走る。

 隙がない。それでも剣を振った。走った勢いそのままに、全力で踏み込んだ彼を当然のように避けた王へむけて、横なぎする。


 ギンと重い高い音がする。細身の剣が大剣を受け止め、するりと逃げて反撃しようとするのをダンクは力で押しつけて許さない。


「ぐっ」

 アルゼムの全身が沈み、耐えかねるよう背後へ後ずさっていく。

 銀髪が白壁にふれたとき、彼は力を抜いて沈み込んだ。唐突に反発が消えたダンクはそのまま壁に剣をぶつけるが、目は銀髪を追って赤い線の走る廊下を見る。王の体が剣を振りにいっている。床を蹴った。


 風の音がした。

 剣を振った音と言うにはあまにり透明な、空気の層と層の隙間をぬって風が吹いた音をさせてアルゼムの剣がダンクの喉元を通り過ぎる。

 ダンクは引き戻した剣を振り上げ、目の前に来たアルゼムの剣を折ろうとしたが、斬れたのは長い銀髪。アルゼムは己の剣の残像がまだ残っているうちにダンクの横へ来て、大剣を振り上げて隙だらけになったダンクの懐深くへ剣を突き刺した。


 ぽたぽたと、赤い血が廊下に落ちる。

 ダンクの脇腹に突き刺さった剣から血が垂れていく、が、「うぐっ」という唸りとともにアルゼムは蹴り飛ばされた。

 二度目の蹴りだった。

 一度目は突きと同時に、そして刺されたままでの二度目の蹴りは、体勢を整え、重みを増して入ったのだ。


 二人の間に距離ができ、ダンクが剣を構えなおした瞬間、しかし彼は背後から羽交い絞めにされた。

 力自慢のダンクが逃れようとして、しかしできない。うまく力が入りにくい形で押さえられている。


「よくやった、ウェルサ」

 アルゼムが涼しい顔で言った。汗をぬぐう。

「ちょうど良く捕虜が出来たな。出来すぎだが、まぁいい、尋問しろ」

「はっ」という返事は複数。

 ウェルサが押さえたままでダンクは縄で縛られた。


 アルゼムとダンクの戦いに入って行けなかった兵たちも手を貸して、ダンクは廊下をひかれていく。

 くそっ、と彼が毒づいたとき、不意に、キイイィと、鳥の警戒の声のような音が外に響いた。さわさわと風に揺れる木々の上を抜け、西へ向かって飛んでいく。

鏑矢かぶらやか」

 鳴り矢とも呼ばれる矢の音に、アルゼムは顔をしかめて捕虜を見た。大男は敵意の満ちた顔のまま外を見ると、これといった反応もなく歩いて行った。


「何をたくらんでいる」


 アルゼムの問いに答えたのは、尋問されに行く大男が、兵に引かれながら毒づく声だけだ。




 

        国の王が戻るころ

        あなたを苦しめる老人も戻る


        その者は、貴方を呼び出し

        勝手な行為を咎めるでしょう


        貴方を亡き者とし

        新たな傀儡を探しに行く


        逃げなさい


        逃げなさい


        未来は変えられる



        少しでも長く、生きるのです





「逃げません」

 微かに痺れがある、低くもなく高くもない男の声が、彼の耳にしか聞こえない声に応えた。

「少しでも長くということは、結果は同じということでしょう。逆らってもすぐに引き戻されるなら、俺は、このまま……」


 何を言っているのだろう。


 シラは一人きりの部屋で苦笑した。

 予言はシラに語りかけようと、シラの語りは届かないのに。

 予言の女の声はまたいつものように寂しい歌を歌い始めている。歌うように語り始めている。ただただ未来をつづる、彼にとって苦痛の歌。

 これのせいで彼のすべてが決まってきた。


 


戦は間もなく始まり、間もなく終わる


儚い時間で全てが終わる




ソニエル・クエナの動きだけが辺りを蹴散らし


変えるでしょう



 ソニエルクエナ。それが何か、まだシラにも分からなかった。

 最近になって現れ始めた言葉で、固有名詞ということだけ察しがついている。


「変える……変化の男が、ソニエルクエナですか」


 別に答えなど期待せずに、大きな窓の外で広がる戦場を見ながら言った。答えがなくても、言うだけ言いたい。これから死に行くと予言され、もう他にすることもないのだから。



ソニエルクエナ、変化の男、違う


しかしどちらも本来の流れにいないもの


未来も過去も無き事が定めの異物



「な、に」

 答えた。

「しかし生きています! 彼は今、生きています。予言では死ぬはずだった彼は、生きているのです」

 紅い瞳に光が宿った。前へ後ろへ叫んで、予言と言葉を交わせるかもしれないこの機を逃すまいと、どこにあるか分からない情報の空間へ訴える。

 窓から入ってきた太陽の光が鏡を反射して、眩しく輝いている。


「どういうことなのです。こんなことは、今までになかった。歴史上でさえ」

 神!

 自分の声が耳を震わせる。震えは徐々にうすれて消えていったが、それに答える歌は聞こえなかった。


「なぜ」


 何か、変だ。今までを支えてきた大きな土台が崩れていくような、足元に穴があいていく恐怖がある。


 何かが狂い始めている。


 力なく見上げた窓の外、夏の太陽がまぶしく輝く空の中を、ふいに現れたキイイィという騒々しい音が、矢と共に現れて視界を横に真っ二つにした。


 その音はまるで新たな何かが始まる前の前奏曲のよう、窓を震わせ、心を震わせ、余韻を後ろに残していく。 

 

 そして音は、騒音とともに本編へ移る。


 怒り心頭という言葉がお似合いの、けたたましい音が扉から響いてきた。

「開けるぞ!」

 ああ来たか。とシラは、気力のなえていた紅い瞳に最期の意思を込めて立ち上がった。

 扉は一拍の間をちゅうちょしてから、嵐の訪れるのように勢い良く開いた。人が一人、立っている。一人? 他は通路に隠れているのだろうか。


 反乱軍に加担したなと、そう言われても反対はしないでいよう。ほんの少しでも加担していないと信じられて、予言師だからと言及を止められてしまっては元も子もないのだ。


 自分はただ捕らえられるだけ。それでこの戦いは反乱軍の勝利に終わる。動揺が広がり、注意がそれた国王軍には付け入るすきが出てくるから。そうなればリルとマルだけは昔の生活に戻ることが出来るのだ。

「シラ! シラ・ラフィート!」


 騒音ともとられそうな大声で、先陣を切ってきた男がシラのもとにやってきた。そしてダリシュの指令書をシラに突き付け、これは本当かと聞いてくる、のではなく。シラよりも色味が強い金の髪が窓の光に輝くころ辿りついたシラの胸倉をつかみ上げた。


 ああん、こら兄ちゃん、金貸せや。なごろつきのごとく、せっかくの整った顔を歪ませて、鮮やかな金髪の侵入者は顔を突き付けてくる。


「お前は何をしているんだ。予言師の仕事はどうした。間抜けも大概にしたまえ間抜け! 予言師ならこうなることくらい気づいていたんだろう! なぜ逃げんのだ。家族の分も生き延びるのではなかったか!!」


 いつぶりか、過ぎた年月を数えるのも面倒なほど遠い昔によく共にいた友人が、そう怒鳴りつけていた。なつかしい顔だ。

 優秀な騎士であるのに、反乱軍の二人が侵入したときに手ひどく反撃され怪我をしたと、話にだけ聞いていたが。元気なようだ。

 場違いに懐かしんでいると、ルーファスは喉をそらせ、ためにためた頭突きをシラにくらわした。

「え」

 視界が天を向く。白と赤の、美しい天井。


 ぐわんぐわん、見えるものが歪んで回転した。

 あまり動きたくない状態のシラを、しかし懐かしい友は頭をひっつかんで、あるべき位置に無理やり戻した。

 意識が飛んでいきそうだ。

「っ……」

「っ……、ではない阿呆! 目が覚めたら逃げるぞ。来い!」

「る、ルーファス」

「なんだ!」

「俺は、逃げないよ」

「それが反乱軍の指示か。とんだ悪党だな奴らは!」

「違う。ルーファス、聞いてくれ、俺は」

「違うだと。お前の意思で死ぬつもりか! さらに悪いな! ともかく逃げるぞ。みすみす友を死なせてたまるか」


「ルーファス」と自分を部屋から出そうとする腕に逆らいながら、シラは耳をすませた。予言は聞こえてこないか。

 どうすればいい。

 こんな状態を聞いていない。


 攻められる前に、助けが来た。


 そんなこと、予言は言わなかった。


「放してくれルーファス。俺は今日、ここで、この城で、ダリシュに殺されなくてはならない」言われなかった未来、というだけなのだろうか。

 家が襲撃された時のように、予言にうたわれることのない部分の未来が起きているだけだろうか。ならば、あの予言の未来を実現するためには、何としてもここにとどまらなければならない。そして予言を実現させなければ。


 だが、だが


 何かが違う、とも。


 

「は。何を言っている。頭までおかしくなったのか。ダリシュは来ないぞ。奴は高みの見物だ」

「高みの、見物」

 捕まったころにやってくる、のだろうか。

 

 どういうことだ、と一瞬力が抜けたシラをルーファスは逃さず、一気に力を込めて外へ引きずっていこうとする。止まっていた視界が動き始めた中で、崩れた体勢を整えながらシラは。


「それで右大臣は今、どこにいます」


 足を突っ張って聞いた。ぴたりと視界の動きが止まる。

 鮮やかな金髪の友人は振りかえって、苦々しくシラをにらむ。


「知らんよ! 城にはいるようだが、どこかでびくびく小っさくなっているのではないか。あの小心者が。指示だけが入ったのだ。予言師は反逆者だなどと、あの小悪党めどこから聞きおったのか憎たらしい! 速報は私が握りつぶしたが、すぐに他の指令書にも写るだろう。早く逃げるのだ」

 言い終わったとき、ルーファスは転びかけ、動揺する声を聞いた。


「ダリシュはこない?」


「どうした」

 不意に抵抗をやめたシラの腕を、ルーファスが引く。

「何をうなだれている」

 おい、と言いながら、引っ張っていた腕を解放した。

 高級そうなやわらかい服を着た友は、見かけだけは変わらず貴族の象徴のように美しく光の中に立ち、しかしその内面もまた貴族の象徴のように歪んでいるように見えた。瞳に映るのは何だろう。


「シラ、動け。おい」

 無抵抗の人間を無理やり引きずっていくのは、相手を軽視する行為であり、騎士道に反する行為だ。

 廊下に足音でも聞こえない限り、引いていくことはできない。

 それに、気になる。久しぶりに見た友の顔が、最後に見た家族を失った時のように呆然としているのだ。


 何だ。


 ルーファスは、開きっぱなしの扉の外をちらりと見ながら。

「シラ。大丈夫か」

 

「攻めてこない?」

 貴族校でも一二を争う美しさと言われた顔はこわばって、心なしか血の気も引いている。

「そんな、はずは」


「シラ、おい、シラ。気をしっかり持ちたまえ。シラ・ラフィート」

 紅い瞳の青年は、泉に沈んでいきながら息苦しさに気づいていない人のように、地上の声の届かない場所で力なく水面を見上げている。そして赤と白の天井など見ていない目でつぶやいた。


「俺は、俺は、今度は予言まで、失うのか」


 呆然とする声を聞いて、ルーファスの手が拳となり、力が入った。


「お前……」


 まさか、予言の声を、家族のようにでも思っていたのか。アルザートを逃げるくらいだから、憎んでいるのかと思っていたが、憎みながらもいつくしんでいた、それが心の底の本心か。


 予言のせいで、家族を失ったというのに。


「バカが。何にでも優しくすればいい、というものではないぞ」


 それともお前は、それほど孤独だったのか。


「私たちのことを、思い出してはくれなかったのか」

 予言師になる前からいた友のことを。心配している友のことを。


 紅い瞳は聞いていない。


 予言師用のただただ広い部屋に、声は霧散して消えた。なんと余白の多い部屋だろう。


 開けたままの扉から続く廊下はしんと静まり返り、誰が来る気配もない。聞こえてくるのは、窓の外からの戦いの声だけだ。


 なんと何もない部屋だろう。


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