乱の32 三半規管
「風が、戻ってきたね」
しんみりとした気配は、しかしくすりと笑う声でうすれた。
「そろそろイバルラの外海を通るかな」
動き始めた船の進行右奥には陸地が見える。肯定を求めて彼女は背の高い人を見上げ。
「あれが?」
「いいえ」
美羽は階段を一段踏みちがえた気分で「え」と言う。
「違うの?」
今は東に陸地があると思っていた。と言うと、赤茶の瞳は陸を見て、怜悧な眼差しをほんのり笑ませながら言った。
「あれは孤島です。大陸ではありません。イバルラの地は東。あれは北」
「え、いや、待って、今は大陸の西側を北上しているんだから、右手は東じゃないの?」
「先ほどゆるやかに進路が曲がりました。潮の関係により今は北西へ舵を取っています。右手奥は北です」
ベリアルは方位磁石を取り出し、金の瞳が覗きこむ。針は日焼けた彼が言ったとおり陸地を北と示している。
「本当だ。……海でも方向音痴は変わらないのか」
ぽつり呟くと、フッと小さく笑われた。
「それでもイバルラが近いことは確か。何があるか分かりません。中へ」
「……あ、ああ。うん」
白い顔の目が泳いだ。べリアルは顔をしかめる。
「…………美羽殿。もしや」
「ね、ねぇべリアル。鎖国中のイバルラがどうなっているのか、ここから情報を集めるのも良いとは思わないか」
溜め息が落ちた。
「無茶だと言ったはずです」
「それは分かっているんだけれど……」
気まずげな目の泳ぎにベリアルが疑わしさを胸に広げていくと、泳いでいた目がすいとベリアルに向いて、意を決した色のそれは意を決した声を連れる。
「……カーサムに行くときに試して、その通りだったよ」
いつのまに、と言う顔の前を横切って、美羽はアハハとごまかし笑いながら船内へ続く扉に歩いていった。視線で追って、ベリアルは彼女が立ち止まることを察した。
「それでもね、分かったことがあるんだよ」
彼女は止まって振り返る。
「あそこでは魔術が使えないんだ。私の……神の力もね。入り込めないんだ。拒絶されているというのかな、あれでは中でも自由にはできないだろう」
「神の力も、ですか」
「ああ、魔力と私の力は似ているみたいだよ。霊力とでも言うべきなのかな。魔力は魂から溢れ出た『余分な力』であるのに対して、神の力は魂や霊魂なんかの命の源そのものの力。どちらも霊力と読んで間違っていないと思う」
「……」
異界の男の顔が渋くなる。美羽はおかしそうに笑った。
「まぁこの世界には霊や魂の概念のない人が多いから、分かりづらいかも知れないけれど。そうだな、命の大元、とでも思ってくれれば良いかな」
そしてまた美羽は甲板の広場を横切っていく。ベリアルの顔はさらに渋くなっていた。
「命を使っているのでは、寿命に影響があるのでは」
「ははっ、大丈夫だと思うよ。たぶん」
あはは、と美羽が笑う。そのまま穏やかに続きそうだった笑いはしかし、はたと止まる。まるで背中をつつかれ、何かを落っことしたように。その落としたものは良いものなのか悪いものなのか、金の瞳は不思議そうに海の先を見る気配が、嬉しそうにも……(なぜ嬉しい)思えた。けれどもなぜかそれは忌々しげに変化して、睨むように東を見るのをベリアルは静かにひかえて見守った。彼女が見ているのは東の海の先にある大陸で、国はおそらくアルザートだ。
「……」
アルザート。そう確信して、なぜ、と思った。いま東にあるのはタルタスで、そのさらに先にあるのはカーサムの北端でありアルザートはかすかに引っかかるだけしかない。けれど間違いなく彼女はアルザートを睨んでいるとそう思う。なぜ、なぜ?
「……」
「……早い」
困惑するベリアルの耳に、困惑の色をした美羽の声が聞こえた。さらに「ベリアル」とその声は呼ぶ。
「予定変更だ。スイラで一度補給したらアルザートへ行く。そう皆に伝えて。船長には私が言う」
「御意」
なにを理由にしてか分からないが、ベリアルは従って頭を下げた。
それから。と美羽は眼差し(まなざし)するどく大陸に向け。
「武器の手入れも入念にね」
北へ徐々に進路を変えてきた船の進行右手に見えてきたタルタスの陸地は、イバルラにさしかかって砂漠ではない草地に変化していく。
「最高速度でいけるよう私も助力する。……酔うなよ」
大陸を眺めていたのも束の間に、歩きだして言う美羽に、ベリアルは短く応じた。他には何も言わなかった。
自分には見えないものが見えるらしい美羽の目に何が映っているのか。全く気にしない無関心なベリアルは、だからこそこの人の傍にいられるのかもしれない。少し離れた船の上で、なんとなく二人の方へ耳を傾けていた騎士はそう思わずにいられなかった。彼や他の騎士などが美羽に何が見えるのだと聞くと、軽くごまかされて距離を置かれてしまうのだからあの二人は気の合う主従なのだなと、ほほえましい。
ぼうっと、そんなことを思いながら騎士は陸地を見た。
高い山々に穏やかな太陽の光がさんさんと降り注ぎ、今にも家畜の声が聞こえてきそうな青々とした山の隙間から微かに見える青い平野は故郷の牧場に似ている気がする。頂上の白と下部の緑がとても綺麗だが、あそこは世界を拒絶する国イバルラで、綺麗と思うのはちょっとしゃくだ。
いつも我が国にちょっかい出してくるあの国には、一度行って文句の一つも言ってやりたいものである。なぜか入れずに無理なのだが。
しかしそんな考えも忘れるくらい、航行は猛烈なものになった。
おかげで船の通った後には魚の道が出来ていると、隣で背中をさすってくれている加害者が教えてくれる。
「うぐ……う゛」
「はは、みんな三半規管が弱いんだね」
「さんはんきかんって、なんです…ぐ……うぅ」
船のふちから今日のお昼ご飯を吐きだして、熱が引いていく全身を感じながら騎士は今日は減量の日になりそうだと思いながら波を見た。船が切り裂いていく波は、今はちょっと船底よりずっと下のほうにある。
「うあぁ……」
浮かんでる。浮かんでる。宙に……ああ。
だんだん高度が落ちていく船のはしにつかまりながら隣の笑い声を聞き、騎士は温度差というものを知った。
いいよな。加害者は心の準備が万端だったんだから。船が飛び跳ねても冷静だよな!
「ははっ意外だな、剣術だってバランス感覚が重要だろうに。船酔いは別問題なのか。明日はもうすこし加減しないといけないかな」
明日もこの調子のつもりだったのか、と騎士は口をひきつらせて、一瞬だけ吐き気を忘れた。隣からは楽しそうな女の声。
「ま、今日だけはがんばって」
「……まさか今日一日、ずっとですか」
「はは、大丈夫。日が沈んで、昇るまでだから。短いよ」
「長い! です……ぐ、く」
船の手すりにすがって吐き気に耐え、騎士ラルドは。
「船は……休息の時間だと言っ………俺たちも休ませ、て、ください」
「ああ、大丈夫。危険だと判断したらちゃんと失神させてあげる」
「そんな休憩いやですぁ……げぇ」
「ああもう、口開いちゃ駄目じゃないか。ただでさえ一番餌をあげてるのに」
ラルドは青ざめまがら。
「……魚は太って、俺はげっそりか、う…うぅ」
「……ごめんね」
すまなそうな声がした。
そんな声を聞くと背中をさすってくれる手もいっそう優しく感じるから不思議なものだ。なんか許したい気になる。しかしラルドは激しすぎる風に髪を引き抜かれそうになって正気を取り戻し、しっかりこの場に根づく意識で言う。
「加害者の優しさが辛いっですっ」
「はは、それは申し訳ないね」
加害者か。とこれは感慨深げに反復して、くくっと美羽は小さく笑った。それはまるで花を摘んで笑う人のそれのように、花を害しながら楽しい気持ちでいっぱいでありながら、それを花自身が許しているのと同じにラルドは笑った。口で抗議をしつつも、思いは互いに言葉遊び。
ラルドもまた、ラルドだからこそ美羽と共にいられるのかもしれないと、彼は心の端で思いながら自嘲もした。
「ごめんね。がんばれ」
「ううっ」
励ましの言葉とは本当に励みになるのだなと、時間と共にラルドは知り、それをしっかり認識したころには船酔いが落ち着いてきて、女神は別の船酔いのもとへ移動した。
また抗議を受けながら笑う声がしてくる。
船に吹き付ける風は強いが、波はすでに湖面のさざ波程度にしか見えない現状は異常で苦行。船乗りにも縁にしがみついている者が居るくらいの航海だった。
女神がその力で船をかっとばしているらしく、宙に浮いたりしながら走る船はもはやトビウオのごときだ。乗客で無事なのは女神とベリアル隊長だけだった。
さすがは隊長、振り回されるのになれている。
「今日だけだからさ。ま、いい経験だと思って」
となりの騎士に話しかける女神の声がする。
振り回す方は元気なんだな、とラルドは手放せそうにない意識で思った。
ちょうどそのころ、アルザートでは茶色の髪の双子が反乱軍に連れ帰られるのが時を同じにする。
リルマル救出から数十分後のことである。
「凄い子達だわねぇ」
と地下の食堂でリースはいつもの定位置にいながら感嘆と共に呟いた。夕食時よりは少し早い時間にここ地下食堂では少し変わった大食い合戦が繰り広げられ、周囲の人々は口をあんぐりとさせたり興味津々の目であったりとそれぞれ違う顔で楽しそうに華奢な少女二人を見つめている。
「おかわり! お願いしますわ」 「わたくしもお願いしますわ」
渦中の人物である自己申告によると17歳である少女二人はもくもくと、かつ上品に食を進めていく。器用なことだ。かちゃりと静かに皿が休みなく積み重ねられていく。
食はとどまることがなく、食糧を食いつぶしてしまうのではないかと心配してしまう。
「すげぇな。成長期の俺より食ってるぞ」
カウンターでリースに対面しながらグレンは言い、自分の空皿を彼女に手渡した。
「食糧庫の警備もした方がいいかもねぇ」
皿を流し台に片づけながら緑の瞳が苦笑する。
ここは悪政に難儀している国であるのだけれども、幸いにして食糧について反乱軍下では裕福な国となる。彼らがアジトとしているこの地下施設は今では想像もできない高い文化を持った古い時代の物であり、特殊な機能が備わっているのだ。
大広場を中心とした住居の並ぶこの地下と、地上との間には農場がある。地上階、農場階、住宅階、とこのアジトは三層に分けられる。
農場階は日の光が入らないというのに植物が育つ不思議な空間。使用している彼らにも原理は不明のままであるが、不思議なことにその地下室の灯り台に火をともすと、太陽のような輝きで植えた苗を照らしだし、そこで野菜や穀物を栽培できるおかげで彼らが食に困ることは無いのである。
「おかーさん。わたしもお腹すいてきた」
そう言ったアリスの視線の先で、双子はもくもくと食事をすすめていく。ダンクルートが楽しそうに双子のそばに立って、おかわり! と声がするたびにご飯やおかずをよそっていた。その近くでジャックがわたわたと空になったコップに水を注いだりもしている。
世話好きダンクと子供好きジャックの組み合わせは、双子の姉妹にありがたがられて「ありがとうございます」の言葉が良く聞こえてくる。
「アリスもご飯かい。はいよ、なら手を洗っておいで」
「はーい」
「……あーーーなんだ。その」
グレンは何か恐れるような顔をしながら、手洗いに行ったアリスを見送りながら言う。
「食欲が出るのはいいことだけど、アリスにはああなって欲しくないなぁ、オレ」
「うふふ、母親としてはいいと思けれどねぇ」
と二人の視線が向かう先で、茶髪の少女がしあわせそうにご飯をほおばっている。
「おかわり! お願いしますわ」
リルが10杯目のおかわりを頼んで「おう。よく食うなぁ、よそいがいがあるぜ」とダンクルートが笑う。
「俺はダンクが意外に子供好きなのも驚きだよ。強面なのに」
「子供がいてもおかしくない年だしねぇ」
「いねぇの?」
「意外とか言っておいて、子供がいると思ってたのかい? 妙なやつだね。だけど、あいつに子供はいないよ。ダンクは世界を旅する根無し草さ、子供がいるとしたら父親は死んだって言われて育っているだろうね」
へぇ。と返答があったとき。
「おかわり。お願いしますわ」
マルがリルよりは少しだけ大人しくおかわりをねだった。リルよりは大人しい声だが、それでもやっぱり10杯目のは同じ。今度はダンクルートではなくジャックがおかわりをよそった。
はは、とグレンは笑いながら。
「そういや、カイムとクローは?」
「クローはおねんねだよ。カイムは執務室じゃないかい。動いた気配はないしね」
「ふぅん……あのさ、ずっと気になってたんだけどさ」
「なんだい」
「王様のいない今のうちに城を攻め落としたらいいんじゃねぇのか。簡単だろ」
「馬鹿だね。それで国民が認めてくれると思うのかい。皆が皆、哀れなアルゼム王に同情するだろうねぇ」
「ははー逆効果なのね」
「仁義にもとる行為とも言われるだろうねぇ」
リルがさっきとは違う器を空にしておかわりと言った。よそわれたのはリース作のピリ辛野菜の炒め物。
「じゃさ、どうしてリースは反乱軍にいるんだ? 戦争は反対なんだろ」
ありがとうございます。とリル(たぶん)の声がするのに重なって、リースの「おや」という声がする。
「今日は随分と聞きたがりだねぇ。まぁいいさ。あたしがここにいる理由は簡単だよ。儲かるだろうと思ったからさ。ジャックの息子達が反乱軍を作るといったときに、手伝ってくれと言われたから、あたしには国に刃向かう意思はないけれど商売としてなら良いかなってね」
は? と灰色の人が。
「ジャックの……むすこ?」
リースは目を見開いて灰色の目を見返す。片手でカウンターに頬杖をついている彼女の、長い金髪が一房落ちた姿は艶っぽく、見つめられてグレンは場違いと思いながらもちょっとドギマギした。美人はそれだけで凶器だ。
「反乱軍を集めたのはジャックの息子さ。カイムはその陣頭指揮を執っていただけで、実際に動いていたのはロウとケミスだよ」
聞きながら、隣に人が近づいてきている気配がした。
「へ、ぇ……っと待て。そのロウとケミスって今どうしてるんだ。俺しらねぇぞ」
隣の席に人の気配は来て、椅子をきしませる音をたてるが、視界の端にまだ姿は見えない。
「ああ、二人は」
「おかーさん。アリスもごはんー」
突然、声がした。グレンの隣の席。気配の主か。
見ると金髪の子供が天使の笑顔で見上げてきていた。
「おや、お帰り」
ふふ、と笑ってリースは食事が乗った皿をカウンターの中から出した。皿には複数の料理が少量ずつのっていて、その分、皿が大きい。グレン経由で受け取ったアリスの手は、皿の重みでズンと下がる。
「おわ、大丈夫か。重いんじゃないか? おれが持っていってやろうか」
「だいじょうぶです。おもくないよ」
はらはらと気の休まらないグレンなんか気にならないと、アリスは皿を持ちながら笑う。
「ねぇ、おかーさん。ごはん。双子さんといっしょに食べてもいいかな」
きらきらと輝く瞳にあるのは期待。その輝きはリースにも移る。
「行っておいで。ちゃーんと御一緒してもいいですかって言うんだよ」
「はーい」
声を残して去っていく小さなアリスは、茶髪の双子に近寄っていくと「はじめまして」とはにかみ笑顔で挨拶をする。二つの同じ顔は笑顔になって少女を迎え、円卓に座る二人の間にアリスが座るとちょうど三人ともくせっ毛なためか、まるで姉妹の末っ子のよう。
ほほえましく眺めていると「さて」とリース。
「さっきの……ロウとケミスね、死んだんだよ」
きびきびした声がグレンの頭をつらぬいた。
ああ、やっぱりか。
「反乱軍が世間に知られてきたころ国に捕まったんだ。それからカイムがアジトをここに移して、今にいたるというわけさ。ここに来てからの仲間には知らない奴もいる。あんたみたいにね」
「……そっか」
カラン、と水の入ったグラスがなる。グレンの視界にある緑の目は、つった目をさらにつらせて。
「だから男は嫌いなんだよ。皆を泣かして自分は満足するんだろう」
「うっ」
「嫌いだけど、感謝はしてるんだ」
ふふ、と笑う声がする。
カラン、と氷がなるのと一緒にグレンの心もカランと潤う。
心を溶かす、許しの声。
「リース……」
「感謝しているんだ。ありがたいと思っているのさ。皆を誇りにも思ってる。だけど、つらいのはつらいのさ。複雑だよまったく、迷惑だねぇ」
手の中にあるグラスが動いてカランと氷。水がつぎ足されていく潤いの音にかぶって聞こえてくるのは少女三人の笑い声と、その周囲からの重低音な笑い声たち。高低差が入り混じるそれらはひとつの音楽のよう。
美貌の女主人はカウンターにひじをついて笑う。
「……生きてほしいんだよねぇ」
ぽつりと言った。




