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乱の30 恋を知らない


 竜が、鳴いた。

 くぉん

 空気が、空気そのものが震えて形を変えていくかのような神秘的で透明な、空気の中にあって水中を感じさせる音。眠りから覚めたらしい紫の瞳が、白目がないゆえに宝石そのものを丸々はめ込んだような目で美羽を見る。宝石よりもずっと透き通って優しい紫はセヴィルのものよりずっと大きくくりくりとしてつぶらだが、それが今は少しとがった形になっていた。

 くぉん

 竜が鳴く。それは竜が見えないようにした美羽にさえ聞こえるもので、けれどただ風が大きく唸ったような音でもあり、テハは驚いた様子さえなく立っており、背後のベリアルからも何の動きも感じない。

(聞いた話では、カーサムの竜が現れるのは海ばかりというから、陸上ではこうなるから海でしか会えないのかもしれない)

 竜を常ならざる目で見ていると、透明な竜から潮風のような、ちょっとだけ肌をつつきながらも、ふわりとした気配の気が流れてきて、それは美羽の周りをくるりくるりと観察するようにまわっては竜のもとへと戻っていくのが見えた。

 まいったな。と美羽は眉間を寄せて苦笑する。

 十一段上の王を見ると、セヴィルの弱った目が背後をちらりと見た。

 くぉん

 竜の声は、安心した気配のものに変わった。

 ふ、と美羽も安心した吐息をついて、胸のうちに溢れてくる優しい気持ちを表情に浮かび上がらせ笑って言う。

「……陛下は、大丈夫ですよ」

 紫の、弱った目がきょとりとした。

「陛下は王だけれど、王でなくてもやっていけます。それだけの強い運気を持っていますから。大丈夫ですよ」

 それは王だけが持っているものではないけれど、と思いながらも、強い運気であることに変わりはない、と言葉に意思を強くのせて王を見た。

「幸せになれるのは、幸せになろうとする人だけです。何かを目指すと、それを目指して行動しているだけでも幸せな気持ちになれますから。だからこれからは幸せになる可能性が出てきましたね、陛下」

 王の目に、小さな光がともったように見えた。

「今までは可能性さえありはしなかったのだから、良い傾向です」

 王の目の光が、ちょっと弱まって苦笑する。

 しまった。と美羽は思って、まぁ良いか、と笑った。

(笑える強さがあるとわかった。それで十分……じゅうぶんだ)

 好意を持たれなくてかまわない。

 怯えられてもかまわない。

「それで、私の質問を分かりやすく言いなおしますと」

「質問……?」

「まだ私の質問の答えをもらってませんので、陛下、教えてください。神であることは幸せですか。先ほどの幸せでなかったからかという言葉を真に受けて、神は幸せでないと決めてよいですか。その認知を世界に浸透させて良いでしょうか。人としての自覚は、自分が神と思っている者にはきついですか」

「……かまわぬと、思う」

 紫の瞳を閉じたり開いたりしていた竜が、おもむろに顔をあげた。

 王の手が、一見すると手すりから外れてだらりとしたように見える手が、竜の鼻先を撫でてまるでなだめるように穏やかなほほ笑みで彼は言う。

「わしは苦しかった。今は、違う……それが答えぞ」

 はっきりと答えを言えないのは、何かの危機を察してだろうか。

「そうですか」 

 美羽は金の瞳で竜を見て、黒い髪をさらりとゆらすと鼻を鳴らせて笑った。

「それはよかった」

 では失礼。

 爛爛らんらんと、金の瞳はぎらついて、頭を下げるのは単なる形式にのっとっただけという感を消しきれない強いたくらみの炎を宿しながら彼女は背を向ける。

「ミウちゃん」

 セヴィルが、何かに突き動かされるようについ言葉を吐く。

「はい? 陛下」

 黒い髪と背中がセヴィルの視界から消えて、きらりと光る金の瞳が彼を見上げる。

 まるで太陽のような目。

「何を……するつもりかえ」

「……そうですね、陛下には言っておきます。私は別に、皆さんの考えを否定して心のよりどころを奪う非道はしませんが、壊れた仕組みは正そうとは思います」

「仕組み?」

「予言ですよ。どう変わるかはわからないし、良いのかどうかも分からないですけれど、私はあれをどうにかしたい。あれは、皆が考えているようなものじゃない」

「どういうものかい?」

「それを言えるほど、言葉巧みでないのが心苦しい」

「……」

 くすくす。美羽は笑う。

「なに、今まで自分が何に役立つかばかり考えてきた。少しくらい、力で遊ばせてくださいよ」

 その金の瞳にともる光の輝きにセヴィルはぞっと冷たさを感じた。そうだ、この目は、この無条件に頭を下げたくなる威圧の目は――怒った竜に似ている。

「私のすることは悪いことかもしれない。でも、家に帰ることもできないでがんばる私を、少しは遊ばせてくださいよ。遊びがない世界は苦しいだけでしょう。私が苦しんだら、どんな影響が出るか知れたものじゃないのですから、少しくらい、好きにさせてもらいます。その影響がカーサムにもあるかもしれない。だからどうかお気をつけて……その時は陛下が指揮をとるとよいと私は思いますが、官吏がどう反応するか分かりませんので……見ものですね」

 カっと側近テハが顔を赤らめるのを、美羽は笑って肩をすくめることで無視し、王へ優雅に一つ礼をとった。

「ではこれにて、本当に失礼いたします」

 頭をあげて、背を向ける前に見えた青い顔をした王を見る。見慣れた青い顔。

 これで何人目?

 背を向けて、青光りする石の扉を開けた。

 ばたん、と大きな扉が閉まって、扉を守る兵士に微笑ほほえむと廊下を進む。

「なぜ、おびえる」

 ぽつり、つぶやいても答えは分からない。背後のベリアルはただ静かだ。

 けれど彼も、たまに顔を青くするのだ。

 なぜ怯える。なぜ。

 自分はただ、楽しくて目にもそれが宿るだけなのに。

 ――予言がどうにも気にかかるのは。もしかしたら予言が気になるのではなくて、それを神聖視する人に一泡吹かせてやりたいと思って、気になるのかもしれない。

 それか。

(シラが……気になるのか)

 生まれてこのかた恋というものをしたことがないが、想いを向けられて心苦しくなかったのは初めてだった。それはシラが、美羽を殺すことを考えていたから心を向けてはならないという思いとともに美羽を見ていたためなのだろうか、そのため応えられない罪悪を感じずにすむと無意識に感じて、彼の好意は嫌でなかったのかもしれない。

 理由は分からないし、特に気にもならないのでそれ以上彼女は考えなかったが、シラが予言師である以上、死にでもしない限りまた会うことになるだろう。

 シラを、予言師という職から引きずりおろしてやるために。


 そしてカーサムの潮風に髪をべたつかせながら、美羽たちはスイラの町を進んだ。港に行くためだ。

 町には野菜をちょいと冷やすくらいの小さな水路がたまにあり、世界一水が豊富な国の首都なのに水の都とは到底よべなくて、なるほどだから水の都と呼ばれるのはスイラの首都サリアと、タルタスの首都でありオアシスの町・レルネだけなのだろうと分かった。いまだにサリアとレルネのどっちこそが水の都だという決まりはつかないが、その争いにカーサムの町名がないのは、水がありすぎるために、それを魅せる街づくりはされていないからなのだ。町には井戸が所狭しとどこにでもあって、それがちょっとおしゃれ。貞子がでてくる様子はとうてい思い浮かばないような美しい姿には、人が落ちるような穴がなく、簡単な手動で水をだせるゼンマイ仕掛けがあった。

 それらを美羽は田舎からのおのぼりさんのような感嘆しきりの様子で(スイラから来た時も見たのだが)眺めつつ、カーサムは我がもの顔のタルタスからの重税に疲弊している人々に少しの笑顔を浮かべさせながら港につく。港にはベリアルを除いた騎士隊の面々が手配してくれていた船が、準備万端でそこにあり、早々に出航できた。沖あいで人目がなくなるまでは、カーサムらしい紫の旗をたなびかせながら進んでいく航海の途中で、美羽はベリアルと話すことになる。

 スイラからの指令が来たのだ。

 ベリアル隊長率いる第三騎士隊を、スイラの防衛隊に戻すと。

「……代わりにフリティアンの隊をつける、か」

 ――扱い難い奴を押し付けてきたな。

 美羽にとってはベリアルをきっかけに話すようにはなった友人であるから人選は良いとしても、今頃になってスイラが、いや左大臣がベリアルを引き戻すということには意味があるだろう。おそらくは。

 ――べリアルに変わる暗殺者がいないのか。

 スイラのいらぬ政略のうちに暗殺があげられる。

 いらぬと言われる理由は、左大臣に代われる力をもつ者ばかりを殺しているからである。そして暗殺者は普通、存在しえない。スイラでは王が、暗殺するくらいなら実刑にできる資料を探れ、という方針のために暗殺者は育てられていないのだ。

 それでも何も考えずに命令を聞くような暗殺者向きの人間がいるとすれば。彼なのだった。

「……さてさて、私は良いにしても、べリアルはどうなんだ」

 美羽は船上で風に当たりながら、長いこと自分の好き勝手に付き合ってきてくれた部下を――いや、友人か。それを探した。いくら護衛とはいえ、船上を少し見ればどこかに味方の騎士がいる船では、べリアルだって美羽につきっきりというわけではない。

 だが、彼は美羽と離れる命令に関して、何と言うのだろう。

「……あっさり去ると言われたら悲しいな」

 命令には絶対服従の人だから、命令は受けるだろうけれど、少しくらいは苦心している様子を見せてくれるだろうか。



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