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乱の29 美羽とカーサム王

 自分は夢を見ているのではないか。

 未だに、ふと疑う心が沸き起こってくる。

 ただ単に目をあけているだけの視界に、普通では見ることのできないものが見えるようになってから、美羽のその思いは強くなった。いや、だからこそ生まれたといえるかもしれない。

 夢なら醒めてほしい。たまに思う。

 思いが沸き起こるのは、自分にしか見えないものを見ないように制御していることに、疲れた時だ。

 ――面倒。

 そう思うと力が抜ける。単純かつ重要な思い。

 王の間に来た美羽は、見えるべきでないものを見てそう思い、見るものを、見えないようにすることをやめた。金の瞳は、さまざまなものを映して、世界は雑然としながら鮮やかだ。

「来ると思うていたよ。ミウちゃん」

「…………」

 美羽ちゃん。と呼ばれるのはくすぐったい。

 それと同時に泣きたくなるからやめてほしいとも少し思った。まるで家に帰ったみたいではないか。友達に会ったみたいではないか。

 だがこの王の間で泣いてはスイラの問題にもなるかもしれなく、困った笑顔で隠すだけにした。

「……アルザートの、美帝はどうでした。陛下は彼に会うのを楽しみにしていましたから、感想が気になります」

 言いながら美羽は青と緑が入り混じる透明なものを見た。

 紫の瞳をした王の背後、縦長な玉座の背後にある空間に、竜が見えている。

 穏やかな、凪の海の気配をもつ竜だ。

 それはもちろん背後にかかった絵ではなく。絵の金銀輝かしく少し青と緑で着色された、きらびやかな姿とは違う、半透明の鱗をもつ竜で。

 外からはいりこむ光に反射する鱗は、場所によっては虹色に輝いている。竜はきっと紫だろう瞳を閉じ、静かな寝息を立てていた。

 それが見えないように制御して見ると、竜の寝息は部屋を流れる風の音にしか聞こえなくなる。王の背後にあるのは絵画だ。

 とても美しい、自分にしか見えない本物。

 人々と分かち合えない感動。

「うむ。噂と違いよく出来た青年だったの。真面目な心根がよう分こうた」

「噂など真に受けるものではありませんからね。しかしまぁ、何か心変わりがあったのかもしれませんが」

「ふむ、そうかもしれぬ。ほんにいい目をしておうた。さすが数年に渡って恋人を追い続けているだけのことはあるの」

「信念ですね」

「羨ましいことよ。ミウちゃんと同じだの」

「はは……私の場合は、つい最近まで気づいていませんでしたけれども」

 見えるべきものでないものが見える。美しいばかりではない世界。

 たまに気落ちして、すべて投げ出したくなるけれど、大概にして美羽は勝気だった。自分の力が何なのか、何が何でも見極めて使いこなしてやると意気込んでいる。

 それは彼女には当たり前の行為であり、いかに無茶なことでも当然のこと。だから昨日、セヴィル王との面会の時に、当たり前のように言葉にした。王が「どうしておぬしは、そんなに気張って生きているのかえ。疲れぬのかえ」と問うと、美羽が「自分という存在の支配も完璧にこなせずに、何ができますか」とそう言った。

「それはずいぶん強い信念だのぉ」と言われた。

「信念?」そうだったのかと思った。信じる念と呼べるほど揺らがぬ強い意思にまで昇華していたのかと。

 自分に自信がもてた気がした。


「気づけてよかったのう。気づかぬままでは勿体のうよ」

「気づいたからといって特段に変わるということでもありませんよ。曖昧だった進む道がはっきり見えたような気がするだけのことですから。陛下も気づいていないだけで持っていらっしゃる」

「あるかのう」

「ないわけがありません。何もしないでいたら見つかりませんけれど」

 あるかのう、だなんて言っていないで、さっさと見つければいいのだ。

(歯がゆくてしかたない)

 この王とて譲れない思いがあるらしいのを、美羽には見えて、けれど他人である美羽にはそれが何かまではよく分からなく、ただ歯がゆい。分かるとすれば、それは海にかかわることかもしれないことだ。

(でも海ではなく竜かも知れない。もっと別の、海つながりの何かかも分からないんだ)

 はっきりとは分からないから、美羽には助言ができない。だが見える。

 人には気がある。日本ではオーラと呼ぶものがそれかもしれない美羽にしか見えないもの。

 心の気、魂の気、先祖からの気、周囲の気。それは人により流れていく方向や形が違い、色も異なる。たとえばベリアルならばそれは守護の色で、周りを守るように流れている。たしかに彼はとても周りを大切にする。

 そしてセヴィル王の気もまた何かに向かって流れている。二人だけではない、いかに自己防衛や自己批難が強い人であろうとどこかへ向かって気は流れる。人のそれは留まることを許さない。必ずどこかに向いている。

 問題は気付く心の準備があるかどうかだ。突飛な何かを受け入れられる器を、育てているか否か。

 面倒くさそうに、美羽は鼻を鳴らせた。

「その話は置いておきましょう。いずれ必ずみつかります。本日、私はここにスイラとアルザートの同盟を知らせに来ました。これはカーサムとスイラの同盟とも曲解できますので、何かの時はよろしくお願いいたします」

 頭を下げた。一つに縛ってある黒髪が、さらりと背から眼前に落ちてきた。

 女神とはいえ、いち官吏。王が立場は上である。

 深々と下げた頭をあげた美羽は、王を見てくすりと笑う。

「だからスイラは惜しむことなく助けますよ。カーサムも、アルザートも。恩を売るでもなく、人助けをするためだけに。まさに徳国というやつです。我が王は話のわかる人で大好きです」

 心酔するように「我が王」と言うけれど、その喜びに満ちた声は崇拝というより、願いどおりに動くおもちゃを見つけた子供の喜びようのようで、ベリアルが背後でため息しそうになっていると、セヴィル王がほっほっと笑った。

 彼とて官吏に操られる王であるのに、物好きな、とベリアルは思うが、この金の瞳の人のように悪意なく純粋に、嬉しそうにして操ってくる官吏は珍しいだろうとも思った。官吏たちは大概にして悪いことをしてもしていないように気を回すから、おそらく王に対して最低限の遠慮だけしているだろう。それはあからさまな敵意よりやっかいかもしれない。良心を感じてしまって、憎み切れなくなるのだから。

 だから、それを言ってしまう言葉は面白かったのかもしれない。

「ミウちゃんのスイラでの立場が目に見えるようだわい。かなり邪魔に思われておろうよ」

「良くおわかりで。私は悪人に嫌われやすいたちなんです」

 ほっほっ、と王は笑い、美羽は肩をすくめた。

 ――始まってしまった戦争を、始めなければよかったのだと怒るのは未来にするべきだ。

 スイラで美羽はそう言った。

 そしてつづけて。

 進行形で起こっている今は、より良い未来のために利用するのが最善ではないのか。良い未来になる勝利で終わらせる支援をするのは苦渋の正義ではないのか。

 ――自分が指導者という名札をつけて恨みを一身に引き受けるから、結果だけ早く出す手助けをさせてください。

 頭を下げて言った。今や家族などいない身、捨て身の覚悟など簡単にできたのだ。レオンは自分で育てずにスイラに預けてあるから、家族の情もないと言えば巻き込まれることもないだろう。いざとなれば、育ての乳母と共にどこかへ隠せばいい。

(自分には予言が聞こえる、とさらに言えば王ばかりか右大臣ケザンも許してくれたけれど。左大臣ジェームズが結局許してくれなかった)

『それでタルタスが勝ったら我が国は敗戦国になるのだぞ』

『そんなことにならないよう努力するのだと言っているのです』

『信じられるものか』

 金の瞳を伏せる。

 戦争をしない国であり農業大国スイラの富を、このまま自国が物欲を満たすための腐った富にするわけにはいかない。

 人助けに使うための、生きた富だと、未来に示す必要がある。

 幸いにしてスイラの国庫に余裕ができてきたのは最近で、まだ過分な富を物欲に使ったという前例はない。これこそ時運。どこかにいる悪が懐を肥やす方法を考え付く前に、富を未来に生かす方向性をつくれる。

 この機を逃してなるものか。

(悪人が生きる道などアリの道ほども残してやらない)

 そう思って、美羽はふっと自嘲する。

 ――美羽ちゃん怖い。

 そう言った高校の友人を思い出した。

「わしは、ミウちゃんみたいな人は好きだがのう」

「ふふ、そうはっきりと言ってくれる陛下が、私も好きですよ」

 くすくす、二人は笑った。

 その様子を見守って、べリアルは少し嬉しい気になる。

 親子のように見えるのだ。不思議と昨日の初対面から二人は会話の中から緊張を抜いている。

 なにがきっかけだったろう。

『竜の王と呼ばれる陛下は、竜が見えますか』

 美羽が昨日そう言った時に『……うむ』とセヴィル王が言った時からだろうか。

 建前の言葉だろうとベリアルが思っていると、黒い髪の人は少しためらってから。

『青と緑の、半透明?』

 そのとき紫の瞳が見開いて、うつろだったセヴィルは笑った。老王というより、少年王というような笑顔だった。

「そうそう、ミウちゃんや、おぬし最新の予言を聞いておるかえ」

「最新の予言? いいえ。興味無いのでさっぱりです」

「うむ、そうだろうと思うたよ」

 セヴィルは慈しむような目でほほ笑んだ。

「これがたいそう印象的な予言での、わしは一度聞いただけで覚えてしもうたよ」

 へぇと興味をそそられたらしい金の瞳に満足げな顔を向けて、セヴィルはごほんと咳をした。

 予言が紡がれる。

「……かつてに出された、神族が不幸を呼ぶとの予言は右大臣ダリシュと前任ジキルが作り出した偽りである」

 黒髪が垂れる黒い軍服が、硬直したようべリアルに見えた。

「神族は我々の希望になりこそすれど、不幸を呼ぶなどということはありえない。この言葉を聞きし親愛なる者達よ、金の瞳と黒の髪を持つ神族に出会うことがあるならば、その命を賭してでもお守りせよ」

「…………」

 予言の暗唱が終わる。

 しんと静まり返った場だけが残った。

「…………」

 黒髪の人は何も言わないで、ただセヴィルからよく見える金の瞳をまばたきさせないでいる。

 外から聞こえる海鳥の鳴く声が優しく、耳に響いてきて、ベリアルが美羽の隣に足を出した。一度深く礼をとり。

「それは誠の予言でございますか」

 セヴィルはやんわりほほ笑んだ。

「誠だよ。昨日にわしも聞いたばかりだえ、言い間違いもなかろう。昨日わしはミウちゃんに会うた後に聞いたものだからの」

 セヴィルは金の瞳を見つめた。

 静かに停止していたそれは、気がついたように紫のそれを見上げてくる。

「わしは、おぬしを護れと言われたような気がしたの」

 くっ、と、美羽はこらえきれなかったよう小さく笑った。

「…………………あいつは」 

「…………」

 しばらく沈黙が流れる。ほほ笑んで見守るセヴィルと、いつもながら言葉を発さないベリアルと、ずっと静かに部屋の飾りとなっていたセヴィルの側近テハ。

 陛下。

 と、潮の香りがする部屋で、唯一の女性である美羽が言った。

「ひとつ聞いてもいいですか」

「どんと、聞きなされ」

「……神は幸せですか」

 まんまると、紫の瞳が見開かれる。

 何を言いたいのだ。と、分からないでいる様子は、部屋にいる三人の男すべてで、三人に困惑をもたらして美羽は、分からないんです。と言った。

 自分が幸せか分からないのだろうか。

 そう思った三人は、それが間違いであったと徐々に気付いた。

「この世界の多くの人に、予言師や王族や神族といった特殊な立場の人間を神聖視するくせがございます。それで幸せなのですか。神とあがめ、幸せですか」

 すぐそこに神がいると思うと安心するのでしょうか。とつづけ。

「私の知る予言は虚言ばかりです。それを信じて幸せですか。たくさん予言師を苦しめながら、神の詩を伝える人だからとその座に縛りつけて、幸せですか。今回の予言だってただの告知じゃないですか。どこが予言なんです。それを鵜呑みにするのですか。それで良いのですか」

「……ミウちゃんは、神と崇められるのがつらいのかえ」

「いいえ。いいえ。そうじゃありません。私は……シラが、どうしてつらい思いをしてまで予言師を続けているのかが分からないんです。予言師という名誉が欲しい? でも名誉に固執するような奴があんな名を落とすようなことはしない。分からなくて気に入らない。あいつは結局、何がしたいんだ。あいつが守っているのは予言師という存在だけだ。ついでに私を助けて、家族を助けて、予言師の責務を果たしている」

 ミウちゃん、とセヴィルが言った。転んだ赤子に大丈夫かと言うようなそれに、美羽は首をふった。

「予言師が何です、王が何です、神族が何です。ただの人間じゃないか。どうして、どうして、なんで不幸なまま何もしない。幸せになろうとしない。そこで足踏みしているだけで幸せなんですか。それという存在なだけで幸せになっているつもりですかっ」

 セヴィルが愕然としているのを見て、けれど美羽の言葉は止まらなかった。

「まるで、たかが人間が神になったつもりでいるようで――っわからない」

 怒涛のように言葉を吐き出した美羽は、熱さめやらぬ眼差しで紫の瞳を見上げた。老王は、視線をそらせた。見てはならないものを見てしまったように、王は美羽からの視線を受け付けないで言葉をはく。

「……わしは予言師ではないから、王として、言うが」

 すこし、青ざめた顔で王は言う。

 痩せこけた顔が青ざめていると今にも死にそうに見えた。

「王……それはミウちゃんのいうように、神のような、存在じゃて」

 声から血の気を抜いて。

「わしは、自分が王だから。王という……神だから。自分は素晴らしき者で、幸せな者なのだと……今さっきまで」

 途切れ途切れ、それは臨終に際した言葉のように力なく。

 当たり前だ。とベリアルは思いながら、自身もまた青ざめていた。部屋にいるもう一人であるテハなどは、怒りをこらえるように顔が真っ赤になっている。

「だから、それだけで、今の自分は幸せに満ち足りた、とてつもない存在だと…………思って……おって。幸せでないなど……」

「……………」

(分かった気がする)

 彼らは信じ込んでいるのだ。

 王だから、予言師だから――神だから。

 自分は今、絶対に幸せな存在であるのだと。

 不幸せであるはずがない、ありえない。幸せでないなど、微塵も思ってこなかった。無意識に、自分は現人神あらひとがみと思ってきたのだ。

(……異文化だな)

 つまりは美羽の「神になった気でいるようで」という言葉は、これまでの考えを間違いであると言われたようなものなのだ。

 否定されて、苦しまない人はいまい。

 金の瞳を伏せ、美羽は心の痛みが深まっていくのを感じていった。感じなければいけないと思った。これは自分も感じるべき痛みだ。

 それをしかし無視しないでいるのはつらかった。

 自分は異物なのだと深く、はっきり痛感する。

(……言うべきじゃなかったか)

 けれど言うべきだったと、直感が言う。異文化は触れあうものだ。

 だが初めの痛烈を自分が与えてしまったのが心苦しい。それも拒否せず聞き入れてくれるだけの器ある人だから――。

「……」

 唇をかみしめて見上げた紫の瞳は、動揺してまぶたの裏に隠れたりしながら何かを思案している。

 セヴィルはそして、眉間にしわをよせて言った。

「そうか……」

 それはつぶやき。

「わしは、幸せでなかったのだな」

 おそらくそれは、言うのに多大な苦痛がともなう言葉。それこそ今までの人生のすべてを否定するくらいの、勇気が必要な。

 金の瞳が見つめる先の痩せこけたセヴィルは、子供なら泣き出しているだろう表情をしている。

「ずっとつらかったのは、幸せでなかったからなのか」

 ふ、とセヴィルの顔から力が抜けて、今までになく穏やかな雰囲気で彼は。

「……思いもせなんだ」

 かなしい笑顔だった。



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