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乱の27 生存報告。彼女は元気に生きています

 トン。と小気味よい音をたててアルゼムは判を押した。

 アルザート国王の赤い判を押された上質な紙は、窓から吹き込む風にふわりとなびく。風は潮の香りもついでに運んで、アルゼムはここが異国なのだと強く感じた。アルザートの海は王都から遠く、彼が行くことは少なかったのだ。

 海から吹く風はねっとりとしめっていて、それもまたアルザートとは違うということを感じさせる。

 そんなことを思っているアルゼムに、斜め前にいた紫紺の服の老官吏は、人のよさそうな笑顔を作ってみせた。

「これでカーサム王国とアルザート帝王国は同盟国です!」

 老という字を付けられるようになり始めた官吏は、そう言うと腕を大きく広げ、うさんくさく喜ぶ様を見せつけてくる。

 ――まるでダリシュのようだ。

 アルゼムは微笑を顔に貼り付けて、そう感じる自分にこそ苦笑した。

 耳には無数の、気のない声が聞こえてくる。

「おめでとうございます」

 祝言の他にちらほらと拍手も混じっていた。

 アルゼムは左右に視線をついと回した。部屋は三つに分けた状況になっていた。左右両側には観客ともとれる証人たちが無数に立ち並んで、黄色い塗りつぶしたような壁になっている。永世中立国チェンカ民国の民が、今回の証人なのだ。

 ではあるがチェンカの民である彼らの服は、実を言うとカーサム側が急きょ用意したものだった。証人であるチェンカの民たちは、服が黄色とはいえみなバラバラの、古ぼけた服やら穴の空いた服やらと不恰好な姿をしていた。気難しいことで有名な右大臣ケザンが絶叫したのは先日のこと。

「これからはどうぞ仲良う願います!」

 本日は上機嫌に、カーサムなまりで言う老官吏に、アルゼムはふんわりと微笑んで十一段上の玉座に座する白髪の王を見あげた。

 アルゼムの知識では、たしか白髪の王は四十四歳。

「もちろんですとも。セヴィル王」

「…………」

 男盛りの四十代を昔に通り越したような様子のセヴィル王は、アルゼムの漆黒の瞳を少しだけ興味ありげに眺めたあと「宜しく願う」とかすれた声を出した。椅子に座る王は背筋美しく威厳ありげに座っているが、気配から威厳は感じなかった。

 ――嫌だ。

 アルゼムの心にその言葉が湧いてきて、彼は口の中を強く食いしばって視線をそらした。

 ――嫌だ。

 あの目は。

 ――あれは……昔の私の目だ。

 アルゼムは努めて微笑を顔に貼り付けて、平等な立場という同盟条約の内容とは違う配置の部屋で、再び他国の王を見すえた。竜を狙う覇王のように。

「ではこれにて失礼致します」

「……帰りまでの間、どうぞごゆるりと」

 セヴィル王は淡々として表情も変わらず見下げ、アルゼムは微笑ほほえんで見上げて背を向けた。部屋を去るアルゼムに続いて、アルゼムの背後に控えていた三人の官吏と騎士長ゼオンは順々に動き出しながらもその胸中は、はらわたが煮えくり返っていた。

 ――これは明らかに上下がある。

 それでも努めて冷静に外へ出た。

 残った部屋の証人は、カーサムが平等と謳いながら上段と下段にカーサムとアルザートを分けたことも咎めなく、仕方無しにアルゼムが「今だけ許しましょう」と言っても何という反応も無く、今もまた、同盟締結に対してやる気のない拍手だけを贈り、アルゼムが去っていくと、場はすぐにお開きとなった。

 私語が溢れ始めた場に、老官吏とは別の、まだ若いと呼べる三十に手が届くか届かないかという年の武官長が「無礼ではないか!」と叫んで私語は消えるが、空気は締まりのないままだ。

「まったく! 礼儀しらずな」

 と、自国の非礼は棚に上げながら怒るのはテハという武官長だけで、右大臣である老官吏ケザンや他の力ある官吏は、王より自分の方が忙く偉いのだとでも言いたげに早々部屋を去り、既にここにらず、残っているのはテハと下官と、黙り続ける王のみ。

 証人達はバラバラに部屋を出ようとしている。

「…………」

「陛下の御前であるぞ! 静かに立ち去らんか!」

 ぱらぱらとチェンカの者が去っていくのを、セヴィル・カーサム・ルイラッカは草食動物のような穏やかだが牙のない眼差しで見送った。

 部屋にはテハの叫びと、それを聞き流す人々の動く音がある。

 カーサムは実質上タルタスに国土の半分を奪われたが、国の内部は官吏に奪われた空虚な国となっている。竜の血を引く王の瞳の不思議な紫色の煌きは、物としての魅力で並ぶ物は無いが、人への圧力としての効果は薄く、官吏は彼への忠義を忘れている。

 けれど常ならざる紫が、たんたんと人々を眺めている様はまるで竜が人を観察しているようだと、テハただ一人が畏怖するのだった。 



        ***


 潮の香りがする風に当たりながら、黒い軍服も着慣れてきた美羽は大口を開けて笑っていた。大口とはいえ大声を出してはいないのだが。

「楽しみだな。ねぇベリアル、準備はできた?」

「はい」

 そうか。と彼女は笑って「ありがとう」という言葉と共に扉に手をかけた。

「では行こう。陛下の御もとへ」

 それに返答はないが、後から足音が続いた。すっかり話し慣れた年上の部下を引き連れて、彼女が歩くのはカーサムの城。

 赤茶の髪をしたベリアルは、髪に似合わず陰気な溜め息を落とす。

「……美羽殿、本当にこれで良いのですか」

 すると暗い闇の髪をした女性が、それに反する金の瞳を輝かせて彼を見上げた。

「どうして?」

「……何をもってこの権利に見合う働きをするおつもりです」

「ああ、なに、目星はついているよ」

「ほう。それは」

 何です。と言う気配が聞こえた。

 美羽は開けた大口で笑いながら。

「簡単だ。予言を聞いたんだ」

 は?

 ベリアルの足が止まった。そしてまた。

「……は?」

 美羽はにんまり笑んで、止まったベリアルを残して歩いていく。

「私が予言を聞いた。その事実で十分でしょう。裏工作のし放題だものなあ」

 ベリアル。と彼女は背後を振り返った。

「置いていくよ」

「……はい」

 呆然と立っていた彼は動き出して、彼女の隣に追いつくと二人は銀の竜の絵を見ながら足を進める。

「予言とはいえ、シラの聞く予言とは違うらしいから、絶対そうなるとは言い切れない予言だけれど」

「……………」

 あはは。と美羽は、越えてはならぬ一線を越えてしまった狂人じみた声で笑い、けれどそれを操ろうともがくギラついた眼差しを、道の先に飾られた絵画にすえて笑みを引かせた。

 青色が滲み出る石の廊下を、睨む。睨むよう体に力が入った。

「恐ろしい」

「…………」

 いいえ。とベリアルは短く呟く。

「あなたは、女神です」

「……」

 美羽の目から力が抜けた。

 金の瞳をベリアルに向ける。赤茶の瞳は、壁の竜を見ていた。

「…………女神ね……」

 ふふっ、と黒い髪の中の顔は笑う。

「そう考えるのも良いかもね」

 彼女も壁の竜を見て、角まで来ると竜の紫の瞳を眺めながら曲がった。

 青が滲む石の廊下が続いている。所々にある窓から、潮の香りが混じる風が流れてきている。

 青い石の通路の先に長身二人が見えた。

「見つけた」

「…………」

 銀の髪。今は首の後ろで束ねられて、頭の上にしか見えていないが、遠くからでも美羽にはそれがアルゼム・ヴィルシリーその人だと分かった。

 見ようとせずとも、黒い瞳の虹彩まで微細に見える。瞳にかかる銀の前髪の輝きの美しさも、余裕のない眼差しも。

 ――使いこなしてみせるよ。

「女神は、何にも負けないものだろう」

 首の後ろに束ねられている銀の髪がゆれるのが見えた。

 それはしかし徐々にうすくぼやけていって、青い石の廊下の先の、豆粒の人が二ついるのだけ分かるようになった。



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