乱の26 この王で良いのか
太陽は落ちた。空には再び戻って来る事を声高に叫ぶ太陽の、最後の赤い光が残っているが、もうじき闇が全て食らうだろう。夜の天には穴があいたように半欠けの月が明々として、銀の光をさんさんと零している。
月が目立ち、太陽が隠れたその闇の中では、足元の岩地は昼に感じた侘しさが更に侘しく、けれどぽつぽつと所々に顔を出す木と、懸命に幅を利かせようとしている草地は闇に紛れることで仲間が出来て、寂しさは幾分かうすくなっている。しかし夜の冷たく強い風に吹き飛びそうな草木は儚げで、それはこの国の現状に相似していて、国が終わる予感のようなものを感じさせもした。だがそれでも、まだ生きているのだと言うよう、少し先の地には風にはためく紫色の旗が幾つもなびいて、人口の林となっている。
その紫の林を目指す一群の先頭を進む人が、それを見ながら、鈴のような澄んだ声で。
「……………今ごろ、ファレスは何をしているだろう」
と場違いな事を言うから「陛下、今は」と低い声が、差し出がましく思いながらもそれを咎めた。先に言ったアルゼムは、馬の背にまたがりながら自嘲地味に笑う。
「わかっている。つい想ってしまっただけだ。気病むな」
そう言って紫の旗でできた林を見る。だが、みているのは遠い他国のような気配があって「……」と部下の男は、この純粋な若者を微笑ましく思うとともに危うさを感じて、少し強ばった顔で馬を進ませた。それでも、時がたつと先を行く若い主君の漆黒の瞳に、夜の景色がしかりと映ったのを見て視線を外し、内心では「問題ないな」と安堵した。そんな風にして、王の一挙一動に反応する部下達と違い、先頭を行くアルゼムは迷いの無い足取りで、しかし気をもむ臣下達の気配を面倒に感じて、馬の腹を蹴って、後ろの彼らより速く歩かせた。言外についてくるなと言っているので、ゼオンは歩調を速めなかったが後にいる老官吏達は気が気でないようで、ぼそぼそと何か言っている。主君の長い銀髪が風になびく様が景色の一部として見える遠さになって、やっと距離はそれ以上あくことがなくなり、それは何かがあればすぐに追いつける距離である事に部下はほっと安心して後に続いた。アルゼムの後には、騎士総長ゼオンが三人の騎士隊長を従えて進み、その後から、アルゼムをかわいがってきた官吏が三人ばかり。そしてゼオン他三つの隊に属する騎士が官吏の後ろを護ようにして続き、最後を大勢の兵士がしめた。
「……」
ゼオンが従える騎士隊長の一人、第二騎士隊長を勤めるウェルサは、後ろの官吏に近い渋い顔でアルゼムを見ていた。何も言わず、けれど顔からは不快感を溢れさせて、ゼオンに気付かれている事にも気づけぬ有様だった。
「どうした。ウェルサ」とゼオンに問われて目を開いき、ハッとして「フェルデラン閣下……」と顔をゼオンに向き会わせた。
「陛下が心配なのか」
という上司の声に、ウェルサは眉を動かす。その眉間をひそめ、視線を前方を歩くアルゼムの銀髪に向けた。銀髪を月光に光らせる美しき王の向かう先には、紫の旗をはためかせている馬車が数台と、二百か三百に届きそうな数の馬が見えてきた。近くなってはっきり見分けられるようになった旗の中に描かれているものは、大陸の南端の国カーサムのシンボルであり、南海を守護する神聖なる生命、海龍だ。ウェルサもゼオンも、この場にいる誰もが見たことはないが、海龍は今でも現存して、難破した船を助けたなどの話が時折アルザートにまで聞こえてくる。
「……身の程を知らぬようなこととは、存じておりますが」
と海龍から視線を外して呟かれた言葉は近くにいる他の騎士隊長たちにも聞こえていたが、誰もが無言のまま耳を傾けた。誰も咎めはしない。
「私は陛下が、恋に身を滅ぼされるのではないかと、思わずにはいられないのです」
「そのようだな。お前の他にも幾人か同じ思いの者がいるようだ」
ゼオンの厳しい顔の中の目が、つと周囲を見る。悪事をしたのでもないのに、視線を受けた周りはぞくりとしながら聞く。
「陛下は恋心に一途な方だからな。だが、私はそれを尊敬に値するものだと思っているよ」
ふっと小さく微笑んで、ゼオンは話片手間に注意を周囲に向けた。少し先を歩く王は孤高とし、周りを寄せ付けない雰囲気がある。それは誤解と不信を招きやすいだろう。だが彼は、ゼオンが王を守るよう周囲に気を配っていることにも気づいているはずだ。長年の勘でゼオンにはそれが分かった。
「尊敬、ですか……」
ウェルサの声には疑問が残っていた。ゼオンは笑う。部下の前で笑ったのは初めてだった。
「そうだ。陛下は一途だ。それも恋だけではなく何事にも一途なのだ。いつもひたむきに進まれるその一途な集中力に、私は恐怖すら感じるのだよ」
周りが見えないという欠点は、自分が補っていけばいい。
「考えてみろ」
闇の中でも輝く銀髪は、夜にやさしい月明かりのよう闇に飲まれる人々に光を見せている。その髪は、彼の性質を表しているように見えた。闇の中でも迷わずに光り輝く月に。その輝きにゼオンは、未知の力を感じているのかもしれない。
「お前は自分で悪いとわかっていることを、自ら進んでいく勇気を持てるか? 自分以外の誰にも認められないことだと、そう理解した上で進んで行く一途さをもち続けられるか。私にはできない。それは、いかに馬鹿げた勇気だろうと、私には真似できない力だ」
「…………」
「しかも陛下はダリシュを疑うとおっしゃられた。話をしたのは数えるほどの私の忠告を聞き入れて、ずっと信じていたものを疑うと言ったのだ。それも簡単なことではない。しかも、どちらが正しいかをご自身で見極められる判断力もある」
砂漠のテントの中、揺れるランプに照らされながらあの銀髪の青年は、心に切なさを宿しながらもダリシュを疑うと言い切った。言って、目から迷いは完全に消えた。決心してしまったのだ。その言葉一つで簡単に。それからダリシュについて気を病んでいる様子は見受けられない。むしろ決心したアルゼムの目の奥深くから底のみえない力を感じる。
それはゼオンの人生でさえ始めて感じる圧力で、これにゼオンは服従を思わせられた。義務を果たすという責任感だけでなく、この王についてみたいと思ったのだ。先王の崩御以来では、故レイゲン・ヴォルクセイに対したものを最後に、初めてのことだった。この国にはもう心を見れる支配者が居なくなったのかと、荒み消えていく未来を予感して焦りと絶望を持っていたゼオンにとって、それがどれほど嬉しい事だったか。心から服従できる主がまだおられるのだと、疑いなく信じられるこの事実が、どれほど嬉しかったか。
自然、頬はゆるんだ。
「信じていたものを疑うのは、自分の過ちを丸々認めることだ。生まれながら王としてもてはやされ、更に才にも恵まれて苦労する事無く生きてきた者なら、間違いなど信じられぬと言って他に罪を着せようとするものを、陛下はそうしなかった。それは天性の美点だ。多少自傷気味ではあるが、始めての挫折なら仕方あるまい。陛下は、宝石のようなものなのだ。それも、ダリシュの破壊を目的とした研磨でも砕けなかった強い石だ」
それは異常なものだ。根源に一途さを持って、普通でなく真っ直ぐに突き進む意思。
「人の醜い部分に触れても変わらない陛下のお心は、尊敬するに値するすばらしいものだ。私はお仕えできることを誇りに思う」
「…………」
隣のウェルサは押し黙ってから、前方遠くを歩く王を眺めやりながら言った。
「恥ずかしながら申し上げますが」
恥ずかしと言うわりには後ろめたさなど微塵も無い声で。
「私は先程まで、陛下を、恋に目の眩んだ愚かな子供と見ておりました。ですが今は、閣下と同じ思いがわいてきています。不思議なものです。王の性質として信用するに足るなと、僭越ながらもそう思うと、この人に命を預けても良いと思えるのです」
話の聞こえていた他の騎士隊長や、後に続く者たちの気配から不安の色が消えているようにゼオンには感じて、ゼオンは薄く笑った。
「陛下と民に変わり感謝する、ウェルサ。これからも共に忠義を捧げよう」
「我が心と骨身まで」
ゼオンは心の中で歓喜の声を上げていた。
先程まで陛下に不信を抱いていた彼らを説得できたことは、今後の大きな指針となるだろう。不信を持つ民を説得する事とてできそうに思えるのだ。
そう思うと、ゼオンは満面の笑顔になっていた。彼が国に仕えてうん十年、仕事中で初めてのことである。
「時が来ればきっと民も理解してくれる。戦が終わればすべて丸く収まる。必ずだ」
ゼオンの笑顔は隣のウェルサと騎士だけが見ることができた。上司の初めて見せる表情に、二人共にあっけに取られて、洗練された所作を体に覚えこませている彼らが口をぽかりと開けている。
だが二人の驚きなど気にせずに、ゼオンはなおも笑顔で続ける。
「反乱軍など恐るるに足らん。陛下のご威光の前では霞んで見える」
闇の中で光る月に似た光を持つ王は彼らの変化に気付かずに、いや気にかけもせず、迷わぬ足取りで先頭を闊歩している。




