乱の25 心を忘れたお友達
「つ、疲れたっ……」
塔の出入り口を前にして、グレンはくたびれていた。
「楽しかったわ」「楽しかったわ」
「そう、ですかぁ」
光の筋が何本も塔の中を走った今は、ここも随分明るくなっていた。この明かりの中をグレンは、二人仲良く会話をしてなかなか足を進めない双子を両腕に抱えて降りてきた。
少し休みたい。
階段とは降りるときは案外に楽なものだが、体の均衡が取れていないときは意外と転げ落ちそうで神経を使うものだと、彼は始めて知った。今後の人生の役には立つだろうか。素敵なお嬢さんを抱き上げて階段を降りていくときにでも役立つかもしれない。そのためには恥ずかしがりやなお嬢さんを好きにならないように気をつけなければならないが、それ以前に自分が恥ずかしがらない必要が。
「グレンさん、グレンさん! 外に早く行きたいですわ!」
見上げてくる瞳が眩しい。
グレンは頑張って笑い「わかった」とふたつの頭を撫でた。ふかふかした。
「眩しいから、心の準備しておきな」
「はーい」「はーい」
きし、とかすかに音がするだけ扉を開くと、小指よりも細い光が入り込んでくる。
グレンが研ぎ澄ませた神経は、外に何の気配も察さない。
さらに扉を開くと溢れんばかりの光が入ってきて、薄目にしているグレンの目も眩しさにくらんだが、顔一つ分開いて覗き込んだ外には誰もいなく、胸をなでおろした。
見えたのは、眩いばかりであった光の中の、夏のみずみずしい草や木の姿。そして緑の中に芽生える赤い花が世界の鮮やかさを演じている庭だけだ。十歩ほど先に見える塀や植木の影を見ると、ちょうどクローが来ると言っていた時間くらいだと読み取れた。
「眩しい、ですわ」
双子は声をはもらせながら目をしぶめ、がんばって慣れさせようとしている。
人より目の調節に長けているグレンには、右大臣の庭がよく見えた。王城の庭に比べるとまだ幾分か手入れがなされている庭は、穏やかな風の音や獣の鳴き声に満ちている。典型的な避暑地の雰囲気だ。
双子の目が大きく開かれてきたのを見て、グレンはさらに扉を開く。リルとマルが、顔を出すグレンを真似てひょこりと外を覗き込んだ。とたんに「わぁ!」と歓喜の声があがって「静かにしてくれ」と注意をすると、二人は大人しく目だけを歓喜に染め上げた。数年ぶりの直射日光の中の二人を見下ろして、グレンは彼女達の髪が薄茶色をしている事に気づく。それはこまかな縮れ髪で、だから頭を撫でたときにふわふわして面白かったのだと分かった。
双子は外に興味津々であるし、今のうちに外へ行くかとグレンが思っていると。
〈……………誰だ〉
唐突に声がした。
低く重い男の声。敵意は読み取れないが、善意も読み取れない。遠くから聞こえてきたような小さな声に、少女二人は気づかなかったのか、それともグレンの空耳だったのか、二人は目を輝かせて庭を見ている。それでも確かに彼の耳には聞き取れた声を探して周囲を見回すと、見つけた。塔から少し離れた館の影に、先程までは見えなかった人影が。
「………」
グレンは無言で顔を出していた双子を塔の中に引き戻した。「どうしましたの」と問うてくる前に、シィッと小さな空気音を出して先手を打つ。すると話好きな二人が黙った。
灰色の瞳は扉に身を隠しながら人影を睨む。おそらくはグレン自身と同じくらいの長身で、男だと目測できる。
「………」
「………」
互いに視線だけ合わせて沈黙していると、人影が館の影から日向に出てきた。その姿は、一見した限りでは黒いローブを着たどこにでもいる魔術師のようであるが、黒の中に赤い刺繍があるようにも見えるので、赤を国色にしているアルザートの軍部関係者であることが推測できる。
(面倒なのが出てきたなぁ)
視線は合ったまま、外すには命をかける必要があるかも分からない。敵意はないが、やはり善意もない。ただ気づかれていることだけが明白。
謎の男は長い足で、ゆっくり塔に向かって歩いてくる。
「………」
「………」
白髪のような髪が光に紛れて、実はくすんだ銀髪であることが分かってきた。白髪に見えてしまうほど痛んでいるが、まだ銀の輝きを残している。手入れせずに放置されたような銀髪は、長いまま背後で適当に緩く縛られている。この国の王も銀髪の長い美男だとは聞くが、この魔術師の髪からでは美男というものには発想が結びつかない。ぴょこりと頭の上ではねている毛が、こぎれいな美男という印象から遠ざかって見せている。男はグレンに鋭く睨まれたまま、無言のまま、顔の造形がわかる近くまで来た。最初に誰だと問うたはずなのに、何も言わないのは不思議だ。何を考えているのか。分からないがグレンは腰の剣に手を添えた。男は援兵を呼ぶ気配も無いが、グレンは警戒心を最高値まで引き上げる。
そんなグレンの様子にも全く気後れせずに、男はついに会話できる近さまで来て。
「君は何者だ」
淡い緑色の瞳をした男だった。カイムのような深い緑色ではなくけれどリースやアリスのような透明感のある緑色でもない。淡い、白を混ぜたような緑の瞳。感じる気配は氷のようであり、うつろなものでもある。年は三十か四十か。若くは無い。
「……なんだと思う?」
いたずら小僧のように言うグレンに、壮年の渋さがある男は無表情のまま。
「反乱――」
「リュレイ!」
「うお」
驚いたのはグレンだ。腹の辺りから双子が嬉しそうに叫んで飛び出していくではないか。男は遮られた言葉の続きは言わず、扉を開いて抱きついてきた双子に視線を向け、相変わらず無表情のまま。
「リルマル。何故」
なぜ、とは言うが問い詰めている声色ではなかった。
「助けていただきましたの」
「これで光の中に戻れますわ。お兄様にも会えますわ」
満面の笑顔の二人に、冷たい眼をした男はしかし、そっと微笑み返したように見えた。
「そうか」
リルマルはさも楽しげに顔を向き合わせて笑う。だがそれも数瞬の間だけで、リルが口元に手をあてて盛大に驚いた。
「まぁ! マル! 髪がぼさぼさですわ。はしたないわ」
「まぁリル。それはあなたのことよ、ほらこんなにも髪を乱して……?」
ん? と打ち合わせていたように二人同時に小首をかしげた。
「……二人共だ。リルマル」
「え」「え」
リュレイという長身の男が、グレンと同じ顔の高さから言い放った。
リルマルはかぁっと顔を赤らめる。
「まぁ恥ずかしいっ、こんなにも無様な姿で殿方にお会いしただなんて!」
「手入れしていないことを失念しておりましたわ。リル、リル! どうしましょうっ・・・このような失態をしては、わたくしお嫁にいけませんわ」
「わたくしもよマルっ! どうしましょうっ」
あああ、と二人は至上の悲劇が起きたようにお互いの両手を握り合うと、塔の中に戻った。グレンが振り返って見ようとすると怒られたが、一瞬見えた二人は、冷たい石床の上に服のすそを円形に広げながら互いの髪を梳いていた。
「マルぅ……」
「リルぅ……」
そんな声が塔から漏れたとき、つと、男の冷たい瞳がグレンを捕らえて。
「君が反乱軍の首謀者、か?」
「そうだと言ったらどうすんの」
男の表情に変化は起きないが、冷淡な緑の瞳は一瞬グレンの背後を見て。
「……………今日は見逃す」
言って距離をつめる。瞬間的に警戒したグレンにかまわず、リュレイという男は冷たい顔で。
「二人の朝食だ」
と、彼は差し出した手の上にあった青い石をグレンに手渡そうとする。受け取ってみると、手の平を上にしろと指示されて、その通りにしてみると盆にのった二つのパンとスープが現れる。
「へぇぇ、便利なもんだな」
「閣下は未だ対談中だ」
また唐突にリュレイという男が言い出し。
「へ?」
グレンは話を飲み込めなかった。
「……………………」
「……………今の内に逃げろってことか?」
リュレイは何も言わず、顔を縦に動かした。
「いいのか? 俺はあんたらの敵だぜ」言いながら、食事を塔の中に置くと、少女二人の嬉しそうな声が聞こえた。
「……リルマルにとっては味方だ」
「へぇ、あんたはどうなんだ。二人の味方なのか?」
「…………………………………………。」
「……………………………………………………」
グレンは意外と堪え性があった。
「………………私は命令ならば何でもする」
冷え冷えとした目に対し、グレンは無邪気な少年のような目で。
「あんたそれで楽しいのか?」
「………知らん」
「知らんって、始めて聞いたよそんな答え」
「出ろ」
「は?」
「行け」
相も変わらず淡々とした口調で、短く脱出を命じられたのであった。
呆然としているグレンの前で、リュレイはその体を塔から離して、止まった。攻撃する気はないという意思表示だろうか。
(お、おもしれぇ奴)
グレンはとりあえず双子を呼び出す。彼女達は、さっきより少しだけ整った髪と、汚れが落ちた顔でリュレイに笑いかけ。
「さよならですか、リュレイ」
「また会いましょうね、リュレイ」
「監禁は辛かったけど、リュレイのおかげで少しだけ楽でしたわ」
「リュレイのおかげで、皆に嫌われてしまったのではないと思えましたわ」
「ありがとうございました」と双子は声をそろえて言った。
それにもリュレイは何かを言うことはなく、ただ最後に抱きついてきた双子の背を優しく撫でていた。
塀へ向かって歩き出して、グレンが「逃がしてくれるのか」と問うても彼は何も答えなかった。仕方なく苦笑して、三人はなるべく静かに、しずしず塀の方へ歩いていく。
「気をつけることだ」
突然のリュレイの声だった。
「何を」と問おうと振り返れば、銀髪の男は居なくなっている。少し探すと、館の影にまぎれながら歩いていた。
(良くわかんねぇやつだな)
首を捻って双子が何か知っているのではないかと見てみるが、双子はくすくすと可笑しそうに笑うだけだ。彼も笑って考えをふっきり、辺りをうかがいながら双子を先導していく。塀の壁までたどり着くとリルマルは自ら塀をよじ登り始めて、時々グレンに助けられながらではあったが、意外とすんなり難関を突破した。足掛けになった木に、彼女達はありがとうと律儀に感謝しながら塀の向こう側に消えていった。後で聞いた話では、彼女達は昔から木登りが好きなのだという。見た目によらずじゃじゃ馬娘のようである。
少女二人が外へ出たのを見送ってグレンが最後に塀を越え、外に飛び降りる前に見えた館には、短い茶髪の女性が見えた。侍女に見つかっちゃったかと、わずかに彼は苦笑して外に出ると、少し離れた木立の中から黒いローブを着た少年が現れ、彼の指示によりこの館から離れたところから魔術で遠くまで飛んで行き、そこからアジトへ転移することになった。なんでも、強そうな魔術師が二人も館にいるらしい。下手に術を使えば、アジトがばれてしまうという。
「姫さま方、お怪我はありませんか」
クローはそう言ってうやうやしく礼を取り、リルマルの信用を一瞬にして勝ち取った。
館から離れていく道中、リルマルは外の光の中でくるくると踊ったりおしゃべりをしたりと、陽の光を存分に楽しんでいる様子だ。
遠く離れていけば、回りには木々しか見当たらなくなって、背後に森を突き出た塔の先だけが見えていた。
「………あいつ、何が言いたかったんだろう」
「え?」
呟きに少年が首をかしげてきた。
「いや、いいんだ」
珍しく押し黙ったグレンに、少年は意外そうに含み笑って歩いていく。歩いていく前方では、仲良く並ぶ双子のうち、右を歩いている少女が盛大に驚いていた。それに続いて左の少女が笑いながらぺしんと右の子の肩を叩く。何をしているのだろう。
「今………」
「え?」
少女達に妙な動きでもあっただろうか。不思議に思いながらクローが見上げた先の平凡な顔は、まるで猫の声を聞いたねずみのような顔をして、何かを探すように周囲を見回している。
「どうかしましたか」
聞くと、灰色の瞳は見開かれたまま、焦っているかのように。
「今、何か聞こえなかったか?」
「いいえ。特には」
「……そっか」とグレンは安堵したような、けれどまだ納得行かないような顔で。
「悲鳴、みたいだったけど」
くと眉間に皺を寄せた。
悲鳴という耳をつんざく音が自分にしか聞こえないわけが無いか、と彼は納得してみて、前方を歩く少女達を見てほほ笑みながら歩き出す。
きっと気のせいなのだろう。嫌に耳に響く声だったが。
その後の道でも、一度として悲鳴などは聞こえなかった。クローの魔術で空を飛んでいくことになっても聞こえなかった。
見上げる位置にあった緑の木々を足の下にしながら、四人は館から離れていく。
足の下から鳥が一羽飛び立って、青い空の中をどこかへと飛んでいった先には木などの障害のない開けっぴろげな大空だけがあって、歩いているときは見上げてみていたものを目線を下げて見ている、ということがリルマルには新鮮で特に面白い。塔に窓が在ればこんな景色が見れたのだろうかと、思いをめぐらせながら見えた塔は遠く、森から突き出るかすかな出っ張りにしか見えない。
以前は自分達の世界の全てであったそこは、ここから見ると、とてもちっぽけに見えた。
***
太陽が頂に登りつめている。
地面から一番近くにある時刻の夏の太陽は、痛いほどの光を世界に送り込んでいた。人々が育てる緑の野菜たちがぱっつりとハリのある葉を輝かせ、葉脈の皺など気にならないほど元気良く風にゆれている。その中で老人と老婆は仕事に明け暮れていた。
「王様はどうしてるんだいね。早くどうにかしてくれないと、病がここまで流れてきちまいそうだい」
頭を布で覆った老婦人が、よっこいしょと掛け声をかけながら腰に手を当ててて上体を起こした。手には抜いたばかりの草が握られている。
「上がどうなってんのか興味ねぇけんとな、疫病が広がらないようにはしてくれねぇと、こっちも安心できねぇだ。なぁ?」
そう言って老婦人は、彼女と同じように頭に布を巻いた老人に顔を向ける。老人は草むしりをしながら。
「まぁ、いつものように何とかしてくれるさぁ。お役人様方に任せておきゃあいいだ」
老婦人は、またよっこいしょと腰を曲げた。変わりにずっと腰を曲げて作業をしていた老人が、上体を起こして額の汗を拭い空を見上げた。その表情は育つ野菜たちのように輝いている。
「ああ今日一日晴れそうだい。明日くらいにまた雨が降ると楽なんだがなぁ」
「北のばあ様は降るって言っていただよ」
「なら安心だい」
嬉しそうに笑いながら、夏の太陽を見ると目を細め、頭に巻いた布をぎゅっと縛りなおす。頭に巻いた布にこだわることと野菜が少しずつ育っていく喜びが、彼らの中で共通していた。
国がいまどういう状況か、興味の無いことも共通している。
アルザート国民の政への興味は、他国のそれに比べて格段に薄いのだ。
彼らには国家にすべての治世を預け、自分は仕事や遊びに集中する性格が強く見られた。だが興味が散乱しない為に、アルザートで作られたものの質は高く、世界的に認められている。しかしやはり日常に直接関らない政治や国情への興味が薄いため、反乱軍という組織の存在を知る者はその数自体が少ない。当然入隊希望者が少ないことが予測され、反乱軍の数は少数であると他国の者までもが当たり前に考えていた。ダリシュ率いる貴族達も同じ考えで、王城を二人の反逆者に侵された後でも反乱軍を脅威としては見ていない。
そこがカイムの狙い目なのだった。
ダリシュの館へ向かった者が、王城に侵入した者と同じであるのは、反乱軍の数が少ないことをさらに貴族達へ印象付ける為でもある。だがもし、ダリシュたちに見咎められることなく、双子の救出を成せれば反乱軍の強さは見えない恐怖となって、敵を恐れさせることになるだろう。どちらに転ぼうとも結果的に問題は無い。来る奇襲作戦まで、今はまだもう少し身を隠し続ければ策は成る。
不備は無いはずだ。
それでも、カイムには不安が残っていた。不安の原因は、国に仕える魔術師の存在からか。彼らの力は一騎当千かそれ以上に値する。だが魔術師対策も考えてあるのだ、言い知れぬ不安を呼ぶはずが無い。行動の手はずも整えてある、予測できる範囲内では万全を期して練り直した。
それでも何か、出所の分からない不安を感じて落ち着かない。
「ちっ……」
この、足元が不安定でおぼつかないような感覚を、カイムは以前にも感じたことがあった。それは父レイゲンが王へ進言に行った日のことである。朝に見送ったレイゲンは、絶対の自信と共に出かけていった。いつもと変わりないはずだったのに、カイムには言い知れぬ不安があったのだ。その不安に押されて「父上」と呼び止め、何とか引きとめようとしたけれど父に「珍しいことも在るものだ」と言わせて小さな苦笑を浮かべさせただけだった。だがその日、あの日………。
「………父が死んだ」
王から全幅の信頼を得ていたはずの父は、どういうわけか謀反の罪で極刑を言い渡された。帰ってきた時の、絶望した顔を今でも覚えている。
この国はもう駄目だと、背を丸くている父からは、いつも感じた威厳が無かった。
ああこれが不安の元だったのかと、事前に何もできなかった自分を恨みながらカイムは静かに父の部屋を出たのである。
「あの時と同じか」
その日を境に父は明らかに元気が無くなった。処刑までの間、父はすでに死んでいた。元々寡黙な父であったが、無口さに拍車がかかったようであった。カイムはただ父を静かに見守っていたが、父をそこから助け出そうとしてくれた人たちがいたのも確かだった。多くの善意ある友や貴族達が、裏で陛下やダリシュへと働きをかけていたのは知っていた。だがそんなことしてもどうにもならないと、カイムは動かずにいたのだ。今ではそれが口惜しい。
結局は確かにどうにもならず、刑の執行前夜には皆が謝りながら父に逃げるようにと説得に来た。だが結局、父は脱走すれば本当に罪人になってしまうからと言って、命を失うことになったのだ。なるようになった、と思いながら、カイムの心は曇っていった。納得しているつもりで、最も後味の悪い結末を選んでしまったのだ。
しかも父が亡くなってからというもの、母までが日に日に弱っていき、後を追うようにして息を引き取っていった。
だが母に関しては、これでよかったと彼は今でも思っている。
(母上にとって、父上のいない生活はさぞかし苦しかっただろう)
母の死は予測できるものだった。食事も喉を通らなければ、何をする気力も無いようで、せめてと思い誘いをかけた復讐にすら、夫の名を汚したくないと興味を示さなかった。死に際の表情はとても穏やかで、最後にカイムへ「ごめんね」と言ったとき始めてカイムは寂しさに理性の全ても支配され、一筋の涙を零したのだ。
二人の死に関して、カイムに不安は無かった。なるべくしてなった結果であったから、寂しくはあったが、先の見えない不安は無かった。ただ父が絶望したことだけが意外であった。始まりだけが意外だった。そしてあの時感じた感覚が、今もある。予測できない何かが、この先にあるような気がしてならない。
「ただの臆病風だと良いのだが……」
彼はそう呟いて、誰もいない安心の中で弱った顔をしていた。
簡素な執務室に置かれたガラスの入った戸棚だけが、椅子に腰掛けて足を組む彼の姿を映している。その同じガラスに映った彼の手元の、読み途中の資料が力の抜けた指先からはらはらと弧を描いて束になっていった。紙がめくられて現れた文中には、アルゼム王の動向が記されている。
アルゼム王、カーサムへ向けて出立。
到着後、カーサム国王との対談が行われる模様。
到着予定は本日、宵の口のようだ。




