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乱の23 いざ塔の上のお姫様のもとへ

その村があるのは山高く、認知度の低い場所だった。戦の影がおそらく今のアルザートで最も少ない場所であり、ジャックが崇拝する少年の村。そして外で遊びたがる年頃の、アリスが出かけられる唯一の場所だった。

村を囲む森の木々はさわさわと、葉を擦らせて穏やかな音を奏でている。

「アーリースちゃーん」

 森の中を突き抜ける少年の声で、数羽の鳥たちの鮮やかな橙色が飛び立った。青空に数本の線を描いていく。

 木の枝から長い尾を垂らしていた動物たちも、声に驚いて飛び降りた。

「どーこいったぁー」

 がさがさと草を掻き分けて、ひょっこり真ん丸の眼が現れた。鮮やかな赤髪は熟れた果実のよう。相対する青緑色の瞳は、パチリと開いて辺りをうかがう。見回すと、再びがさりと音を残して草の中に消えた。

「どーこーだーあ」

くすくす、と笑う声がした。

少年の動きが止まり、顔だけ方向を変える。頬に葉の感触を感じながら耳を澄ますと、かすかに、まだ笑う声が聞こえている。

「こっちか!」

再び草を分け入って進むと、草の背丈が低くなっていく。

(いけない。声出しちゃった)

かさかさと草を掻き分ける音が近づいてきて、アリスは両手で笑む口を覆う。透き通るような緑の瞳を、辺りをうかがうようにきょろきょろと動かし、でも代わりに体は動かさず静かに樹の根元で縮こまった。徐々に近づいてくる音に耳を澄ます少女は、ぱちりと開いていた瞼をぐっと閉じた。けれど暗闇が怖くてすぐ上がる。

「みーつけたっ」

「きゃぁ」

 目を開けると同時に大きな音がした。驚いて走り出した少女に、首だけを草山から出した少年は頭を掻く。

「逃げるなよー」

 そして笑いながら、草まみれの少年はアリスの前まで歩いた。見慣れた少年の姿に、少女がほっと息をつく。

「突然、なんだもん」

 近くの幹に背をつけて、アリスは近くに生えていたツルを握り締めていた。少年が手を差し出してくる。少女はちょっぴり大きな手を握り返して立ち上がった。

「へっへー、俺の勝ちー」

 にかりと笑う少年を見上げて、むぅと少女が頬を膨らました。ぷいっとあさっての方向を向いてしまう。

「そろそろ戻ろうか。おっちゃんが心配するぞ」

 そう言って握った手を引くが、ご機嫌の悪い少女は足を動かさない。何を言っても、あさっての方を見るアリスに少年ががっくりとうな垂れた。

「アリスぅー」

 手を握ったまま、イヤになって座り込んだ少年をちらりとアリスが見る。土で汚れた服を着たアリスはくすりと笑った。笑いながら、小さな足でとこと歩き出した少女の、繋がった手に引っ張られて、少年ケビンの顔が上がる。

 けれど動かない。

 必死にケビンの手を引いて地面を掻くアリスに、少年が笑いながら立ち上がった。二人は再びがさがさと、草を掻き分けて森を抜けて村へ戻っていく。森を歩いていると、どこから流れてきたのか、季節はずれな淡い青色の花びらが飛んできて、波打つやわらかい金髪にくっついた。気づかずに歩いているアリスが可愛らしくて、ケビンは声を出さずに笑う。

 森を抜けた場所で待ちぼうけをくらっていたジャックとも手をつないで、三人は山高い村に戻っていた。後に、ジャックに頭に乗った花びらを指摘されて、アリスがきょとんとし、ケビンが大爆笑することになる。


 鉱山でない山の村は、男手の数が少ないことを除いて戦の色が薄い。


 その、今や戦を続ける大国、東のアルザートは、世界に名高い予言師が住まう国として有名であった。

 ことの始まりは260年前。

 アルザートの東端で稀代の天変地異が起きるであろう。と2代目の予言師ローラ・コットが国王へ警告した。

 しかし認知の無い予言なるもので、不吉な未来を言う彼女は不届き者として牢に入れられた。しかし牢の中にいながら多くの予言を的中させた彼女の噂は牢の番兵から広がり、最後には国王の耳にまで届くまでとなる。

 そして国王の深い慈悲により、彼女は再び陽の下に出た。

 釈放されてから、彼女と共に国を挙げての対策が考案された。結果、予言は的中するも、見事人民の命は救われることとなり、国中で予言師ローラへの賛辞が木霊こだました。

 それ以降は、予言の影響力が大陸中にまで広まっていくこととなった。予言には他国の未来までもが含まれている為、各国から親交を深めたいと使者が押し寄せたのだ。

 歴史上五代目の予言師カトール・ライセラは、その影響力を世界中に広めた人物であり、予言師として最初の男性だった。

 彼はアルザート王城から遠く離れたドコル帝国で、相次ぐ火山の噴火が起きると予言し、帝国へ向けて警告した。

 その2年3ヶ月後、最初の大噴火が起こる。

 予言を聞き入れた者たちは逃げ出していたために助かった。

 だが多くの信じなかった国民たちが命を落とすという、最悪の事態となる。

 後日、ドコル王国第八代国王ドコル八世は、先の出来事を深く受け止め、予言を認めると公言。同時にアルザートには今後も協力を願いたいと申し入れをした。

 我の強い国として有名なドコル帝国が予言を認めてから、まるで引き絞った弦を放った弓矢のよう、予言は絶対の真実として瞬く間に世界中で信じられるようになった。

 そうして、予言師の影響力が強大になるにつれ、アルザートの国力は増大していった。何の謂れなのか、予知の力を持つ者が生まれる地域は固定され、更にアルザートの国内に留まっているからだ。

 歴史に載らない古代に、高い水準を保ち栄えた時代があったことを発見したことで有名な学者ヴィダーク・ロリダがその奇異さに興味を持ち、後の一生をかけて調べ続けたが、彼は調べて行くほど顔色が悪くなっていったという。見かけた者が二十は年を数え間違うほど、黒く気色の悪い風貌へと。

 体ばかりが時を進んでいきながら、一向に進まない歴史研究に頭を悩まされる中、彼は失意の中で早すぎる死を迎えることとなった。享年56歳、孫息子が誕生し、頬を綻ばせていた3日後のことだったという。

死後、彼の遺物を整理していた家族が一つの書付を発見する。そこには「戦争」「崩壊」「創世」「神族」という三つの言葉が書き殴られていた。

今では誰もが当然のように知っている、今の時代の前に破滅戦争があり、世界が一度崩壊したことを導き出すもととなったものだ。その歴史を導き出したのは彼の死後20年たった頃の、彼の研究に興味を持った学者達だ。彼らによって、古の時代の滅亡後、神族の尽力によりて今の時代が創世された。という

忘れられていた歴史が日の目を浴びた。

だが、今の世に神族という存在は確認されていない。

もはや神族の存在が神話として認知されるようになってきた頃、七代目の予言師シラ・ラフィートが神の到来を予言する。

神族の予言が世界に浸透するにつれ、世界各地に数多存在している神族崇拝者からは歓喜の声が上がったが反対に、世界から神族否定派はさらに数を減らしていきながら、それでも否定派であり続ける者もいる。彼らは予言そのものを疑うと言い、変わり者として周囲から浮いた存在となっていった。


 戦の絶えない時代が後押しして、来る神の救いには強い羨望が集まっていた。神がスイラの王城に現れたとの話が広まると、世界各地から救いを求める者達が集まってきたという。人が集まり、騒がしくなり、神が現れるだろうという気配が現れても、神そのものが皆の前に姿を現すことは少なかった。

 代わって官吏が「自分達で何とかしなさい」とだけ伝え後に下がっていくことが続いたという。もしや神は居ないのではないか、という噂が流れた頃、金の瞳に黒の髪をした、透けるような白肌の女性が、同じ色あいの子供を抱いて皆の前に姿を現した。彼女の神々しさ、美しさに皆が見とれ、神を出せと騒いでいた者たちは己が身を恥かしみ、刃で喉を潰してしまったとさえ言われている。

 その彼らが見たように、歴史上最初に現れた神族は女神であった。

 彼女は目立つ行動のない方だった。

 彼女の行った僥行ぎょうこうは、数えるほどしか残っていない。

 しかし、確実に彼女が登場してから、歴史は緩やかに変化していた。目立たない場所で、根本的な場所を変化させたのだろうとして、未来、多くの学者が彼女を調べることに生涯を費やすことになる。

ある学者は最初の神である彼女を『歴史上最高の誘導者』と称えた。彼女はその巧みな采配で、世界を深みから導いたのだと。

表舞台に出ない彼女のやり口は、人の探究心を駆り立てたが彼女は、未だにどこで生まれ、どこで死に、どこを歩いたか、ほとんどが謎に包まれている。

そんな彼女を始めとする、神族という存在を最初に発見したヴィダークの死は、彼の祖国ドコル帝国で大変に大きな問題となった。

ヴィダークは帝王ドコル十三世の友であったのだ。

死後すぐに、管理官長タッドウィが、王命により生前のヴィダークの行動や交友関係を洗いざらい調べ上げた。すると一つの現象が起こった。

ヴィダークの研究を辿っていた者がひとり、更にまたひとりと、次々に体調を崩していったのだ。

彼らは皆そろって顔色が悪く、土で出来たかのように色がなくなっていく。緑の苔をつけたら似合うのではないかというほどに、不健全な姿になっていった。


それでも彼らは頑張った。

さすがに命を落とす者はいなかったが、病と闘いながら頑張った。

結果浮かび上がってきたものは、実に哀しい歴史であった。

神族は既に絶滅しているというのだ。争いを嫌った神族は、その力を捨て去りただの人となったのだ。公式に神族の滅亡を発表した後も、神を求める者たちは信じなかった。信じない者の数は、信じる者を遥かにしのぐ数であった。


次第に世界中で神族の神聖化が強くなっていき、滅亡を唱えるのはドコル帝国民に限られていった。世界中で神族の到来を歓喜する中、ドコルだけが反対の立場にあり続けている。

相応の事実がない限り、彼らが意見を曲げる事は決して無い。


元来ドコルは我が強い国民性だ。

アルザートが公表する予言にも、疑わしいものには真正面から疑問の声を投げかけていた。今もまた、神族の現れた予言の真偽を確かめるべく、使者デーデ・フーズは他国の白い回廊を歩いている。ガーネットのような深みのある美しい紅い瞳が見つめる窓は、橙色の空を透過していた。

 視界の左端にはツタの這う石造りの塔が見えるここは、アルザートの北涼地方にある右大臣の別荘だ。突然の彼女の訪問も、ダリシュは快く受け入れた。準備を兼ねて、対談は明日開かれる。

 明日にしたいとデーデが伝えたとき、ダリシュは彼女の訪問を祝う宴を催したいと言った。だが彼女は客でありながらすっぱりと却下し、代わりに邸内を自由に歩きまわらせて欲しいと願った。

 ダリシュは清しい微笑みで快く承諾し、邸内を案内しようとしたが、デーデにあっけなく切り捨てられた。

 彼女は猫のようだった。暖かい日差しの中では無防備に昼寝をし、寒くなってきてからは、無意味に邸内を散策したが、背後に人の気配があることは、さすがの彼女も許すらしかった。魔術師であり騎士であるデーデに、立ち向かえる者がここに存在しないことは、誰の目にも明らかであった。



  ***



 カラカッタ。

 目覚めの一発に飲んだ健康カクテルは辛かった。

 目が覚めるというより、寝ていた部分とは違う部分が床についてしまった気がする。

「うぅ~しかもへたに体に良いものが入ってるから、妙に浸透してくるんだよね」

 くらくらする頭を抑えながら、グレンはカイムの執務室でもらって来た地図を広げる。床に座って、やっと一息つく。

 彼の故郷でもある北涼地方に、まさか幽閉されている女の子がいたとは知らなかった。右大臣の別荘があるとも知らなかった。

「塔なんざ見たことねがぁ、本当にあんけね」

 なまってみるが、やはり知らないことは知らないまま、思い出しそうに無い。窓のない自室の寝床に転がりながら、もう一度資料を読んでみる。

 読んでいない場所があった。

「えっと、なになに・・・・塔があって、食事を持ち込んでいる奴を見かけるが、一人で食事をするには同じものが二つそろっていて変だ。ピクニックをするのも考えられないような年頃の魔術師なので、あそこに誰かが幽閉されているのではないかと思われる・・・・ほほう」

 寝そべっていた体を起こす。背が寂しくなり、壁に寄りかかると冷たくて、寒気を感じながら続きを読む。声を出すのは、声を出さないと知識が右から左へ抜けていってしまう頭をしているからだ。人前ではしないけれど、効率が悪くて仕方ない。

「塔の扉は、魔術師が来たとき以外は見えもしない。魔術師が来たときにのみ現れて、他の人間が近くを通っても変化はなく、試しに魔術師に似た格好で食事を二膳持ってそこへ行ってみたが、やはり変化は無かった。・・・・・・・・・・・・・・・・・この偵察は変装までしたのか」

 そして、いくつかの対策案を考えながら、再び眠りに付いた。

 明日の朝には、北へ行く。


  **


 場面はアルザートの城。翌日の朝に移る。

 朝日を受ける窓、そこにかかる白い布がゆれていた。窓の隙間から風が吹き込み、光が差し込み、白の波は淡く光っている。白で構成される波は、下にいくほど高くなり、地面との隙間から入り込む春の訪れのような暖かな光はしかし、騒がしさに埋もれて、影を薄くしていた。無事を喜ぶ声と怪我を茶化す声が、光とは違う暖かさを作り出している。アルザート王城の療養室は、ひたすら穏やかさに埋もれていた。

 白の壁には白の装飾が施されている。療養室で唯一違う、茶の色は寝台や椅子など、数少ない存在が自然の温かみを与えていた。

 音をたてて茶の扉が開いた。がやがやと騒がしい部屋に赤色の服が増え、廊下から来た赤色は、柔らかな光を浴びて色を鮮やかにした。光に浮かび上がった、赤の人は、目的の姿を見て黒い瞳を細める。

「なに珍しい顔してるんだ?」

 呼びかけると、友はびくりと反応して、思案を深めていたらしい瞳のままで

ぼんやりと。

「ん?あぁ・・・・」

 新しくきた赤の人は、木の椅子を引き寄せて寝床の近くに腰つけた。

「はは、黒の魔術師の第一発見者は精神まで攻撃されたか」

「ん?あぁ・・・・」

 寝床でこりこりと頭を掻く友は、いつになく思慮深い顔をしていた。

 珍しくて、怖かった。

「おい、お前、本当に大丈夫か?」

「・・・・・・聞かれたんだ」

「あ?」

 赤い人は首を傾げた。

「どうして国を救おうとしてはいけないのか」

 魔術師の足止めをしていたときに、話をしたのだろう。反乱軍の言い分のような言葉だった。

「聞かれて困った。あの魔術師は正しい」

「おい」

 怪我人の肩を掴み、力を込める。

「・・・人が居る」

 人目をはばかる事すらも忘れていた友は、掴まれた肩の痛みで我に返ったのか、見舞いに来た友を見ると彼らしい笑みを見せた。安堵して友は手を放した。

「・・・・俺ぁ、何がしたいんだかね。と思ってよ」

「家族を守るんだろう」

 怪我人は肩に残る痛みを我慢して、白いカーテンを見た。透過する朝の光がやさしかった。

「そうだ。そうなんだがな、それも只の言い訳なんじゃないかってよ」

「何言ってんだよ?」

 熱くなる前の、唯一寒い朝の冷気が顔に当たる。

 意識ははっきりしていた。

「本当は、自分の為なんじゃないかって。家族を思うなら、未来を良くしようとするはずなんじゃないかってよ」

 横から笑う声が聞こえ、見ると、この友らしい少し歪んだ笑い方をしていた。

「はっ、家族を思うから国にいるんだろう」

 まぁな。と答えて。

「お前だって知ってるだろ?兵保護の規定が変わるかもしれない。新しい規定が女房らを養える程のものか分からねぇ」

「只の噂だ、みすみす士気を下げるようなことはしねえだろう」

 でも、と娘の思春期でこまっている男親の顔で声を出す。

「確証は無ぇだろ?」

「まぁな・・・」

 だろ?と言って溜め息する。カーテンが揺れて冷たい風が室内に入り込み、嫌な空気をさらいながら流れていった。

「それでも、俺は動けねぇんだ」

 再び外を見る。

 空いたカーテンの隙間に、水浴びをする小鳥が見えた。

「国が大事と言ったら聞こえは良いけどよ、本当は国に逆らう勇気がねぇだけだ」

 返事は聞こえない。

「なんだかんだ言って、自分は大事だ。でもな、ずっとこのまま戦争が続くのなら、俺のしていることは意味が無いんじゃないだろうか。俺が望んでいるのは、家族で平和に暮らすことだ」

周りに友以外の人の気配がないことを確認して。

「国を大きくすることじゃない」

 言うと、胸につかえていたしこりがなくなって、それが自分の本心なのだと確信する。「そうか」という友の声が聞こえた。

「……お前は、『奴ら』が勝つと思うのか?」

 友は馬鹿にするでもなく、探りを入れるでもなく、真摯に訊ねてくる。問われた質問に怪我人は苦い笑いを返して。

「奴らが勝つ補償は無ぇさ。国が勝った時、万一奴らに肩入れしていてタダで済むとも思えねぇ。でもなぁ」

 続けられない言葉の先は、感じ取ってくれている。

「…………」

「……俺ぁ、どうするべきなんだろうか」

「………さあな」

 結局、胸のしこりをすこし解消し、不安を友に伝染しただけだった。


『どうして』


あ?


 昨日、完敗した魔術師の声は、噂に違わず声変わり前の高い声で、見上げた先の顔は、逆光でよく見えなかった。

「どうして邪魔をするのですか。敵にならなければ、貴方も傷つかずにすんだのに」

「お前らが逆らわなければ良いんだろう」

 馬鹿にしながら、気づいていないらしい当然のことを教てやる。

「貴方は、この国の現状を知らないのですか?」

「何を突然――――」

「たくさんの罪なき人たちが命を落としていくこの現状を、変えたいとは思わないのですか?」

 甘い。下の人間が何をしても、変わりはしねぇと分からないのか。青臭いガキだ。だから草むらなんかに紛れるんだ。危うく小便をかけそうになっちまった。かけたかも分からん。

「俺には関係ねぇ」

「平民が飢えと疫病と重税に苦しめられている上で成り立つ、兵と貴族のみに与えられる加護。その一部にたまたま入れたからと、あなたは見て見ぬふりができるのですか? いつ自分が同じになるかも分からないのに?」

 声色はずっと変わらずに、動揺とは無縁な調子で言い募る。感情の起伏の無い、単調な言い回しが不快だった。

「知るかよそんな事、俺は今の生活が大事なんだ」

「自分が大事なのは当然です。誰だって今の幸せを失いたくはない。でも、それは平穏を手に入れようと頑張る人の邪魔をする理由にはならない」

 反論できねぇ言い方をしやがる。

「あなたのような人でさえ気づいている、この悪しき現状を変えようとして何が悪いというのですか」

 今までとは違って声に力が入っていた。

 溢れ出たかのような、感情のある声は心に響いた。その響きを、自分は感じないように努力した。

「あなたは敵です。でも結局はこの国に生きる同士、いずれ分かり合いたいものですね」

 逆光の中の少年の影が大きくなった。屈んで近くなった顔の中で唯一色彩のある口から、さき程よりも大きく聞こえる声が。

「できれば、なるべく血を流さずに済ませたい」

「そんなん、ただの理想だ」

「あなた方の手助けがあればできるかもしれません」

 影の中の口は、相変わらず感情を乗せずに言葉を紡ぐ。

「馬鹿かお前、血迷ったか?」

 子供のふっくらとした唇が閉口した。

 ……ふん、ガキが調子に乗るから傷つくんだ。

 声が消えると、変わりに封鎖された部屋の空気のような、よどんだ湿気を含む風が鼻孔をくすぐった。

「家族がいるから国に逆らえないと?」

 少しぶりに出てきた言葉の内容は核心を突くもので、本心の理解を得た事がどうにも嬉しくて、少しだけ感情を高めて頷いた。

「ああ」

「我々には手を貸してくれないと」

「ああ」

「失敗したときが怖いから?」

「ああ」

「自分と身内のためなら他人が苦しんでいても良いと」

 痛ぇこと言うじゃねぇか。

「・・・ああ」

「そして身内を失ってからこちらに来るのですね」

「っそれは・・・」

 言葉が見つからなかった。答える義理もないのに、答えられないことが悲しい。

「馬鹿な話だ。憎しみに囚われて、やっと間違いを正そうとするなんて」

 言葉に馬鹿という言葉があっても、相変わらず淡々とした事実のみを伝える声が耳に残った。微かに憂いを含んだ声色に人間らしさを感じた。人ならざる凄みを感じていても、魔術師だからそういうものなのだと思っていた自分が馬鹿らしくなった。魔術師だからじゃねぇ、この凄みはガキのくせに達観した物言いのせいだ。それなのに、心を感じた声はただ思ったままを、言っているようにも聞こえる。

 目の前の闇には、冷静な温度の無い人間と素直な子供が混在している。

策士より厄介な性に思える。

「始めから正そうとしていれば、大切なものを失わずに済むかもしれないのに」

 当然のように言い切る声が、頑なな心の壁を突き抜け響いていた。胸の辺りで何かが揺らぐ。自分の醜さを隠すように作り上げてきた壁が、許容できない思いで瓦解しそうになって、嫌な予感として感じ取れた。

「……やめろ」

「これはただの子供の意見ですよ。兵士さん」

「……」

 こいつが何をしたいのか、真意を読んでやろうと見上げた目は色眼鏡で隠れていた。闇の中、唯一つ曝け出された唇が笑みを形作っている。

 嫌悪を感じるものではなかったが、何を笑ったのかも判別しにくい、どこまでも中身を見せない奴だった。

「では、僕は逃げなければならないので」

 遠くから、仲間が呼んできた足音が聞こえていた。

 すっくと立ち上がった黒衣の魔術師は最後に。

「さようなら兵士さん。また会いましょう」

 影が立ち去った場所に光が差し込み、眩しさから逃れようと瞼を閉じた。

 光に慣れて瞼を上げたときには、黒衣の影は消え、赤い衣の影がかかっていた。近い場所から安否を問う声が聞こえてくる。

「……生意気なガキだ」

「ぇ、ごめんなさい」

 期待したものとは違う声が聞こえた。誤解を解く気にはなれなかった。

体の近くを数多の足音が過ぎていく。

地を蹴る響きが耳に異様に響いて聞こえた。出血を止めようと、俺の身体を押さえつける力があったが、傷よりも腹部を圧迫される方が苦しかった。この分だと、傷の深さはそれほどでもないようだ。

ガキが、手加減なんかしやがって。

「ちくしょうめ」

「大丈夫ですか。今、衛生兵が来ますから、頑張ってください」

 上から、何事かを呼びかける声が聞こえた。

違う。ちがう。こんな声じゃない。俺が聞きたいのはこんな声じゃない。

俺は、あいつらの笑う声が聞きたいんだ。あなた。と微笑み、がきらの手を引くあいつの声が聞きたいんだ。

「ちくしょう・・・・・・・」

どうしろというんだ。


            ***


 別荘地として名高い北涼地方にひとつ、そぐわない塔がある屋敷がある。

 その屋敷の一室で、短い髪をさらりと梳かしたデーデ・フーズは、腹に一物抱えながら立っていた。

「おはようございます。アルザートの右大臣殿」

 茶の髪を揺らして礼をする。

 紅眼の魔術師兼騎士の女性は、小柄でも大柄でも無い体で、アルザートの右大臣ダリシュと向き合っていた。彼女の凝った赤い正装は、アルザートと同じく国色を赤に持つドコル騎士のもの。両国の違いといえば、アルザートは黄みの赤、鮮やかな赤、濃い赤と、赤色の系統で統一しているのに対し、ドコルは黒の色も強く使われているところか。火山大国のドコルで見物でもあるマグマ

の赤と黒は、ドコルの騎士色であり、一般兵は黄と暗い赤を組み合わせた炎の色となっている。

 もちろんデーデは黒と赤だ。

「そのような呼び方をなさらずともよろしいですよ。デーデ殿」

 ダリシュが笑ってみせる。

 右大臣らしい簡厳な正装は、年輪を重ねた顔に良く似合っていた。

「まぁそんな、お心が広いのですね。しかし私はいち使者でしかございませんから、右大臣殿と御呼びさせていただきますわ」

 デーデは、ポンと、両の手を合わせて笑う。

「なるほど。貴女も謙虚な方だ」

 そう言うダリシュに、デーデが手を合わせたまま、やんわり笑う。

「そうですか。読みが浅いのですね」

「は?」

 細い目を見開いたダリシュに、デーデを愚弄する色が込められて、あら、とデーデは合わせていた手を下げた。

「失礼を。ただの戯言にございます。お気になさらずに」

 小首を傾げ、微笑んだ。体の前で優雅に重ねられた手は、彼女を女性らしく華奢に見せた。言葉の強行さとの違いに戸惑うダリシュに、返事をさせる時も与えず、デーデはさらに言葉を続ける。

「そろそろ本題に入りたいのですが。席に着いても?」

「おお、どうぞどうぞ」

 笑い皺を浮かべる笑顔と笑顔は、お互い、向かいの席に座る。

 席に着くとすぐに茶が出された。数瞬の間、デーデはティーカップに視線を落とすと、正面に座るダリシュを見た。茶を飲むダリシュを見るデーデに気づき、顔を上げた老人の目が笑顔を見せて、デーデは茶を一口すすった。

甘い。思考を鈍らせるような甘さ。それでも毒味はしなかった。

「では、改めて本題に入りましょう」

 かちゃり、と静かに茶を置いて、デーデは微笑みを消した。

「此度、訪問いたしましたのはこちらに前任の予言師である、ジキル殿がいらっしゃると聞き及んだからにございます。間違いはございませんね?」

 肯定を催促する彼女に、ダリシュは不可解げに眉をひそめた。腕を組み、思案するよう首をかしげ。

「はて? どこからそのようなことをお聞きになったのか。・・・・どうやら、誤った情報をお掴みになられているようですな」

「おや? 現予言師であらせられるシラ殿からお聞きしたのですが。どういうことでしょう?」

 目を見開き、口先を微かにつぼめて小首を傾げる女子の姿は、邪気のない子供のよう。純粋な好奇心を見せられて、ダリシュもわずかに心を開きそうになった。

「まさか、彼が偽りを真実と思っているのでしょうか?」

幼子のような表情が消えた。瞳が爛々と輝いて、官吏然と真面目な視線を向ける彼女に、ダリシュも、浮かべる笑みを深める。

茶を入れ替えに入った侍女が、背筋に冷たい汗をかきつつ出て行った。茶は、温かいうちに飲まれるだろうかと思う侍女をよそに、デーデは乾かない口を開いた。

「それは問題でございます。あの方は予言師にあらせられる。予言師は王などよりも余程、アルザートの象徴と言うべき存在であるのに、官吏に邪険にされ、あまつさえ、偽りを聞かされている、などとなりますと我々としても軽く見ていることは出来かねます。我らにこだわらずとも然り。国内はおろか、他国からも多くの反感を買うことになられましょう。まぁ我がドコルは、どこにも負けぬ反感を示せるよう努力いたしますが」

ダリシュは相変わらず、笑みを見せながら。

「はは、それは困りますな。しかしの、ここにジキル殿が御出下さったのは幾分か昔の記憶になっておる。信じられぬが、シラ殿が嘘をおつきになられたのではないかな」

 穏やかな笑い皺を作るダリシュに、デーデは楽しげな笑い声を上げた。

「それは有り得ませんわ。彼は嘘をついていませんでしたから」

笑う鋭利な口の隙間から、白い歯が覗き見える。余裕を感じる口元に、ダリシュは同じように笑って見せた。

「すばらしいですな。そこまで断言できるという事は、貴女は心をお読みになることができるのですか。ぜひ我が孫娘の心も読んでいただきたい。そろそろ婚姻相手を定めて欲しいのでね。ははははは」

ダリシュに続き、まぁと言って笑うデーデは、笑いの熱が冷め始めた一瞬に、別の言葉を切り出す。

「誠に残念でございますが、心を読むことは出来ませんの」

笑んでいた目元を引き締めると、キリと相手を見据える。

「しかし、彼が嘘をついたはずが無いことだけは確実です」

「ほほぉ、何故そうも言い切れるのか。実に興味がありますな。お聞かせ願えませんかね?」

かちゃり、と音をたててダリシュは茶をすすった。笑むダリシュを見て、デーデが内心で微笑する。

これまでの経験から、白をきり通そうとする気配も、それを打ち払う心地良さも知っている。

「ふふふ、こちらに彼の妹君が隠されているとお教えしたら。『これから言う事は、一つとして偽りはありません』と言って教えてくれましたの」

鋭利に笑う三日月の唇が、まさに喉元に突きつける刃のよう。

「何を、仰っているのかわからんが」

 はて?と再び不可解そうに見返してくるダリシュを前に、彼女は笑みをかき消した。二つの鋭い視線が絡み合う中、デーデは構わず言葉を放つ。

「とぼけても無駄にございます。私が魔術師であることはご存知のはず」

ダリシュの片眉が反応した。

動揺を見せた自分にダリシュが苛立ちを持ったときには、デーデは笑みを取り戻していた。

「封印の中身くらいなら、見抜けますわ」

ダリシュは微笑んだ。優しさのかけらも無い、不謹慎な笑みだ。対するデーデは無邪気な笑みを顔に張る内心で、ダリシュのように笑む。

「しかし私共にとって、それはどうでもよい事。我らが知る望みは予言の真偽のみ。あなたが何をお企みなのか、気になるところではございますが、ジキル殿との面会を許していただければ、此度のことは忘れましょう。それとも、偉大なる予言師様の近況を、我が王にお伝えする方をお望みでございますか?」

ふふ、とダリシュが声を殺して笑った。

「お主は面白い娘だの」

「お褒めに預かりまして光栄です」

再び邪気のなさそうな笑みを返すデーデに、ダリシュは横柄な笑みを隠さない。

「いいだろう。ジキル殿も直に到着なさる。面会の場を設けよう。しかしジキル殿がここにお越しになっていたことは」

漏洩ろうえいしないとお約束いたしましょう。親愛なるアルザートの右大臣殿に、迷惑をおかけしたくはございませんもの」

くすくすと笑うデーデを、冷たい視線が笑みながら見据えた。

「……して、デーデ殿。ひとつ訊ねてもよろしいかね」

「はい」

微笑むデーデに、同じくダリシュも寛大に笑みながら。

「シラ殿との面会時、立ち会った者は誰でしたかね。いやなに、近頃のアルザートは忙しくてね、予言の広報官にまでは気が行っていなかったのだ。休みを与え忘れてやいないかと、ふと気になってね」

予言師の暴言を止められなかったことを、誰かに当たろうというのか。

彼の意図することを読み取って、デーデは微笑を崩さぬまま、と相槌を打つ。

「たまたまお会いしたのです。不思議なことに、人目をはばかる予言師であられながら、人の出入りの多い広間で、お休みになられていました。まるでスイラの王陛下のようでしたわ」

「そうですか。彼が出ていて、騒ぎにはなっていませんでしたかな?」

 その場の状況を知って、何の解決になるというのか。

話をそらしたと感じたデーデは、もうダリシュに興味がないようだった。

「ええ。皆『まさか』と思っていたのではないでしょうか」

「ホハハ、そうであろうな」

その後は、形式通りの会話が続いた。ただし、デーデだけは内心で愉快に腹を痛めていた。魔術師である彼女は、封印の魔術が崩壊したのを感知していた。





 デーデが会談をしているこの日、グレンは同じくそこに来ていた。

「そんな訳で、魔術師さんにどうにかしてもらわないと、どうにもならないんだ」

 笑うグレンに、黒いローブの少年が苦笑する。

「魔術が関わってきたら、仕方ないですね。ま、送り迎えの足役だけなんてつまらない、と思っていたところですし。良いでしょう。でも封印だけですよ」

 ああ。とグレンは頷く。その背後にある大空は、晴れ渡った青だった。

「救出は俺だけでやるさ」

言って、グレンは壁の向こう側の塔を見た。別荘である屋敷に着いて早々に、壁をよじ登って様子を見たところ、確かに入り口は見当たらなかった。何も知らずに見たなら、娯楽で造った飾り塔にしか見えなかっただろう。

「でも・・・こうなると魔術で鍵とか閉められてそうですね」

「え? ああそっか、そうだな。なんか対策ある?」

「仕方ないですね。三つほど魔石を恵んであげましょう」

「ほっほう、さすが弟クン。気が利くねぇ」

 少年がくすくすと笑った。その黒いローブの頭に、ひらひらと蝶が止まって、穏やかそうに羽を閉じたり開いたりし始める。それは少年と実に不似合いで、ふくみ笑うグレンに少年は首をかしげながら。

「鍵がいくつあるかわかりませんが、入り口、檻、予備、で三つ。魔術で閉められていると思われる鍵穴に入るくらいの勢いでねじ込めば、まぁ大抵開きます」

少年が首をかしげても、蝶はしがみついている。グレンは笑いを堪えつつ、なるべく平静に。

「ひひっ・・すまん。なぁこれさ、鍵穴より大きくないか。入らなくないか」

「だから『勢い』です。ようは気合ですよ。気合」

「そんなでいいの?」

「いいの」

 言いながら、少年はふわりと浮き上がった。周囲を風が取り巻いている。そのまま穏やかな夏の空へと昇っていく少年のフードの中に、風にそよぐ黒い前髪が見えてグレンは少し驚いた。

(黒髪だったのか!って、そんなことで感動するって仲間としてどうよ) 

少年の顔だけが壁より上にいったところで「なるほど」と少年は呟き。

「封印をぶち壊しますよ」

「おお! よぅし、頑張れよ」

封印を解くのを待つ間、壁に寄りかかっていようとグレンが背を預けたとき。

「もう終わりましたよ」

「は?」

 上から声がして、青年は再び背を伸ばして立った。

「見て御覧なさい」

 少年がフフフと笑うと、グレンは風を感じた。体が地から離れる。少年の頭と同じ位置に頭がくると、壁の内側が目に入った。先程は何もなかった塔に、入り口としか呼べないようなものがある。

「・・・うわー扉が見えるー」

「封印壊すのって地味だから、少しは面白くなるよう、最速で壊してみました」

 少しだけ楽しそうなクローの頭に、いつの間にかいなくなった蝶の代わりに、ぽん、とグレンが手を乗せた。

「ごくろうさん」

 視線はひたすら塔へ向けて、ぎらぎらと輝いている。気持ちはもう塔の中に入っていた。

「迎えよろしくな」

 少年の頭に乗っていた手が、今度はグッと壁を掴んだ。クローは「はい」と返事をして

「約束の時間にはここに戻りますけど、急遽呼び出すときは紙に書いてくださいね。余裕がなければ×印でも良いですから」

「んな事にはならねぇよ」

 不敵に笑って。

「お子様は時間まで遊んでな」

 飛び降りる。降りてすぐ、近くの木陰に隠れて少年に手を振った。大丈夫だ、という合図である。見ていた少年は浮いていた体を地面に落として、その姿はグレンから見えなくなり、木陰から周囲を観察する。

アルザートで高貴とされる赤色をふんだんに塗りたくった屋敷の壁は、かなり目に痛い。

「・・・・・・・・・人は居ないな」

もう一度、辺りをうかがって気配を消すと、景色に溶け込みやすい灰色の人は、その身を隠してくれそうな灰色の壁伝いに動いて、屋敷の端でぽつねんと建っている塔の前へ行く。そこには、常では隠れているはずの扉があった。鉄で縁取られた両開きの扉は木でできていて、開くのを待っているかのよう取っ手に絡みついた鎖をしゃらしゃらと揺らしていた。

(鎖か、只の鍵なら壊せるんだけど)

 ポケットの中に手を入れた。三つの球が指先に触れる。

(魔術で閉められてたら、さっそく魔石頼みだよ。幸先が心配だね)

 灰色の男はそろりと影中からすべり出た。見張りの人間が近くにいないことを確認すると、風になびく鎖の束を鷲掴みして、静寂の中にジャラジャラと音を流す。鎖の束を分け入っていくと、隠れていた「鍵」が現れた。特別不思議なところのない鍵だった。

「よしよし。ただの鍵だな」

 グレンは腰につけていた短剣を抜き放ち、切っ先を鎖に当て。

(ただの鍵なら、鎖を切った方が早え)

 甲高い金属音が、澄み切った空気の中に響き渡った。しゃらしゃらと音をたてて鎖が落ち。取っ手に絡む少しの鎖だけが残る。

(かんたん簡単っと)

 金属音が響いてからも、誰かの声がした気配はなかった。鎖を全て取り外し終えて、さっそく簡素な両開きの扉に手をかける。

(あら?)

 掴んだ取っ手を引いても押しても、扉は動く気配すらなく、がたがた揺れるよう上下左右に動かしてみても、がたとも反応しない。

(こっちが魔術か。あの鎖は何だったの)

 ポケットから、恵んでもらった魔石をひとつ取り出した。手で握りこめると隠れてしまう真白の石を頼りに、鍵穴を探すが、あるのは鎖を止めていた鍵だけで、扉を閉めている鍵は見当たらない。数秒首を捻って考え、グレンは扉に魔石を押し当てた。

(気合だ!)

 ぐいぐい押し当てると、何か見えない壁のようなものを感じた。見えない壁を突き破るつもりで、更に力を込める。小さな球は手のひらに食い込んで、しばらく頑張ってから、ふぅ、と息をついて一度休むことにした。

 押し当てていた手を離すと、手のひらにめり込んでいた魔石が自由を求めるよう地へ落ちていく。掴み損ねた魔石は、芝生も何もない晒された土の上にぽとりと落ちた。晒された茶色の大地に鈍い音をたてて落ちると、魔石は球の形を失い、白いもやを溢れ出した。

「うわっ・・・・・何だよ」

 雲のような白いもやが立ち上り、気づけば扉を覆い隠していた。覆い隠すのもつかの間、もやは煙の如く上へ上へ塔の周りを螺旋を描いて上っていく。その煙のようなものが薄れて消えると、さっきまでは何も感じなかった塔に、空気という気配を感じるようになっていて、グレンは扉に手をかける。

「・・・・・開いた」

冷たい風が顔に当たる。扉は壊れそうな音を鳴らして開き、開くたびに溢れ出して来る風が男の灰色の髪をさらっていった。背筋をぞっとさせる冷たさで首を冷やしては去っていく風に、グレンは気を研ぎ澄ませていく。

冷たい空気に、敵意は無い。

扉が彼一人すり抜けられるだけ開いて中に入ると、夏の熱でほてった体に冷たい空気が巻きついて、それは涼しさではなく寒気として感じられた。

(イヤな感じだね)

 鍵を破ったことがばれないことを祈り、念のため切った鎖を塔の中に隠して扉を閉める。そうして入った塔の中は暗く、しかしどこからか入り込んでくる光が光筋となってあって、夜目のきくグレンには何とか塔の中が見えた。常闇の如く、むなしさが漂う暗さの中に、上へ下へと続く螺旋階段がある。どちらが目的への道か分からないが、そこは自分の直感を信じようと、迷いは無かった。それよりも、昼でさえこの暗さでは、塔の中には昼が無いらしい。そこに幽閉されている者の気が、正常かどうかが不安になった。



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