乱の20 アルゼムと側近ゼオン
荒廃した砂と岩の大地。赤みの強い茶色の世界に射す日差しは草木にとっての火のように、地上を進む者たちに忌み嫌われる。場違いに馬を走らせるなどもってのほかで、いつの世も、無理に馬で進む通行人は砂漠の砂上ではなく、大半を占める岩の大地をひた走った。
持久力は草原の半分で、既にアルザートを出てから三日が経過していた。祖国なら目的地へつく距離を走れたろう。
岩場を走る為の工具をつけた馬足から近く遠い砂の上を、日陰を求めた砂漠トカゲが影の間を駆け抜けた。そこから近い岩の大地に着いたとき、アルゼム一行は休息とした。
始めに二十数頭の馬分の大きなテントを造って日陰に入れ、人は大きな岩の陰に素で休んだ。テントもあるが、造る作業より休みたかった。
その岩影の人々から少し距離を置いた場所にひとつ、大きくも無いが小さくも無い、お手軽サイズのテントが建っていた。
入り口には周りを見張る二の人がいる。
「陛下、御加減は大事ありませんか」
テントの中は、外に比べて数度温度が低い。石の転がる岩と砂の大地に突如現れたそこには、二つの影があった。
厳格漂う声の持ち主はしかし片膝を大地につけて、顔を主へ向ける。
「問題ない」
答えた男の瞳は布の内側で灯りに照らされ、漆黒の中にオレンジ色が揺らめいた。夕焼けのような一抹の寂しさを反射する目が歪み、次いで型良い唇が苦笑をもらす。
「お前には危惧させてばかりだ。すまないな」
椅子に腰かけたまま顔を年上の部下に向ける青年は、どこか憂いのある表情をしていた。慣れない砂漠の旅は、確実に進む者の体力を削っているのか。
「陛下はわが主に在らせられる。主を案じるは部下の務め。お気に病む事などありません」
薄い色と濃い色の混ざる茶髪の部下が力強く言い切ると、銀髪の青年は笑顔を見せた。
「本当に私は良い部下を持った」
思い出したように、微笑みは影を潜めて眉根が寄る。
「であるのにいつまでも戦を長引かせている。治世の能の無い証なのであろうな 」自嘲に笑う青年には覇気が無く、日差しを遮る厚い布の影に紛れてしまいそうだ。
「そのような事はございません。その事だけはお見落としなさるな」
「だが戦を始めたのも、そして止めぬのも私だ。戦が終われば民も命を吹き返すのであろうが、終わらねば吹き返すこともでき無い。どうにか国を保ってはいるが、ダリシュがおらねば今の治世すらもままならぬだろう」
悲しげに、けれど揺るぎ無く言うアルゼムに、対するゼオンは苦い思いを抱いた。いつの頃からこの青年は自信を失っていったのだろう。
心無い者達に力の無さを思い知らされたのは、彼が王位に着いてからか。知識と経験を武器に、伸びゆく芽を刈り取られてしまっている。
ゼオンはきつく口を結んだ。この王は憎むべき相手に気づいていない。
「・・・陛下、それは違います」
アルゼムは微笑を残しながら息を吐いた。
「ゼオン、私に配慮することなど無いのだよ。私は愚かなのだ」
「陛下。陛下はご自身を過小評価しすぎにございます」
どうにかこの若き青年に自信を取り戻させなければいけない。そうゼオンは決心した。今、ここで。取り戻させたい。自信がなければ、才能があるとしても潰えてしまうのだ。
「お前は本当に良いやつだな」
アルゼムは笑った。
「昔はね、私も自信があったのだよ」
過去の記憶を引き出すように、ぼんやりと燃えるランタンの炎を見つめる。
「幼き頃より勉学に励み、治世に必要なことは全て学んだと錯覚していた。父上も私の出来を聞いて自信を持って良いと言って下さった。だから出来るのだと思っていたが違ったのだ。父上も教諭官も、世辞を言っているだけだった」
「そんな筈はございません。教諭官であったレックス殿は、陛下がさながら賢王のようだと仰っていた事がございました。民のことを第一にお考えになり、自ずと治世の理を理解なさると殿下の教諭官として鼻が高いと、そう申しておりました」
アルゼムはふるふると首を左右に動かした。
「王となる際に、私はダリシュから様々な事柄を聞いた。王に必要な技量の中に私の知らぬことが、できそうにないことが多くあった。政に関して私は赤子同然なのだ」
「始めから完璧にできる者などおりません。時間をかけて身につけるものも多くあるでしょう。かの名高い賢王も玉座に着いたばかりの頃は良く落ち込んでおられたと、かつて我が祖父が申しておりました」
賢王に仕えた祖父からは、よくそんな話を笑い話として聞かされた。
若い王は苦心するのが当然なのだと。
「始めからできぬとも、それは当然のことなのです」
貴方が駄目なのではないのだと、気づいて欲しい一心でゼオンは真摯に訴えると、だが、とアルゼムが否定する。
「身についた時、国が滅んでいては意味が無い」
哀しみに眉を顰め、首を振る。
ゼオンは言葉に力を乗せた。
「国は簡単には滅びません。陛下が政に慣れるまでは容易にもちましょう」
「慣れるまでの間どれほどの者が犠牲になるのだ。今でさえ戦で多くの者を犠牲にしている。私の我が儘のために、多くの者を苦しめているのに」
アルゼムはグッと、苦しみの滲む渋面をつくった。
見る者に涙が似合う姿だと思わせるものでゼオンは言葉に窮した。一拍の沈黙が流れた。
「だがそれでも、私はこの戦だけは引けん」
強い、強い意志の詰まった声。
「彼女を我が妻に迎え入れるまでは、止めることはできない」
決してぶれる事の無い決心は漆黒の瞳から垣間見ることができる。強い、この王は強い。本当は強いのだ。
力は、しかし憂いの色へと移り変わった。
「ふっ、知識も経験も足りぬばかりか、戦までもする私が治世を行おうと国を荒らすだけだ。ならば知識も経験も持ち得、私よりも良く政を解する者に任せるべきだろう?」
彼の道理は通っていた。
しかし任せる相手が悪く、さらに王が治さぬ政は国の気質にそぐわなかった。
「ダリシュは何も知らぬのに粋がっていた愚かな私が、過ちを犯す前に真実を知らしめてくれた。辛いものではあったが、お陰で知らぬことを知ることができたのだ。彼には感謝している」
確かな信頼のある声色は、不快を伴ってゼオンに響く。
「彼は良心から陛下に進言したのではありません」
今ここで言わねばならないのだと予感した。
再び王との対談が許されたとき、奴のいない都合の良い状態であるとは思えなかった。
今進言せねばならない。そう予感した。
「何故そのような言い方をするのだ」
たとえこの王の反感を買おうとも。
「陛下、彼は国を操りたいが為に陛下の自信を奪ったのです。最高の権力を得たい、というものが彼の真の想いにございます」
たとえ何の見返りも無く終わろうとも、王の心に少しの引っかかりでも作れれば良いと。強く胸打つ心臓を、ゼオンは意識の外に追いやった。
「何故そのように言い切れる。お前はダリシュと仲が良かったか?」
アルゼムの声にはトゲがあった。信じるものを悪く言われて快く思わぬ者など居ないだろう。
これは一つの賭けに近かった。
だが、王を信じていた。
「私ほど歳を重ねれば、仲が良くなかろうとも多少なりの関わりを持ちさえすれば、人の心を予測することは可能にございます。彼は、彼を信用してはなりません。彼は国を腐敗させる」
この王に真実を知ろうと思う心があれば、怒りを覚えようとも話を聞いてくれるだろう。
もし無ければ、奴の甘い嘘へ逃げるだろう。
ゼオンの見つめる先で、アルゼムは困った顔をする。頭後ろに縛られた銀髪が肩にかかり、炎の橙色を反射してゆらめいていた。
「何故だ。ダリシュは父の代からの大臣、信用ならぬとは思えん。国を腐敗させると思うのなら、納得できる説明をしてみせろ」
少し、息を吸った。そうそう思い出したいものではないが、忘れるつもりも無いあの事件はアルゼムの心を引き止める助けとなってくれるだろう。
「真に国を想う者ならば、ラフィート家惨殺など致しません」
幕の外から兵たちの話し声と馬の嘶きが聞こえてきてくる。
「惨殺」と呟き、一瞬の間を空けてアルゼムは怪訝な表情で。
「その事件なら知っている。それが原因でシラはアルザートを離れたのだったな」
哀しさを感じたのか、銀の眉が歪んだ。
「それは酷い状態だったと聞いている。よくシラだけでも生きていてくれた。これも神のご加護か」
神の詩とも称される予言の詩は、しかし彼の家族の不幸を知らせはしなかった。むしろ不幸を呼び寄せて、あの少年は一人になった。ゼオンの茶の瞳が涙を枯らす彼を映したときすでに加害者は見当たらず、シラ以外に生きている者も見当たらなかった。独り、あの少年が泣いていただけだ。
「あの事件は両大臣により賊の仕業だとされておりますが、私は信じられないのです」
さほど古くも無い映像が蘇り、ゼオンは眉を顰め(ひそめ)て瞼を下ろす。悲しみの感情は、再び茶の瞳がアルゼムをとらえた時には消えていた。
強い意思に圧されて、アルゼムは腹に力を込めた。
「だがゼオン。おぬしはダリシュが事を起こしたように言うが、シラを救出した者こそダリシュの部隊であろう」
「違います。それは違うのです。陛下、私は一家を殺害した者こそ右大臣の部隊だと思っております」
「なに!?」
揺るぎ無い茶の瞳は嘘をついているものではない。強い瞳の輝きが、アルゼムに疑いの気持ちを持たせなかった。驚愕に見開く漆黒の瞳を見とめて、合った視線を放すことなくゼオンは言い連ねる。
「私は一家の主、バラリュウス・ラフィートと古くからの友でございます。
彼は息子シラ・ラフィートが望まぬ予言を強要されて苦しんでいる。と、一度だけ私に漏らしたことがございました。私への気づかいでか、誰からとは申しませんでしたが、予言師に強要できる者は限られております。ならば必然と誰か分かりましょう」
しん、とテントは静まりかえった。外から入り込んでくる馬の嘶きや人の話し声も背景音楽にしかならない。
「・・・・・・・・・・」
アルゼムは心がざわめくまま考えた。
一番の権力者である己の次に力の在る者が誰か。今、国の全てを操っているに相応しい者が誰か。何故、この部下が抱いた疑問が今の今まで己の耳に届かなかったのか。
「・・・・・・・・・・」
真実を求める気持ちがある。しかし気づけばそれは酷く残酷なことのように思えた。嫌な事実を認めたくない思いもあってアルゼムの喉は言葉を震わす事を拒否しているが、次いで聞こえた言葉に彼の儚い希望は潰えた。
「両大臣にございます。私もこれまで幾度か出自の判らぬ者に命を狙われましたが、一家惨殺に何も疑問を持っていないかのように振舞い続け近頃は襲われることも無くなりました」
アルゼムの耳には、外から入ってくる音も、ゼオンの声も遠のいて聞こえた。右の肘掛に置いた右腕を立てて、つっかえ棒のように頭を支えた。
弱った心に力を与えるように、意識を無理やり持ち直し。
「何故、お前が狙われるのだ。シラと関わりがあるからか」
厚い布に隔てたられた外の音が、ぼやけたものとなって耳に届く。
耳に入ってくる音すべてが遠い世界の物のように感じた。
「いいえ陛下、おそらくは陛下に隠している事を知られるという事態を防ぐためでしょう」
なぜ。と喉の奥から溢れるように声が漏れた。
透明な低い声には分別すらも難しい数の感情が、複雑に絡み合ってひしめいていた。
「おそらくはバラリュウスの友である私が、彼から何事かを聞かされている可能性がある為でしょう。または何か彼が死に際に残したものを持っている可能性が高いのも、シラを除いての一番は私だからです。万が一私が真実を突き止め、真実が陛下に伝われば己の立場が危うくなる。それを止めたいが為に、私の命をも奪おうと考えたのでしょう」
「一理、ある。だが惨殺の理由は何だ。必要が無いだろう」
だんだんと心を強く持ちなおしてきたアルゼムを見て、ゼオンは内心安堵した。
「もしも、です。憶測に過ぎませんが。もしシラが一家惨殺の以前に望まぬ要求を断っていたとすれば、命に背いた罰との名目で家族を皆殺しにされたのやもしれませぬ」
言葉は無かった。二人の耳には外から入る音が異様に大きく聞こえていた。
椅子に腰かけた青年の顔はゼオンへ向いている、しかし腕が支える顔の瞳は閉じ、思案しているのか眉根に皺を寄せたまま動かない。
外から入ってくる音はゼオンには異様に大きく聞こえたが、緊張に脈打つ心臓の音の方がうるさかった。
「陛下」
呼びかけられて、アルゼムは姿勢を正した。言いたいが、言いたくない言葉はしかし口にしてみると動揺の色が感じられなかった。
「そうだな。私も真実が知りたい」
言ってしまえば、心は勝手に真実を追い求めて小さなこだわりも消え失せる。
「後日、ダリシュに問うてみよう」
彼にとって右大臣を疑うことは、自分が駄目であると認めるに等しいことだった。
過去の自分が全面の信頼をおいていた男のきな臭い噂は、実は彼もいくつか知っているのだ。それでも信じ続けたのは、信じるものに裏切られることが怖かったからだろう。己の弱さのために、彼は真実を虚実として脳を切り替えていたのだ。ただ自分が傷つきたくないばかりに、真実から目を背けていたのだと
自分の揺るぎ無い声を聞いて実感した。
「私もご一緒させてはいただけませんか。最も親しい友を奪われた身として、彼の言い分を直接に聞きたく思います」
「いいだろう。しかし、お前の取り越し苦労であるとよいのだが」
それでも願いが残って戯言が出てくると、言った自分が滑稽に感じられて口をつぐんだ。
外から入り込む兵や騎士の笑いあう、和気あいあいとした音が耳に届いて、なぜか言い知れぬ淋しさを感じた。
「ですが陛下、バラリュウスは剣術の名手。そこらの賊にみすみすやられる様な者ではございません。彼の腕前はこの私が一番良く知っていると自負しております。彼は各騎士隊長にも見劣りしない実力でした」
遠い記憶が蘇り、金髪の友がゼオンの脳裏に浮かぶ。
大らかな優しい空をそのまま垂らし込めたような、優しさを称え微笑む青い瞳と、前王によりゼオンが騎士総長に任命された数日後に「自分にも勝てないようでは総長など務まらない」とゼオンの腕を確かめに挑んできた日の、彼の冷気を宿す鋭い瞳。
実力でした。と
友を過去として話す自分が腹立たしくて、酷く嫌になる。だが表情には出さなかった。彼にとっては、自分の想いよりも国王の心の変化の方が重要であった。消えた友より今が。その割り切りのよさが、彼を慕ってくれたバラリュウスが唯一すごいと言った事でもある。
「そうか。わかった。城に戻り次第ダリシュを呼び出す。それで良いか」
憂いの色を幾分か無くした主の声が嬉しかった。
「はい。有り難う御座います、陛下」
深く、深く頭を垂れる。
ゼオン・フェルデランはこの国を愛している。
国と同じく国王への忠義も厚い。彼がアルゼム王を見離すときは、国が滅ぶとき。彼がアルゼム王を見離すときは、青年の周りから真の味方が消えるときだ。
(ダリシュは悪か。なるほど)
アルゼムは憂いを一瞬顔に浮かべて、くすりと、吹き払うように笑った。
(何かに心臓を握られているような恐れを感じていたが、そういうことかもしれないな)
思い返せば、自分では悪いと思うことは褒め、自信があったものを否定されて来た気がする。まるで今のアルゼムは間違いばかりだというように。
「……………そうか」
ふわふわと、心が落ち着く場所を見つけられずに漂っていた感覚があった。けれど今は探していた場に着地して、固まっていくような、気分良い感覚がする。
戦闘時の集中力が高まっている時の、安定した心地に似ていた。
(平常時でもこういう心地になれるのだな)
鼻を鳴らせて笑った。
アルゼムの中の憂いはもう、消えていた。
関係するもので残っているのは、ダリシュが悪意をもっていたかどうか本人に会って見極めようと思う、意思だけだ。
***
「ベリアル」
誰もいるはずのない場所から声が上がった。
不意打ちの声に一瞬身を強張らせ、しかし聞き慣れた声であるから直ぐに緊張は緩まった。
既に見慣れたものとなった光景を考えながら、呼ばれた男は首を動かし。
「何か」
そっけない。赤銅色の瞳に映りこんだ黒い軍装の女は可笑しそうに笑う。
「もう驚かないんだね」
「もう慣れました」
皮製の長椅子に座る女に向けられていた視線が、重厚さを感じる色の机に戻った。青い軍装の男のそっけない態度に金の瞳が苦笑に細まる。
「まぁいいや。それより頼みがあるんだ」
男の健康的な小麦色の顔から、溜め息が漏れた。
「今度は何でしょうか」
常々こき使われているベリアルは、既に難題を持ち込まれることにも慣れていた。彼の内心は慣れというよりも、諦めに近い。
「どうもアルザートからの難民が増えそうなんだ。受け入れの準備を頼む」
「難民。ですか」
大きく長い指が机の引き出しに引っかかる。肘を引いて開けた中から、長い指につままれたインクが現れた。彼女の証言を記すのではなく、全く無関係の作業をする為だ。いや無関係ではないか。彼女が押し付けた仕事によって後れた作業をする為にインクが必要だ。
「そう、アルザートで反乱軍の動きが活発になってきているんだ。紛争が起きるのではないかと民が不安がっても仕方無いね」
リン、と澄んだ音が鳴ったのに反応して、青の生地に黒で縁取りされた襟をこすりながらベリアルは音の元へ顔を向けた。
見えたのは、最近正式な上司となった女の顔の前にぶら下がる、銀の鈴。美しく光る鈴は以前たまたま通った森で盗賊に襲われていた少女を助け、礼として貰った物。いいや
ベリアルにはただの崖にしか思えない場所へ行く為に、盗賊が出ると噂があるのに聞かず通って出くわした盗賊を、魔術の練習がてら彼女が一人で退治すると言ってベリアルたちを土で動きを封じつつ退治した連中が連れていた、被害者である村人の女性がたまたま銀細工職人の娘で、お礼にと進呈された三つの銀の鈴のうちの一つだ。残りは部屋にあるらしいが、確実に一つは幼子レオンの遊び道具か飾りになっているだろう。
「しかし、これ以上の受け入れは我が国の負担が過ぎます。両大臣ともに色よい返事はしないでしょう」
だろうな。と美羽の色白の顔が二度頷いた。
だから、とそれは続ける。
「私に与えられている分のお金を使って良いよ。ああ、レオンの分は残してね」
能天気に笑いながらの言葉に、ベリアルは声を荒げた。
「美羽殿、それは許容しかねます。貴女の生活はどうなさるおつもりですか」
珍しく感情を強くした部下をみて、金の瞳が僅かに見開いた。口許が楽しげな深みを増す。
「問題ないよ。食料とかは現地調達すれば良いし、お金が必要ならギルドに行けば何とかなるし、服は洗って着まわせばいい。いざとなったら君のいとこのフリティアンにでも貰おうと思う。ちっちゃい頃のをさ」
持つべきものは頼れる友だね。と続けて言い終える。いつの間に友になったんだと思いながら、厳格な父親のようベリアルの眉間に皺がよった。
「神ともあろう御方がギルドなど―――」
美羽がくすりと笑う。
「ギルドは良いよ。色々な裏が知れるんだ」
笑いに拍車がかかった口に、女性としては少々逞しい手が被さって、笑いを消すと、腰かけている長椅子を深く座りなおし足を組む。
「とにかく、頼んだよ。無理そうなら無理だと言って。強要はしたくないから」
「・・・今更ですか」
溜め息と共に出た小言に、美羽は楽しげな微笑を返した。
彼女の長い黒髪は首の後ろで一つに結わえられ、前髪はそよそよと風に揺れている。壁一面の大きな窓から入り込む風は、刺繍の細かいカーテンを波打たせていた。
「おや?前から無理はするなと言ってたはずだけどね」
にやりと笑って言う美羽に、少し離れた位置の机に座する男は、再び溜め息をついた。
「私ができぬと言えば、貴女がおやりになるのでしょう」
「まぁ、そうだね」
美羽はいたずらめいた笑いを浮かべた。
ペンにインクをつけて書類に手をつけ始めた部下を見つつ、白い整った顔の表情に僅かな憂慮を加える。
「だからって、君が無理しないでも良いんだよ」
男は溜め息した。
彼には女性に仕事を押し付けることなどできない。
そんな性格を理解しているのか、この上司はいつも一人で勝手に行動する。かなりの確立で自由な気質なだけだろうが。彼女への心配はベリアルにとって仕事のひとつになっていた。
「そうそう、あと私、しばらくアルザートに居ようとおもうんだ」
突然の言葉に男が顔を上げる。
「何を考えて・・・!」
「準備してからだけれどね。確実だよ。苦しんでいる人を見捨てて、神を名乗れると思うのかい?」
「しかし、危険すぎます」
「大丈夫。心配するな」
まるで遊びにでも行くように笑う上司を見て、ベリアルは呆然と口を開いた。
炭火の如く怒鳴りたい想いを胸内に燻らせて、黒衣の上司から視線を外す。感情を抑えるように額を押さえた。
「懸賞金が賭けられているのですよ」
「知っているよ」
突然強い風が吹き込み二色の髪が激しく踊る。数枚の書類が吹き飛んで、ベリアルが拾いに立ち上がった。
「あれ見た時はビックリしたよ。普通、神の首に賞金なんて賭けるか?」
美羽の手が水平に伸びて白い魔力を纏った。指差す先の書類も白い光を纏ってふわりと浮き上がる。
勝手に机の上に戻っていく書類を見とめ、ベリアルは来たみちを戻りつつ続けた。
「何でも、神は危険因子だとの予言があるとか何とか。しかしシラ殿がそのような事を仰るとは思えませんし、先王がお亡くなりになられてからのアルザートはおかしな予言を多く出します。おそらく誤報か偽報でしょう」
言いつつ優雅に細工の美しい椅子に腰かけて、綺麗に机の上に重なっていく書類の群れに目を留める。
ふと彼は、幼い頃に見た絵本に出てくる偉大な魔術師の魔力もまた、白い色だった事を思い出した。
「まったく、迷惑な奴ら」
一瞬だけ、美羽は蔑むような冷たい微笑を浮かべた。たまたま見かけてベリアルの背筋が凍る。
彼女は時折、酷く残忍な気配を持つ。いつもは情に厚い人であるからこそ目立つそれは、合理的な考えな為か、それとも他に何かあるのか。
「・・・・」
思考を払って書類に眼を向けたベリアルから離れた椅子に座る彼女は、顔に垂れてきた黒髪を首をふってどかした。そのまま顔を窓へ向けると、金の瞳には触れることのできない空の青色が映った。触れられぬ色を映す瞳は、触れられぬ覇気を放ちだす。
「どれだけ、他人を苦しめれば気が済むんだ」
冷たさの中に優しさを感じてベリアルは少し安堵した。リン、と澄んだ音が鳴る。
優しさの混じる声に安堵はしても、力の強い声がベリアルに彼女を引き止める事が不可能だと悟らせた。極小さな溜め息を落として諦める。
金の瞳の持ち主は溜め息になど気づかずに、窓を超えて空を見ている。
鳥が二羽、互いを確認するようにじゃれあいながら飛んでいった。開いた窓から小鳥と元気の良い子供が奏であう平和の音が入ってくる。
穏やかな空気に侵食されて「そういえば」と美羽が気の抜けた声を出した。
「君、溜め息増えたよね」
誰のせいですか。との言葉は音にならずとも目線で伝わって、読み取った女が愉快に笑うとベリアルは諦めたように嘆息し、少しだけ楽しそうに苦笑した。




