乱の9 アリスまじ天使
地上の酒場のマスターと一言二言、言葉を交わしてリースは外への扉に手
をかけた。扉の隣にある窓を見ながら、両開きの扉を開ける。茶色に変色
しているガラス窓、その先にあった外に出ると、世界は変色したガラス越しに
見た世界より生気を帯びている、とはお世辞でしか言えない有様だ。これが
この国の首都にある闇の部分。寂びれた町の乾いた風が頬をなでた。
「暑い・・・・・・・」
全身の血が、一瞬で汗に変わった気がした。
地下は涼しい。地上の熱も地下までは届かない。それどころかアジトは古代
技術によって夏は涼しく冬は暖かく保たれているから、たまに外へ出ると現実
の季節に直面して体が具合を悪くしてしまう、と地下に篭っている人はよく口
にしている。リースもその一人であるから、定期的に外へ出て体が温度調節を
忘れないように心がけているが、それに意味があるかは自分でも分からなかった。
ただ気休めにはなっているし、時にこうして現実の季節を感じた瞬間、ほっと肩
の力が抜けるのは可笑しかった。
足を先に進め、渇いた温かい風の吹く町を行く。視野の奥、少し左の前方
に白い建物がそびえているのが見えたが、見てもリースは別段感慨を抱く
わけでもなく、ちらと見ただけで首を左にそらせた。右の視界の端っこに
まだそれが見えているが気にかけなければ分からなかった。
吹きぬけた風は町に充満する悲しみも連れ去ってくれているようで、
気が楽になる気がする。何度目かの深呼吸をすると、リースは幾分か落ち
着いた心地でゆっくり進みだす。とぼとぼ歩く様は天から誤って落ちてしまっ
た天女のようで、風景に枠をはめて切り取れば一枚の絵画にもなれるだろ
う。美しくも哀愁漂う姿であった。
とぼとぼ、と辿り着いた場所には、乾いた風がそっと吹きつけていた。風は
優しく、一瞬留まってから緩やかに、気がつかぬ間に通り抜けていく。
そこは戦乱の世に似つかわしくない優しい場所。石造りの街中にありなが
ら、低木と芝生が生えている。人工的な石積みの中で感じられる自然の
空間は、四方が高さのある建築物に囲まれている。どこから風が入ってく
るのか不思議な場所であった。
小さなその優しい空間は、リースにとって心のオアシスだった。数本生え
る低木のひとつと向かい合うようにして座って、ぶつぶつと木に愚痴を
ぶつけるのが彼女の気持ちの落ち着け方。
「どうして男は―――――少しは女性を見習ってほし―――――やっぱり
女性が王になるべき―――――命知らずと勇気は違―――――」
彼女特有の見解を元に文句が繰りだされる最中、愚痴を聞く丈の短い低木は
さわさわと歌いながら気持ちを落ち着かせるよう、優しい歌を歌い続ける。
さわさわ
しゃわしゃわ
そのうちリースが気づかないくらい微妙に、木の擦れあう歌は速度を増した。
彼女には見えない彼女の背後に人丈ほどもある白い球体が、地につくかつかな
いかの位置でぽわりと浮いている。変化の乏しい弱い風に変化をつけた謎の
球体は、なぜか気配を持って存在し、けれど微弱なそれをリースには感じ
取ることが出来なかった。
***
黒の少年は、隣で昼食を食べながら黙々と事務処理を続けている男を見やった。
男は髪を肩の上辺りで切っており、時折さらさらと落ちてくる艶のある黒髪を
鬱陶しそうに掻きあげている。その仕草も優雅に見えるのは生まれのせいでも
あり、顔立ちのせいでもあるのだろう。本人に意図はないというのに男ながら
色っぽく見えるのは何故なのか。不可解なことであった。だが少年は色気に気
がついていないのか気にしていないのか、気後れなく呼びかけた。
「カイムさん」
男の深い翠の瞳が少年に向いて、なんだと問う。それだけでまた視線は卓上の
書類に戻った。さら、と落ちる髪をまたうっとうしそうに掻きあげる。
「アリスをリースさんのところに連れて行きます。傍にいた方が良いと思うので」
「確かに、そうだろうな。今のリースには支えが必要だ。それで、どこに居るか
見当はついているのか」
「いえ、転移の術を覚えていますので。それで行こうかなと」
転移の術を操れる者は数少ない。その理由は術の形態に起因する。
人と人、または物と物の間に生まれる縁を伝って移動するからだ。目には見え
ない繋がりが持つ小さな引き合いの力を頼りに、まるで細い麺を手繰るよう、
引きちぎらない程度の、けれど体を移動できるほど大きな力を「縁の糸」と
魔術師が呼ぶものに注がなければならないのだ。その微妙な力加減が千年
に一人、転移の術を使えるものが現れるという確立を生み出していた。
熟練の魔術師で、やっと糸を見ることが出来るようになるような術だが
この天才と呼ばれる少年なら可能、かもしれない。驚きはしたが、カイムは
少しだけ目を見開いただけだった。凄いとは思うが、やはり、とも思う。
「ほぉ・・・・・さすがだな。頼んだぞ」
「はい」
「もってきたよ!!」
アリスが嬉々と駆け寄ってくる。なぜか栓抜きを誇らしげにクローに見せて
いるが、転移の術に関係があるのだろうか。カイムは、溜めていた事務仕事
をまたもくもくと処理し始める。そのうちに黒色と金色がそれぞれの特徴で
ある二人は、楽しそうに酒場兼食堂「アリス」を出て行った。ガラスの入っ
た窓の外、広場に二人の姿が移る。カイムの翠の瞳が二人の後を追っている。
休む事無く動いていた手は、ぴたりと止まって意識が外に向いていた。
その心内にあるのは子供二人へ向けた慈愛か、それとも今後の画策か。はたまた
めったに見ることのできない術に興味を示しただけなのか。じっと金と黒の
姿を追っている。背後に気配を感じたのはそのときだった。
振り返った先には、色味の無い灰色が逆に印象的な長身の男が、陽気な、けれど
少し疲れた顔で立っている。
「お子様達はお出かけ?」
長身の青年がついさっき怒鳴っていた者とは思えない笑顔で問いかけてくる。
ああ。と返事をして、カイムはグレンを見る。美形の部類には入らない地味な
顔が見えると、なんとなく安心した。地味ではあるが目鼻立ちは整っている。
少しだけ吊った目に意志の強さと覚悟を感じた。
王としての器はある、とカイムは思う。
「母親の所へ娘を連れて行くそうだ」
最低限の答えを返して窓の外を見やると、つられて灰色の青年も瞳を窓へ向けた。
「どこにいるか心当たりあんの?」
窓を覗き込むように上体を軽く屈め、腰に手をあてた体勢で窓を覗いた格好で
言葉だけを無表情な男に向けた。窓の外には輝く金を頭に冠する少女と、黒に
身を包む少年と、広場を行く7・8人の人々。遠くから冷静に少年を眺めてみ
ると、確かに「黒の魔術師」だと心が納得の声を上げた。他の魔術師を見かけ
たこともあるが、フードはかぶらずに背中へと垂らしている。
常にかぶっている少年は希有な存在だろう。黒の魔術師、は他にいなそうだと
思っていると、更に希有な存在であることを知らされた。
「いや、転移の術で行くそうだ」
「?・・・・・・・転移!?」
言った当人もまだその事を信じきれていないのか、険しい顔で頷いた。
「そうだ」
青年は屈めた体をさらに乗り出して、外で立ち止まっている黒の少年をまじま
じと見た。転移の術の難しさは広く知れ渡っている。今では伝説的な術とさえ
なっている。現在は世界中でも転移の術を操れる者は確認されておらず、破滅
戦争後3000年の歴史上でも4人しか記録はない。いずれもが名だたる天才
魔術師として、良い悪いは様々に歴史にその名を刻んでいる。
今では絵本となり読み継がれる者も多い。
「とんでもねぇガキだな」
感心しきりのグレンは、クローの手に鉄のようなものが握られていることに
気がついた。大きさはちょうど小型の刃物といったところか。
「あれは栓抜きだ」
「へっ?」
「・・・・・・・・あいつの手を見て睨んでいただろう」
「あ、ああ。そっか、栓抜きね。すげぇな、よく見てたの分かったな」
「そのくらいは普通だろう」
「いやいや、すっげぇ洞察力だって」
「・・・そうか」
「で、なんで栓抜きなんか持ってんの」
「あれが転移の術の材料だそうだ」
「は?」
「それ以上は自分で聞くんだな。私も詳しくは知らない」
緑の瞳はいつも以上に鋭く少年を睨んでいる。グレンは少し肩をすくめると
好奇の瞳で窓を見た。外にいる二人は闇を表す黒色と光を表す金色をしている。
二人に気づいた者たちは、一様に同じことを思った。
『神の色だ』と
*
「クロ、クロっ、おかあさんみつかる?どうするの?」
きらきらと好奇心の塊のような目で、金のアリスは少年にすがった。黒の少年
は口元に笑みを作って少し腰を屈めると、栓抜きをアリスに見せる。
「フフ、魔術師っていうのは結構何でも出来ちゃうものなんですよ。これとリース
さんの縁を辿って行けばすぐにみつかります。・・・・・縁って知っていますか?アリス」
「ううん!!」
天使のような笑顔を左右に振った。
「はは、縁っていうのは、そうですね・・・・少しでも関わったモノとモノの間に
出来るつながりです。例えばそうだな、水に触って、離そうとすると指と水の間に
水の橋みたいなものが出来るのを知っていますか?のりだとよく分かるのですが、
使ったことないかな」
「のり?ミズはしってるよ。あれ、すぐきえちゃうの」
「それは残念ですね。それでアリス、あれが目に見えないところでも出来ていると
考えたことはないかな。それが、えにし、または、えん、といわれるものなんだ。
触れたモノとモノ、関わったモノとモノはつながっていて、水とは違い切れずに長く
長くどこまでもくっついていくんだ。細い糸のようになって、切れることは滅多にない」
「ふぇぇぇ・・・??・・うん、つながってるんだね」
「それだけ分かれば上出来です。では、ふぇぇぇと感心した後は実感してみましょう」
「じっかん?」
クローはアリスの手を握り、目の見えない顔でにこりと笑った。
「僕の手を放さないで」
「う、うん」
「心配しないで、僕は天才だから」
わかった。とアリスはクローの手を握る。
ちょっと恐くて、頼りのちょっとおっきな手を見つめた。
「いい?絶対手を放しちゃダメだよ」
「うん」
念入りな二度目の確認で頷くと、黒の少年は手に持つ栓抜きを掲げて目を閉じた。
広場を通る者たちが、ちらりちらりと視線を送りながら通り過ぎていく。
(視えた)
クローはフードから覗く口元に一瞬薄い笑みを浮かべると、漆黒の闇の中で輝く
金の色をした光の線へと己が魔力を注ぎ込むと、全て同じといわれる縁の糸が、
自然に逆らい白い魔力に染まっていった。
ほわりほわりと水の中に浮かんでいる気分になると、周囲は白いもやに包まれる。
握った少年の手を全力で握り返して、アリスは目を閉じた。
「リースさん。お加減はいかがですか」
次に見えたのは、自分と同じ高さの木と同じ高さの母親の姿。
「おかぁさん!」
自分と同じ高さの髪が凄い速さで回転し、見えたのは既になつかしい母の顔。
たまらず走りよって抱きつくと、逞しい母の体は後ろにのけぞってから元に戻った。
「アリス?・・・・・クローここを知ってたのかい」
ちょっとつった目を丸くして見る。今は色眼鏡まで覗ける少年は、微笑んでいた
口をあけて笑った。
「魔術師は結構なんでも出来ちゃうものなんです」
「おっそろしい子だねぇ」
呆れたような諦めたような顔で「ありがとう」と言う。
「当然のことをしただけです」
リースがくすりと笑う。
「さり気ない優しさは、もてる男の基本だね」
「なるほど。心がけましょう」
くっくっと笑う。
「それでどうします。まだここに居ますか」
「そうだねぇ・・・・そろそろ、帰ろうかね。ねぇアリス」
「うん!かえろかえろ」
ぺち、と軽い音を立てて、リースの手がアリスのおでこを叩いた。
「はい、帰りましょう。と言うんですよ。アリス」
アリスは混乱した顔の後「わかった」と頷いた。
「うふふ、クローみたいだね」
「うふふ、そうね。アリス、言葉遣いの手本はクローにしなさいね」
「どうして?」
「素敵な女性になれるからよ」
「そうなの?」
喉をそらせて見上げる。少し高い場所にある少年の口が、いつもより力無く笑う。
「はは・・・僕は一応、男なんですが。まぁ言葉遣いは丁寧なつもりですね」
何を言いたいのかよく分からない。
助けを求め、母の緑の瞳を見る。
「丁寧なのがいいの?」
「そうよ」
「わかった!がんばる!!」
「駄目だね」
ちょっと低い少年の声。
「分かりました、頑張ります!だよ」
アリスは平静に。
「わかりました、がんばります!」
「うん、上出来だね。さすがはアリスだ、すばらしいよ」
「えへへ・・・本当?」
ああ、と返事が返る。
「この調子で頑張りましょう」
「はーい」
アリス、と呼び咎める少年の声がする。
「返事は伸ばさないで、はい!」
「はい!」
「これは覚えるのが早そうだねぇ」
しみじみしたリースは徐々に笑って
うふふふ、ははは、と3人分の笑い声が閉鎖された中庭に溢れ
少年の声がした後ぷつりと消えた。




