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科学というものに対する誤解

作者: 猿丸

 今に始まったことではないが、科学というものに対する世間の不見識が拡大していく一方なので、読み専ではあったのだが、気まぐれに筆を執った。

 どうも一般的に、科学と技術の区別がついていないように思えるのだ。もしかすると、80年代以降のSFジャンルの衰退が遠因としてあるのではないかという気がする。現在も良質の本格SF小説は書かれ続けているが、主流には遠い。かつては書店の一角を賑わせていたハヤカワSFも、めっきり少なくなった。

 現在、SFというジャンルは漫画やアニメ、ラノベに集中しており、ここの層が科学の本質を誤解しているようでは先は暗いと思うのである。



 昨今の漫画やアニメ、小説などにおいて、科学者はあまり登場しないように思う。登場したとしても、それはむしろ技術者であって、科学者ではない。科学者ではないのだが、科学者として設定されていたりするから困りものである。

 そして、彼らの役割はおおむね「解明すること」である。謎の現象、謎の物質、不可解な事象を快刀乱麻を断つ如くズバリと「○○なのだ!」と解明するギミックとして、科学者は存在していることが多い。

 だが、それは科学者としては間違った態度なのだ。正しい科学者は、安易に「わかった」とは言わない。科学は簡単にはわからない。


 あるいは、最近人気の少年漫画のように、異世界や未開の地で主人公が披露する知識や技術を「これが科学だ!」と称することがある。それも正しくない。それは科学から生まれた知識や技術かも知れないが、科学ではない。

 科学とは知識や技術のことではないのだ。むしろ軽率な知識や技術の提示は、その環境下における健全な科学の発展を阻害する可能性すらある。科学本来の在り方が描写されず、知識や技術だけがなんの議論も検証もなく「科学」として提供される展開に、筆者は危機感を覚えるのだ。



 では、科学本来の在り方とはどういうものか。一例を挙げよう。

 例えば、真夜中に沼の上で正体不明の発光現象が目撃されたとしよう。この謎の現象に対して、色々な見解が出たとする。


「人魂だ」

「UFOだ」

「プラズマだ」

「燐が燃えたんだろう」

「沼からガスが発生しているのでは」

「ホタルの大群かも」

「雷球ではないか?」

「見間違いに決まってる」

「さあ、わからん」


 こうした見解の中で、科学者として正しいのは「わからん」だけである。「わからん」と答えるのが、科学者として正しい態度である。


 オカルトに依るのならば、「幽霊だ!」とか「UFOだ!」とか、たちどころにわかったことにしてしまえるのだ。簡単に断言してしまえるのだ。しかし、科学に依るならばそうはいかない。科学は簡単にはわからない。



 科学はまず「わからない」から始まる。「わからない」から「調べよう」と繋がるのだ。


 まずは観測だ。先の例ならば、沼の発光体を観測し、光の波長や温度や湿度、気象条件など、様々なデータを取る。微生物や昆虫などの棲息している生物を採取し、生態を確認する。沼のサンプルを採取して分析する。環境を再現し、同様の現象が起こるかを確かめる。こうした様々な調査や実験を繰り返し、多角的に検証し、仮説を成立させて論文を書く。


 論文を発表しても、まだ「わかった」ことにはならない。論文は資料でしかないのだ。

 ここを勘違いしている人も多い。従来の説とは違う結論を示した論文が発表されても、それは「新事実が判明した」ということではないのだ。それは「新たな資料が提出された」以上の意味を持たない。


 どれだけマスメディアが「新事実!」と叫んでもそれは正しい認識ではないし、逆にマスメディアがまったく取り上げずにいても、それは「新事実が不当に無視されている」ということではない。


 論文を受けて、世界中の科学者が検証を始める。再実験を繰り返し、反証を挙げ、議論をする。科学のルールはとても厳しいのだ。少しずつデータを積み上げて、積み上げて、積み上げていくしかない。


 科学とは、知識や技術のことではない。解明へと至るための方法論、取り組み方そのものを指すのだ。そして、だからこそ科学は簡単には「わかった」とは言わない。簡単には結論は出ない。何年も、何十年もかけて実験を繰り返し、データを洗い出し、検証を重ねて、もうほぼ間違いないという共通認識が得られて、ようやく彼らは控えめにこう言う。「○○ではないかと思われる」と。


 ノーベル賞の受賞者が、もう何十年も前に発表した論文について賞されているのに疑問を感じた人はいないだろうか。なぜもっと早く評価されなかったんだろうと思ったことはないだろうか。もうわかったと思う。論文は資料でしかない。数ある論文のどれが正しいのか、検証に時間がかかって当然なのである。


 例えば、魚を食べると頭が良くなるという話を聞いたことがあるだろう。魚に含まれるDHAが認知症の予防になるという研究結果がある。しかし一方で、有意な効果は得られなかったというイギリスの研究結果もある。メディアはDHAの効果を科学的に立証されたものだとして報道するが、それは実際には正しくない。科学の世界では、まだ「わかった」とは言えない状態なのだ。まだまだ検証が足りていない。



 繰り返すが、科学は簡単には「わかった」とは言わない。しかし、真の意味で「わかる」ための手段は科学しかない。科学しかないのだ。

 安易に結論に飛びつかず、直感に頼らず、ひたすら真摯に検証を積み重ねていく。じりじりと、じりじりと真実に近付いてゆく。それが科学者の、決して揺るがしてはならないスタンスなのだ。


 よく見かけるフレーズに「科学でもわからないことがある」というのがあるが、これがいかに科学というものを理解していない文言であるか、ご理解いただけると思う。

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