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今も、降り続けている想い①

(──こんな気持ち、はじめてだ……)


 今でも、胸がどきどきしている。

 こんなふうに、誰かを思い出し、胸を高鳴らせたのは初めてだ。

 都築(つづき)ハルカは布団から身体を起こし、胸に手を当てて息をついた。

 室内の気温があがっているせいか、じんわりと身体に汗が滲んでいる。

 薄い壁を隔てて、隣の部屋からはハルカの母親の岟里(えり)と、岟里の恋人──谷地川(やちがわ)(わたる)の、呑気ないびき声が聞こえてくる。

 ハルカにとっては、いつもの朝だ……。

 この調子なら、夜型生活をしている二人は、しばらく起きてはこなそうだ。

 ハルカは立ち上がり、まず布団をたたんで、部屋のカーテンを開ける。

 眩しい夏の射光に一瞬目が眩むが、おかげで寝起きのぼんやりとしていた頭が完全に覚醒した。


「今日もいい天気ね……」


 背伸びしながら、ハルカは呟いた。

 ──いい天気……と言うが、このところ東京は猛暑続きだ。

 夏はまだ折り返し地点を過ぎたばかりで、今年は雨も多い。

 いい加減、寝づらい夜が多くて体に疲労が溜まる頃合いだが、ハルカの心は澄み渡る青空のように心地よく晴れていた。

 それどころか、ハルカの目に映る世界は、輝きを増していた。

 古くて狭いアパートでの目覚めも、窓から降り注ぐ熱のこもった陽射しも、今のハルカにとっては祝福のように思えた。

 隣の部屋から聞こえてくるいびきすら、愛しい日常の一コマのように感じる。


 ──それらすべては、保志(ほし)龍樹(たつき)と再会したあの日から始まった。


(わたし、あの日から毎日が楽しい……)


 ハルカは顔を洗い、着替えをする。

 肌がうっすらと透ける薄手のブラウスに袖を通し、ついでトロミ感のあるパンツをはく。

 柔らかい着心地の洋服に、自然と微笑みが漏れた。

 この服は、一週間前から働きはじめたバイト先の上司に「サイズが合わなくなったから」と譲られたものだった。

 上司の名前は、深山(みやま)アカリと言う。

 出版会社の編集部に属しているアカリは、作家──星樹(セイジュ)の担当編集者でもあった。星樹は、龍樹本人だ。

 ハルカにとってアカリは歳の離れた姉のような存在だった。優しくて、面倒見が良くて、真剣に仕事をしている姿は凛々しくて、ハルカのことを家族のように気遣ってくれる。

 同じ女性として憧れる存在──

 慣れない仕事に戸惑うことも多いが、ハルカは職場に行くのが楽しかった。

 何より、ハルカが仕事を探していることを知った龍樹が、アカリを紹介してくれた。

 龍樹と会った日から、まるで夜明けが訪れたようにハルカの日常は変容していった。


 軽く朝食をとり、手早く家事を済ませると、家を出る時刻が近づいてくる。

 ハルカは忘れ物がないかバッグの中身を確認していると、リビングへのドアが開き、長身の男が姿を現す。


「おはようございます。(わたる)さん」


「ふぁ……おはよ、ハルカちゃん」


 寝ぼけまなこの渉は、そのままキッチンに行き冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、ごくごくと飲み、ハア……と息をつく。

 ハルカは、そんな渉の動作を無意識に目で追っていた。

 渉は端正な顔立ちをしている。歳も二十七で、少しだけハルカより歳上になる。

 渉は、ハルカの母親、岟里の恋人だ。岟里は、シングルマザーで四十五歳になる。二人はかなりの歳の離れたカップルだ。

 岟里が渉を自宅に連れてくるようになって、数年が経つ。

 どのような経緯で二人が恋人同士なったかは知らない。多分……岟里の働くスナックの近くに、渉が働いているバーがあるから、きっとどちらかの店で知り合ったのだろう。

 ハルカははじめ、岟里と自分の二人だけの空間に踏み込んできた男を、何か裏があるのではないかと、こわく思った。男性に慣れていないというのもあったかもしれない。

 だが時間とともに少しずつ慣れ、こうして会話を交わすようにもなってきた。


「また、昨晩もたくさん飲んだんですか?」


「あ、やっぱ、酒くさい……?」


「それは、いつも……な気がするけど。お願いです。お母さんには飲み過ぎないように言ってくださいね」


 ハルカにじっとりと言われて、渉は「あ〜、ハイハイ」と、渋い表情をして返事をする。

 この会話も、最近の二人の間ではよくあるやりとりだった。


「じゃあ、私、仕事に行ってくるので。出る時はしっかり戸締りお願いします」


「あ、ハルカちゃん!」


「……なんです?」


 玄関先で、渉がハルカを呼び止める。


「あのさ。最近……岟里さん、どう?」


「どう? ……って?」


 ハルカは首を傾げる。

 渉が、そんなことを聞いてくるのは珍しい。

 ──そもそも、渉のほうがハルカより、岟里と多くの時間を過ごしているのではないか。


「普通だと思いますけど……。渉さんのほうがお母さんと一緒にいるじゃないですか。あっ、もしかして、喧嘩でもしたんですか?」


 ハルカが揶揄うようにクスッと笑うと、渉は「ちげえよっ! 喧嘩なんてしねーもん」と、拗ねた顔でそっぽを向いた。


「それじゃあ、いってきます」


「……おうっ」


 渉に見送られハルカはアパートを出る。

 まだ朝なのに、熱のこもった空気が身体に纏わりついてくる。

 ハルカは日傘を被ると、地下鉄の駅に向かい歩き出した。


(変だったな、渉さん……)


 さきほどの渉の様子を思い出す。

 岟里のことを問う渉の瞳は、真剣だった。


(──そういえば私、最近、お母さんと全然話してないな……)


 ハルカは午前中から夕方まで働いている。それに対して岟里は、夕方から深夜まで仕事をしている。特に最近はすれ違っていて、顔を合わせることはほとんど無い。

 けれど朝起きて隣の部屋から聞こえてくる呑気ないびきや気配があったから、ハルカは岟里の無事を確認できていた。

 ──それに何より、渉がついている。

 岟里よりだいぶ歳下だが、岟里を本当に大切に想っているのは伝わってくる。

 二人の出会いが、もっと早ければ良かったかもしれない。もっと早ければ、岟里の人生は変わっていたかもしれない……。

 岟里はシングルマザーだ。

 そしてハルカは自分の父親のことを何一つ知らない。

 岟里も話そうとしないから、余計聞けない。

 ただ……何となくではあるが、岟里は哀しい恋をしてきたのかもしれない。

 岟里を見ていて、そう感じたことがあった。

 岟里は人間として壊れていた。

 容姿だけが取り柄で、ハルカが物心ついたときには既に夜の仕事をしていた。

 必要最低限の家事しかせず、一人で寂しがるハルカを突き放し、夜な夜な出かけていく岟里の背中を見てハルカは育った。

 学校に通うようになって、自分の家庭環境が著しく変わっていることに気づく。

 岟里は授業参観や、三者面談など、ハルカの学校行事に一切かかわろうとせず、ハルカにお金をかけることを嫌がった。

 おかげでハルカは、クラスメートや、近所の人たちからも距離を置かれていた。

 ハルカはどうして良いのか分からないまま、耐えるだけの毎日にストレスを感じながらも、ある時を境に「強く、生きていこう」と、心を決めた。

 未来に希望を持って生きていこうと思った。


 しかし──

 それは、ハルカが高校の時だった。

 相変わらず不自由な暮らしが続いていたが、ハルカは中学を卒業すると、通信制の高校を選び昼間は働くようになった。

 自分で稼げることが嬉しかった。ここから少しずつ、自分の人生を創って行こうと思った。

 渉がアパートに来るようになったのも、この頃だ。

 ある日、ポストに一通の手紙が入っていた。それは岟里とハルカが住んでいるアパートの大家からだった。

「家賃を滞納している、全額でなくともいいから支払ってほしい」──そう綴られていた。

 ハルカは岟里を問い詰めた。

 その結果、家賃だけでなく他にも借金があることが発覚する。なんのためにお金が必要だったのか、すぐに家賃を払えるのかを聞いても、岟里はまるで他人事のように聞いていた。

 終いには、激昂していくハルカ対して、そばにいた渉が宥めるように言ったのだ。


「岟里さんは、今まで一人でハルカちゃんを育てて頑張ってきたんだ……。だから、助けてあげて……」


「そんな…! それじゃ、私はなんのために……」


 ハルカの中で、今まで抑えていたものがとうとう爆発した。

 ずっとずっと、色んな事に耐えてきた。

 娘のことを顧みない母親を、守ろうと思ったことだってある。

 満足できない暮らしでも、いつか良い時が来るはずだと頑張ろうとした。

 何より、岟里とともに幸せになりたいと思っていた。

 けれど……岟里のせいで、どこまでもハルカの人生は犠牲を強いられていく。


(私の幸せ願ってくれる人は、誰もいないかもしれない──)


「わかった、家賃は私が払う。結局自分が良ければ、娘を犠牲にしたっていいんでしょ……」


 ハルカは、薄っすらと自分の胸のなかに在り続けていた「希望」が砕けていくのを感じた。

 ──もう何も求めない。強く生きる必要もない。目の前のできることだけして、どうしようもなくなったらその時は……。

 岟里には渉がいる。愛してくれる人がいる。

 ハルカには、自分を特別だと思ってくれる人は、誰一人いないのだ。

 血をわけた親にも雑な扱いをされるのだ。そんな自分が、誰かの特別になることなんて想像もできない。

 まるで自分だけが別世界の住人のようだ。

 自分以外のすべての人は、世界から認められ、愛されるようになっているのかもしれない。

 それからハルカは、毎日をただ積むだけの生き方をしてきた。


 ──ただ、時々ふと思い起こすことがあった。


(私は、どうして、あんなに頑張って生きてきたんだろう。そう……いつだったか、どんなに辛くても前向きに生きると決めたんだ。あれは、いつだったのかな。どうしてそう思ったのかな……もう、忘れちゃった……)


 今はもうハルカの心を動かすものは、なにも無かった。

 疲れた身体と心を引きずったまま、ハルカは大人になった。

 そして、そんなある日……ハルカは疲れ果てて駅のホームにあるベンチで休んでいた。

 空模様と同じく、からみつくような暑さを感じたが、心の中は冷えきったまま……。

 線路に落ちていく雨音が、やけに耳について、なんだか苦しくなった。

 朦朧としてきた意識に、身を任せてしまおうかと思ったその時、目の前に現れたのだ。

 ──保志龍樹との再会は、ハルカにとって奇跡のようだった。

 なぜなら、ハルカが生きる力をもらった「絵本」を書いたのは龍樹だった……。

 そして、龍樹から「キミがいたから作家になれた。ありがとう」と言われたとき、不思議なくらい心が満たされていくのがわかった。

 誰も自分のことを見てくれないと、この世界からつまはじきにされていると思っていたのは実は間違いで、ちゃんと見ていて、優しく労わるように接してくれる人がいる……。

 龍樹と出会えたことで、ハルカははじめて自分が生きる世界が美しいと感じることができた。


(──今ならきっと、お母さんのことも許せるかもしれない……)


 そんなふうに考え事をしながら歩いていると、地下鉄の駅まで着いてしまった。

 今度休みが合う日に、岟里と、渉も誘って三人で食事にでも行こう……そう、ハルカは思った。




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