線路に降る雨⑤
それは、他ならぬ、龍樹自身が生み出した本──
「この作家って、星……」
「ああ。星樹っていう作家だよ」
「セイジュ……?」
「この作家の本、読んだことある?」
龍樹が問うと、ハルカは首を横に降る。
(そうだよな。覚えているはずないよな……)
龍樹は心のなかで、ほんの少し落胆する。覚えていないことなんて、はじめから分かりきっていたのに。
──ハルカが出会っていた「あの物語」は、記憶に残るような名作ではない。
イラストは注目されても、物語自体は人の心に強く残るような衝撃も印象も無いのだ。
プロになった今だからこそ解ることだった。
ただ、ほんの少し、ハルカが忘れてしまったことを寂しいと嘆く自分がいるだけ……。
龍樹は隣にいる、ハルカを見つめる。
──今はただ、素直に喜ぼう。
ハルカが再び、自分の物語に触れようとしてくれているから。
「龍樹くん……?」
──そう。たとえ忘れてしまっても……。
──ここからまた出会ってくれたら……!
龍樹は言葉を紡ぐ。
「星樹が、一番最初に書いた物語はこの絵本なんだ。俺の思い出もたくさん詰まってる……」
龍樹はそう言うと本棚に手を伸ばした。
隅っこで窮屈そうに挟まっている薄い一冊の絵本を取り出すと、それをハルカに手渡す。
「きれいな表紙だね……」
絵本を見たハルカの瞳が輝いた。
ハルカの言う通り、水彩画の柔らかいタッチで描かれた幻想的な表紙は美しい。
羽根のある美しい男とも女とも見える「妖精」が、ひとつの鍵を手に佇んでいる。
「──……鍵をなくした妖精……」
ハルカが、ささやくように呟いた。
「短いから、すぐ読めると思うよ」
龍樹の言葉に促され、ハルカは表紙をめくる。
──物語のはじまりだ。
ハルカの俯いた黒い瞳が、龍樹が書いた物語を追っている。
室内には紙の擦れる音が響き、遠雷がかすかに空気を震わせた。
龍樹は物語に集中するハルカのそばから、そっと離れた。
ソファに腰掛けて、蒸らしておいた紅茶をカップに注ぎながら、ハルカの後ろ姿を眺める。
ランドセルを背負っていた小学生のハルカと、大人になった美しいハルカの後ろ姿が重なり、龍樹のなかで溶けてひとつになっていく。
──空白の時間が埋まっていく……。
龍樹はずっと、幼い頃のハルカの面影だけを胸に抱いてきた。
だから時を経て今、ハルカがこうして龍樹の物語に向き合ってくれていることに、不思議な縁を感じてしまう。
龍樹にとって、都築ハルカは──昔も今もやっぱり特別な存在だと……そう思う。
しばらくして、本を閉じたハルカが勢いよく振り向いた。
「どうだった?」
「龍樹くん! もしかして──これは龍樹くんが書いたのっ?」
ハルカが興奮気味に声を上げた。
「ど、うして……?」
驚いた龍樹は思わず目を逸らしてしまう。
上擦った声で問いかけると、ハルカは絵本の間から皺の寄った紙の束を取り出して、龍樹に見せた。
「それは────」
刹那、龍樹の記憶の底が揺さぶられる。
頭の中で時間を飛び越え、さまざまな景色が入り乱れたのち、やがて焦点が合うように一つのものに辿りつく。
(──ああ、そうか……。そこにあったんだな……)
ハルカが手にしているもの。
それはまさに、龍樹が小学生の時に書いた「鍵をなくした妖精」の原稿だった。いや、原稿なんていえるものじゃない。
手書きのそれは、今思うと、落書きに近いレベルの文章だ。
それでも、あの頃の龍樹は精一杯の力をこめて書いた──はじまりの物語。
遠雷の唸りとハルカの声が、同時に龍樹の耳に届く。
「名前も「星」「樹」だし。龍樹くんが、星樹さん……なんだね?」
龍樹は肯定した。
星樹は自分だ……。
「隠してたわけじゃ無かった。けど、言い出せなくて……」
「龍樹くん……あのね、」
ハルカが絵本を抱えたまま、龍樹のそばへやってくる。
その瞳が、強く真っ直ぐに龍樹を捉えていた。
──ハルカが何かを伝えようとしている。それだけはすぐに分かった。
「私ね、生まれてからずっと、生きているのが嫌で逃げたくて……。でも、それでも頑張ろうって、前を向いて生きるって決めたの……」
噛みしめるように話すハルカの声は震えていた。
辛いと思うことなら無理に話さなくていい──そう思うのに、龍樹はハルカを止めることは出来なかった。
ハルカの口から、ハルカの思いを知りたいと望んでいるからかもしれない。
だから龍樹は、これから語られることに全神経を集中させることにした。
「だけど色々なことがあって……。そのうち……ただひたすらに毎日を過ごすことだけに追われるようになって、どうして前を向いて生きようと思ったのか忘れてしまってた。でも──今、やっと思い出したの!」
──予感が、龍樹の胸を貫いた。
記憶のなかの、幼いハルカが「生きるよ……」と呟いた言葉が、頭の中で蘇る。
そして目の前にいる大人のハルカが、絵本を抱きしめ龍樹に言った。
「私、この物語に出会ったから、「生きる」って決めたの──」
「ハ、ルカ……」
「だから、龍樹くん。──……ありがとう」
ハルカの瞳から、涙が零れた。
龍樹も目頭が熱くなって、込み上げてくるものを、ぐっと拳を握ることで宥めようとした。
全身の細胞が歓喜で震えているのが分かった。
今まで生きてきて幾度も感じた、どうしようもない虚しさや、儚さや、怒りや焦燥も、己の抱えてきた重荷の全て──ハルカの言葉が吹き消してしまった。
「俺のほうこそ、ハルカが……俺を見つけてくれたから……」
──もう何も、隠す必要も無い。
今まで胸の内に秘めていたすべてを、今なら打ち明けられる。
「俺は知ってたんだ……」
「龍樹くん?」
「雨宿りで入った本屋で、ハルカが俺の書いた物語を読んでいたこと。──その時、俺は生まれてはじめて、自分が誰かに認めてもらえたような気がした。そして誰かの「希望」にもなれた気がした。ハルカがいたから、俺は作家になれた。──だから……俺のほうこそ、見つけてくれて、ありがとう」
ずっと伝えたいと思っていたことを、龍樹はようやく口にできた。
目の前にいるハルカが、溢れてくる涙を何度もその小さな手の甲で拭っている。
その姿が、仕草が、愛しくて堪らない……。
困難を前にしても歩き続けてきたハルカの魂が美しくて、だけど、痛みを覚える日々があったことも容易に想像ができて、龍樹の胸は苦しくなる。自分に出来ることがあるなら、助けになりたいとも思う。
(そうだ。俺は、あの時も思ったんだ……)
──……守りたい、と。
龍樹の物語を抱きしめてくれたハルカの心を、今度は自分が守りたいと。
ハルカの心が曇るようなことがあるなら、自分はそれを振り払う「風」のような存在でありたいと。
今も、それは変わらない。
(──俺はずっと昔から、ハルカのことを愛しいと想っていたんだろうな……)
龍樹は、己の中に、ハルカへの想いが巡っていくのを感じていた。