線路に降る雨④
龍樹は仕事場としている、自宅のマンションの一室で、パソコンと向かい合っていた。
──壁を隔てた隣の部屋には、都築ハルカがいる。
マンションに着くと龍樹は念のため、ハルカに体温を測ってもらった。「疲れているだけだから」と言っていた通り、熱は無く、ひとまず安堵する。
ハルカにひと通りキッチンやトイレの場所を教えてから、龍樹は仕事を始めることにする。
「じゃあ、俺はこっちの部屋で仕事してるから。──何かあったら声かけて」
「うん。少しだけ休ませてもらいます。ありがとう保志くん……」
「どうぞくつろいで……。あと、俺のことは「タツキ」と呼んで。外国での暮らしが長かったせいか、ファーストネームのほうが、しっくりくるんだ……」
「そうなの? ……わかった、龍樹くん。なら、私のことも「ハルカ」と呼んでください」
「──じゃあ、ハルカ……ゆっくり休んで」
それから龍樹は仕事部屋に入り、扉を閉めるとデスクに向かう。
ハルカが自分のマンションにいる──そう考えるだけで落ち着かなかった。
龍樹は集中できないまま、思考の波に身を委ねていた。
(──まさか、俺のこと、覚えているなんて思いもしなかった……)
素直に嬉しかった。
ハルカとこんなふうに話せる日が来るなんて、一ミリも想像したことが無かった。
龍樹の心の中にあったのは、ずっと……あの日の幼いハルカの姿だった。
それは道しるべの光となり龍樹の人生を照らしてくれていた。おかげで、龍樹は迷わず作家という道を進んでこれた。
──ただただ、ハルカに感謝していた。
しかし、大人になったハルカと再会してしまった……。
龍樹の心に、今までとは違う何かが灯る。
静かな水面に雨が降ってきて波紋をひろげるように、龍樹の心にも揺らめきがうまれる。
確かな「変容」の予感がした──。
いつの間にか部屋が暗くなっていることに気付く。
時刻は……夏の日暮れには、まだ程遠いようだ。
龍樹はカーテンを開け、窓の外を見る。
すると濃くて厚い鉛色の雲が、空を覆っていた。
──刹那、眩い閃光が走る。
(雷だ!)
そう思った時には、鼓膜に突き刺さるような大響音が鳴り響いていた。
龍樹は咄嗟にカーテンを閉める。
扉を隔てた隣の部屋から、か細い悲鳴が聞こえた。
──ハルカの声だ。
きっと雷鳴に驚いたに違いない。雷が苦手な者は多いのだ。
(そういえば、夏樹も雷が嫌いだった……)
龍樹は自分の弟が、大の雷嫌いだったことを思い出す。
雷の夜はいつも龍樹のもとへ震えながらやってきて、気を紛らわそうとしていた。
(もしかして、ハルカも雷がこわいのか……?)
暗くなっていく室内。
龍樹は少し迷ったあと部屋を出る。
「──……大丈夫?」
リビングに行くと、ソファに腰掛けたハルカがぎゅっと両手をを握った姿勢のまま龍樹に振り向く。その縮こまった姿が愛らしい小動物のように見えて、龍樹は思わず微笑みを零してしまった。
「雷、苦手だった……?」
「ちょっとびっくりしただけ。大丈夫だよ」
「そう? 体調はどう?」
「おかげさまで、少し休んだから楽になったみたい……」
「それなら良かった……」
(寝てたのかな……)
ソファに横になっていたのか、ハルカのひとつに束ねていた髪は解かれており、艶やかな黒髪が少し乱れて、頬や背中や膨らんだ柔らかそうな胸の上に散らばっているのが見えた。
血色が良くなった唇は、薄暗い室内でも分かるくらい、しっとりと赤く色づいていて、龍樹は視線を泳がせてしまう。
「……ああ、俺もちょっと休憩。お茶淹れるから飲まない?」
「うん。ありがとう」
龍樹はリビングと続きになっている、ダイニングのカウンターキッチンに立つ。料理をすることは滅多にないからキッチンもさっぱりとしている。
龍樹は紅茶を淹れることにした。
いつも仕事中はコーヒーを飲むことが多かった。だけど紅茶マニアの母親の影響か、龍樹は寝る前や、落ち着きたい時には紅茶を飲むことも多い。
それに内臓を温めるにはコーヒーより紅茶が良いと聞いたことがある。体調の優れないハルカにはちょうど良いかもしれない。
外はまだ強い雨が降っているようだ。
雷も唸り声をあげてはいるが、それも徐々に遠ざかっている。
龍樹はちらりと、リビングにいるハルカを見る。
ハルカはソファに座りながら、リビングに置いてある大きな本棚をじっと見つめていた。
(そういえば、本棚はだいぶ散らかってたな……)
龍樹は苦笑いする。
仕事部屋と寝室に、あまり物を置かないようにしているせいか、リビングには今まで買った本達が溢れている。大きな本棚があるとはいえ、次々と買っていては間に合うはずもない。
「本、好きなの?」
二人分のティーカップをテーブルに置きながら、龍樹は問う。
するとハルカは「うん」と瞳を輝かせて返事をした。
「龍樹くんも本が好きなの? こんなにいっぱい……」
「そうだね。俺は毎日仕事してるか、本読んでるか……だから」
作家という職業柄、多くの物語に触れなければいけない。日本の作家の本もだが、海外の作家の本も龍樹はよく読んでいた。
「そうなんだ。……私はよく図書館に行くの。本を読んでいると、あっという間に時間が経つよね」
「わかるよ。ちなみに、ハルカは何のジャンルの本が好き?」
「何でも読むよ。時代物も、恋愛小説も、SFも好きだし……ライトノベルも面白いよね」
「すごいな。ほんとに何でも読むんだな……」
ハルカは根っからの本好きなのだろう。
龍樹の周りには、本が好きな者はたくさん居る。
けれどその殆どが、作家や編者者など生業にしている者達だった。
だからだろうか……純粋に読むことが好きな者との会話は新鮮に感じる。
「龍樹くんは? 好きな作家さんとかいる?」
「俺か……。すごいって思う作家はたくさんいるけど、今は売れてる作家の本が出たら、ひと通りはチェックする感じかな……」
「へぇ。そうなんだぁ~」
「もし……気になる本があったら、貸すよ?」
「本当に?」
「もちろん。返すのはいつでも良いから」
龍樹の提案に、ハルカが嬉しそうな表情をしながらソファから立ち上がる。
古い書籍もあれば、一週間に買ったばかりの新書もある。
──ハルカは、どの本に興味を示すだろう……。
そう考えるだけで、なんだか楽しくなる。
「龍樹くん、この本……」
「ん? どの本……?」
お湯を入れたティーポットをテーブルに置くと、龍樹は本棚の前にいるハルカの隣に並んだ。
そしてハルカの指先が示すものを理解したとき、ドクリと心臓がはねた。