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線路に降る雨③

 どれくらい時間が経っただろう。

 つい先ほど、ホームに入ってきた電車が走り去っていく。

 昼間に近い、通勤ラッシュもとうに終わったこの時間帯は、ほどよい静けさが漂っている。

 龍樹はハルカのそばで暑さも忘れ、買ってきた本を読み進めていた。

 一方、ハルカは座ったまま動こうとしなかった。

 時折、身動ぎをしたかと思うと、細い左手首につけた腕時計をぼんやりと眺めているだけだった。

 やがて……熱く溜まっている空気を押し流すように風が吹いてきた。

 それはほんの少しばかり冷気を孕んでいて、龍樹の汗ばんだ肌に心地良さをもたらした。

 不意にハルカが顔を上げた。

 それからゆっくりと首を捻り、線路に向かって視線をうつす。

 龍樹もまた、ハルカに気付かれないように視線を追いかけて──そこで気付く。


(雨が降ってきたのか……)


 ハルカの視線の先──屋根のかかっていない線路に、真っ直ぐな軌道をえがく雨粒が見えた。

 どうりで空気が少し冷たく感じたわけだ、と龍樹は納得する。



 ボタ、

 カツン……

 ポツッ、

 カツン……



 硬い金属のレールの上に──

 線路に敷き詰められている大きな{砂利}(じゃり)の上に──

 アスファルトの壁にも──

 透明な雫はぶつかり、そして弾けた。

 小さな雨音は幾重にも重なり、耳に心地よい音色を奏でている。


「──線路に落ちる雨の音って、はじめて、聞いた……」


 小さなささやきが、龍樹の耳に届いた。

 それはハルカの声だった。

 独り言だろう。けれど龍樹にははっきりと聞こえた。

 柔らかくて、落ちてくる雨粒のように透きとおっていて、微かに感情を含みながらも解けていくような……ハルカの声。


(──俺も。はじめて聞いたよ……)


 龍樹は心の中で、ハルカのささやきに答える。

 それから目を閉じて、線路に降る雨音に耳を澄ます。

 アスファルトの道や、窓ガラス、街路樹の大きな葉を叩く音──その、どれとも違う音色。

 熱い空気を宥めるような心地よい音色を感じ、龍樹はなんだか胸の奥がツンと切ない気持ちになった。


 ──だって、「線路に降る雨音」に気付く人間なんて、どれくらいいるだろう……。


 少なくとも龍樹は、ハルカが言わなければ気にも留めなかっただろう。

 だから今、ハルカの繊細な感性に気付いて苦しくなった。

 この「世界」は、ハルカの心にどのように映っているだろう。

 美しいものばかりなら良いが、そうじゃないもののほうが断然目につく。きっとそういったものを捉えたとき、ハルカの心は揺らぐだろう。

 生きるうえで辛く感じていなければいいが……。


(俺の考えすぎなら、いいんだ……)


 どうか幸せであって欲しい──そう、龍樹は心から願う。


 ハルカが立ち上がろうと腰を少し上げた。

 しかし……すぐにまた躊躇ったように座りこんだ。その動作があまりにも緩慢で、龍樹は違和感を覚える。


(そういえば、ハルカはどうして此処にずっといるんだ?)


 今さらだが、龍樹は首を傾げる。

 雨が降ってきたせいで空気は湿り気を帯び、じっとりとした熱が身体に絡みついてくるようになった。

 蒸し暑いのは不快だ──。

 呼吸するたび、生温(なまぬる)い空気が、身体の中の水分をも奪っていく。

 つうっと、(ひたい)からから汗がつたい、ポタリと本の上に落ちる。

 そろそろ涼しい場所に行きくなった。


(もしも、こんな所にずっといたら……)


 そこまで考えて、龍樹はハッと顔をあげる。そして勢いよく本を閉じると、ひとつ離れたベンチに座るハルカを見る。


 ──どうして、今まで気付かなかったんだ……!


 龍樹は腹の底が冷えていくのを感じた。

 ちいさく肩を上下させて呼吸をしているハルカの横顔が、ひどく青白く、瞳も虚ろに揺らいでいた。

 ハルカはずっと座ったままだった。

 普通であれば、こんな気温の高い日に外に長時間いることは危険だろう。毎日のようにニュースでは、熱中症への危機管理を訴えている。ハルカだってそれは理解しているはずだ。


(体調が悪くて動けなかったのかもしれない……!)


 ハルカの様子は、どこか辛そうに見える。

 このまま、此処に居続けたらもっとひどい事になるかもしれない。

 龍樹は急いで立ち上がり、近くにある自動販売機でペットボトルのスポーツドリンクを買うと、躊躇うことなくハルカの前に立ち言った。


「具合が悪いなら、駅員を呼んできましょうか?」


「──!」


 突然声を掛けられて驚いたハルカが、ゆっくりと顔を上げ龍樹のことを見る。

 二人の視線が真っ直ぐに重なった。

 ハルカが息をのみ、その瞳が大きく開かれる。


「顔色が良くないです。……とりあえず、飲んでください!」


 龍樹はペットボトルを押しつけるように、ハルカに渡した。


「あ、ありがとうございます……」


 ハルカは戸惑いながらお礼を口にしたあと、ペットボトルのキャップを開けて、ゆっくりと時間をかけて半分くらい飲みほす。

 その間、龍樹は大人になったハルカを見つめていた。

 外国に引っ越す前──最後にハルカ見たのは、小学校の卒業式の日。

 あれからもう十年以上の月日が経ち、すっかり大人の女性へと変貌している。

 細い体型は変わらないが、柔らかい輪郭をえがく肩のライン。それから目に入るのは、丸襟のカットソーの首元からのぞく鎖骨。呼吸とともに浮かび上がるように上下して見えた。

 ──……眠れていないかもしれない。

 目の下にクマができている。睡眠不足も、体調不良の原因かもしれない。

 ただ意識ははっきりしているようだと、龍樹は安堵する。

 ハルカはペットボトルのキャップを細い指先で閉めると、目の前に立っている龍樹をふたたび見上げた。目が合うと、ハルカは少し困ったような表情をした。


(……しまった。あまりにも、じっと見すぎてしまったか……)


 職業柄も手伝って観察するようにハルカを眺めてしまったことで、不審に思われたかもしれない。

 龍樹は慌てて、視線をそらす。

 しかし、そこでハルカは予想もしていなかったこと口にする。


「もしかして、保志龍樹くん……ですか?」


「……!」


 一瞬……頭の中が真っ白になる。

 ──まさか、俺の事を覚えているなんて。

 龍樹は少しだけパニックになる。


「俺のこと、覚えて……?」


「もしかして、保志くんも、私のこと覚えててくれたの?」


「あの、ええと……、うん……」


 龍樹が掠れた声で頷くと、ハルカはまた困ったような表情をしながら目を伏せた。


(──もしかして、声を掛けられたくなかったのか)


 だとしたら、なんだかちょっとショックだ。


「あの、ごめん……」


「どうして謝るの? ……私、学校では浮いた存在だったから。だから、覚えてる人も多いんだろうなって……」


 苦笑いを浮かべながら、ハルカがそう言った。

 浮いた存在……。

 都築ハルカの噂は、当時、隣のクラスの龍樹の耳にも入ってきた。

 母子家庭で、母親は夜の仕事をしていて、小さくて古びたアパートに住んでるとか、給食費を滞納してるとか、着ている服は全部ゴミを漁って手に入れたものだとか……。

 今になって考えると、そういうふうに言われていたハルカはどんなに辛かっただろう。

 ──けれど、そうじゃない!


(俺は「そういう噂」があったから、ハルカを忘れずにいたんじゃない……)


 ……そんなちっぽけな事柄じゃない。

 ハルカに出会っていなければ、龍樹は作家になろうとは思わなかった。

 だから龍樹にとってハルカの存在は、思い出以上に深く心に刻みついている。


「──違うよ。俺は、キミが浮いた存在だったから覚えていたわけじゃない。……もっと、別のことだから」


「別のこと?」


「そう。──…だけど、それは今はいいんだ。とにかく誤解しないで欲しい」


「……うん。保志くん、ありがとう……」


 ハルカは頷いたあと、やっと笑顔で龍樹を見た。


「それより、具合は大丈夫?」


「ごめんね、気を遣わせて。……疲れてるんだと思う。今日も朝からバイトの面接が何件かあって。……結局ダメだったんだけど」


「なら、余計にゆっくり休んだほうがいい。気温もあがってきたし、心配だから家まで送るよ……」


 しかし、ハルカはゆるゆると首を振る。


「私のことは、気にしなくて良いです……」


「でも──」


「明け方にね、お母さんが……恋人と一緒に帰ってきたの。狭いアパートだから、帰ったら邪魔になるかもしれないから。ちょうどカフェにでも行こうかなって思ってたところだったし」


 そう言って微笑むハルカが、ひどく頼りなく見えた。

 それに、今の言葉でハルカを取り巻く環境が、昔とさほど変わっていないのだと察する事ができた。


(──このまま、放っておけるわけない……)


 ハルカからすれば、龍樹は他人と何ら違いない存在だろう。けれど龍樹にとってはそうじゃない。小説を書くとき、必ず心の中にはハルカの存在があった──


「もし良かったら、俺の家にくる?」


「……保志くんの家に?」


 突然の提案にハルカが驚く。


「俺は夜まで仕事部屋にこもってるだろうから、帰っても大丈夫な時間になるまで居るといいよ。小学校のときに住んでたマンションと同じだから、きっとキミの家も近いだろうし……」


「迷惑じゃない……?」


「大丈夫、迷惑じゃないよ。カフェよりは静かだし休めると思うから。遠慮せずにどうぞ」


「じゃあ、お邪魔します……」


「うん。──あ、立てる?」


 ハルカが「ありがとう」と言いながらベンチから立ち上がる。龍樹はさりげなくハルカのバッグを手に持つと、「ゆっくり行こう」と声をかけた。

 ハルカは何か言いたげな表情で龍樹を見上げたが、結局、ただ頷いただけだった。


「雨……まだ降ってるな……」


 線路に落ちていく雨を見ながら、龍樹はそう呟いた。

 ハルカも一瞬立ち止まり、名残り惜しそうに降る雨に視線をうつす。

 静かに降り続ける雨粒の音が、二人の間を埋めるように柔らかく響いていた。


 

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