線路に降る雨②
この日、龍樹はいつもより早く目覚めた。
今日は特別な日……。
龍樹が日本に来てから二年、そして作家として三作目の物語が、今日、無事に日の目を浴びる。
朝の八時。
盛夏の朝は、マンションの大きな窓から差し込む光も熱くて、龍樹はじっとりと汗をかいた身体をシャワーで洗い流す。
──東京の夏も暑い。
毎日三十度を超えるのが当たり前で、龍樹は夏の間、ウチのなかに閉じこもるような生活を送っていた。
シャワーを浴びると、そのままデスクに向かう。
パソコンを開いて、昨日書いたコラムに目を通したあと、頭の中で今日の目標設定をする。
仕事というのは終わりが無い。
新刊が出て息をつく間もなく、龍樹は次の小説のプロットづくりや、文芸雑誌に掲載する掌編小説の執筆に追われていた。
目標が決まると、龍樹は出かける準備をはじめた。
──自分の物語が、今日、世に出る……。
書店に行き、新刊コーナーに自分の本が平積みされているのを見たときの感動は、今でも忘れられなかったし、気持ちがき引き締まる思いもした。
だから発売日には、書店に行き、初心を思い出す……。
龍樹が住んでいる街には大きな書店が無かった。
そのかわり古書店はいくつかあり、最近ではカフェスペースが併設されている店も出てきて、癒しの空間として話題を集めている。
龍樹は電車に乗り、隣町まで足を伸ばす。
駅ビルの大型書店の新刊コーナー。
そこには龍樹──星樹の新刊もちゃんとあった。
(どうか、この物語が、誰かの心に届くものでありますように……)
売れなければ作家として立ち行かなくなる。
それを理解しながらも、純粋に「希望」であることを望む。
そのことに気づかせてくれた人を大切に想うかぎり、龍樹は物語に「希望」をのせていくだろう。
──どんなに遠く離れていても、決してお互いの人生が交わることがなくても、物語なら届くかもしれない。
だから、書き続けなければ。
龍樹は数冊の新刊と資料用の書籍を買うと、自宅に帰ることにした。
帰ったら、執筆と読書だ。
それは作家である龍樹の日常であり、仕事だった。
ふたたび電車に乗り、車窓から流れていく景色を、龍樹はぼんやりと眺める。
昔から変わらない建物や公園、逆に幼い頃には無かった大型スーパーやマンション。
新しい風景を発見するたび、まるで過去からタイムスリップをしてきたかのような感覚になる。
日本で暮らした時間より、海外にいた時間のほうが長いせいもある。
日本に帰ってきた時、時代の進化を目の当たりにした。
人々の暮らしぶりも変化している。
──街も人も変わっていく……。
幼い頃、足しげく通っていた本屋は、リサイクルショップに姿を変えていた。
変化していくのは時代の常だと思う。
だけど……記憶の中にある温かさを孕んだ景色が変わっていくのは、やっぱり寂しくも感じた。
電車を降りると、雪崩れるように出口に向かう人の群れに紛れる。
そこでふと──龍樹の目はある場所に吸い寄せられる。
それは駅のホームにあるベンチ──そこに座っている一人の女性……。
──都築ハルカ……。
実は、龍樹は日本に帰ってきてまだ間もない頃、偶然、都築ハルカを見かけた。
いや……偶然とは言えないかもしれない。あの頃と住んでいる場所が同じなのだから。ハルカがどこか別な場所に引っ越ししてしまわない限り、会っても不思議ではない。
「……」
龍樹は群れから抜けると、ハルカの座っているベンチに腰をおろした。
この駅のベンチは最近新しくなったばかりで、線路に対して垂直の向きで取り付けられている。三人がけのベンチはひとつひとつの椅子が独立していて、ハルカは端に席に座っていた。龍樹が座ったのは真ん中を空けた端……。
声をかけるつもりは無い。
そもそも小学生の時も親しい間柄では無かったのだ。
それに、あれから十年以上も経過した今、大人になった龍樹のことをハルカが覚えているとも思えない。
(人は変わるものだ……俺だって、あの頃とは全然違うしな……)
顔立ちも、身長も、食べ物の好みも、口調だって子供の頃とは違う。文章の書き方だって変わった。大人になり冷静に世の中を俯瞰できるようにもなってきた。
(ハルカだって、ずいぶん変わった……)
成長したハルカは、美しい大人の女性になっていた。
きっと「恋」だっていくつか経験しただろうし、もしかしたら指輪はしていないけど、結婚を誓った相手だっているかもしれない。
内包している魂は同じだとしても、ハルカだってあの頃とは違う。違って当然だ。それだけの「時」が流れてしまった。
──だけど変わらないものもある。
(それは、あの頃のハルカに対する俺の気持ち……)
龍樹はさっき書店で買ってきた本を取り出して表紙をめくり、物語に身を投じていく。
外は気温も上がりはじめ、熱気を含んだ風が龍樹の頬を撫ぜていく。
首筋をじんわりと汗が伝っていくが、今は、そんなことは気にならなかった。
手を伸ばせば届く距離……。
ハルカの隣で、龍樹は流れていく時間に身を任せる。
もしかしたらハルカは、次にホームにやってくる電車に乗って行ってしまうかもしれない。
けれど、それでも良い。
龍樹は心の中でハルカに向かって話しかける。
『……あの時、俺の書いた絵本を読んでくれて嬉しかった』
『君がいてくれたから、俺は作家になろうって思えた。そして、真っ直ぐ、ここまで来れたんだ。だから──有難う……』
ずっとずっと、伝えたいと思っていた事だった。
「鍵をなくした妖精」の物語に感動してくれた、あの頃の幼いハルカはもういないけれど……。