終章 創り出した未来
十一月。季節は冬を迎えようとしている。
「兄貴は日本に帰りなよ。俺はもう大丈夫だからさ」
夏樹が言った。
周りの献身的な看病の甲斐もあり、夏樹は順調に快方に向かった。
病気自体が治ったわけじゃないが、年齢を重ねるごとに丈夫になっている。
それに病院で処方される薬だけじゃなく、日本ではまだまだ認知度が低い代替療法を、夏樹は色々と試しているらしい。
夏樹が回復したことで、龍樹も、両親も、二人の親友のキースも、心の底から安堵していた。
この二ヶ月、夏樹ために親友ですら家族の一員のように支えあってきた。皆で過ごしてきた時間が、さらに信頼という絆を深めた気がした。
(帰ってきて良かった……)
夏樹には申し訳ないが、帰るキッカケがあって良かったと龍樹は思う。
龍樹は家族や親友のそばにいることで、安らぎを覚えていた。
自分が、身も心も疲弊していたことに気が付いた。
「鍵をなくした妖精」の小説を書き、やるべきことを終えて、肩の力が抜けてしまったのかもしれない。張り詰めていた精神が癒しを求めていた。
そして龍樹は、家族に親友に支えられながら、筆を置いていた新作の原稿に再び取り掛かる。
終わった頃には、季節は冬になろうとしていた。
深山アカリに、新作の原稿と「鍵をなくした妖精」の原稿のデータを一緒に送ると、すぐに返事がきた。それは龍樹を慮る内容だった。
『原稿、受け取りました。「鍵エルフ」の原稿も一緒で驚きました。星樹くん大丈夫? ここ最近で一番多い執筆量だし、無理しちゃ駄目よ!』
(大丈夫じゃないのかもしれない……)
龍樹は、以前と違う自分を冷静に見つめていた。
日本にいるときも、ここに来てからも、原稿を書いていた時は元気だった。
恐ろしいくらい……。
寝食を忘れ没頭して書けた。
家族が声をかけてくれなかったら、入院している夏樹のもとへ行くのも忘れていたかもしれない。
そこで初めて、自分がどこかおかしくなっている事に気付いた。
今までは毎日一定量を書き上げたら筆を置いて、次の日の目標の確認をしていた。しかし、一定量を超えてもまだ龍樹は書き続けていたのだ。
──まるで、何かから逃げるように……。
締め切りが迫っているわけでもない。なのに急かされるように龍樹は原稿を書き上げた。
そして書きあげて、深山アカリにデータを送ったあと、今度はぴたりと書けなくなってしまった。
自分の中の書きたいという気持ちがすべて、燃え尽きてしまったように……。
夏樹が退院し、自宅療養になった。
もう心配いらないと医者の判断もあり、少しずつだが皆が元の生活に戻り始めていた。
そんな折──龍樹のもとへ俄かに信じられないビッグニュースが飛び込んできた。
「鍵をなくした妖精」の舞台化。
しかも舞台監督兼演出をするのは、秤アキラの夫──周防マルタだ。
ファンタジーの世界をどうやって、舞台の上で表現するのか。
龍樹にとって自分の物語に手が加えられ、自由になっていく瞬間でもあった。
主人公のレイン役には、最近役者の間で勢いがあると噂になっている、紀村真治という俳優が決まっているそうだ。
舞台化に伴い、龍樹──星樹にも取材の申し込みや、紀村真治との対談の企画が持ち上がっているらしい。
「一カ月だけでも、日本に来れないかしら?」と、深山アカリからは打診があった。
もちろん、無理であればネットを介してでも問題無いという……。
龍樹は迷っていた。
夏樹が倒れたと聞いて、飛び出してきたままだから、どちらにしろ一度は日本に戻らなければいけない。
それに……とうとう自分の作品が注目を集め始めたのだ。
デビュー前から面倒を見てくれていた深山アカリにも、やっと恩返しができるのは嬉しかった。
けれど、今の龍樹は手放しで喜べる状況では無かった。
(俺は、ちゃんと作家として応えられるだろうか)
不安がよぎる。
小説のアイディアを書き留めたネタ帳を見返しても、書きたいという衝動は起こらない。今までなら、登場人物がいきいきと龍樹の意識を超えて動いていくのに……まるで思い描けない。
こんな今の自分のまま、堂々と作家として皆の前に出てもいいのだろうか。
迷った挙句、両親にも打ち明けてみた。
しかし二人とも「自分の道なのだから、自分で決めなさい」と、あっさり返されてしまった。
(俺は作家で居続けるという覚悟が足りなかったのかもしれない……)
龍樹の心は暗くなった。
しかしそんな龍樹の背中を明るく押したのは、夏樹だった。
「兄貴は日本に戻りなよ。俺は、もう大丈夫だからさ。落ち着いたらまた帰ってくればいいじゃん。舞台の感想も聞かせてよ!」
遠い昔──自分のために兄が書いてくてた物語が今、注目を浴びていることに夏樹は興奮しているようだった。
それは龍樹だって同じだ。わくわくしている。けれど──
「俺、今、何も書けないんだ……」
「……え? スランプ?」
夏樹が驚いて、目を丸くする。
「そうかもしれない。──けど、自分でも分からない……」
正直な気持ちだった。
こんな事は今まで一度も無かったから。
夏樹は「う〜ん」と少し考えたあと、口を開いた。
「兄貴はさ、夢叶えたじゃん。努力して頑張ってちゃんと作家になった。俺、見てたからさ……」
「そうだな。ずっと、作家になるって決めてたからな」
龍樹の人生の半分は、作家になる事を目標にして費やしてきたようなものだ。
「じゃあさ、今の兄貴の夢ってなに──?」
「夢……?」
「そうだよ。ちなみに俺の夢は、翻訳者になって兄貴の物語を世界に送り出すんだ……!」
夏樹の夢はキースから聞いてから知っていた。
瞳を輝かせ、ぐっと拳を握り、夢を宣言する夏樹を見て龍樹の胸は温かくなっていく。
(今の、俺の夢──)
考えたことなんて無かった。
夢が叶った。
日本で作家になれた。そして作家になるという夢のキッカケだった同級生の都築ハルカと再会し、彼女が自分の物語を大切に思ってくれていたことを知った。
ハルカを取り巻く環境、愛されないと苦しむハルカのために、龍樹は自分の想いのすべてを託した物語を書いて、ハルカに渡した。
──もう、何もかも、やり尽くしたような感覚。
それだけじゃない。何か大事なものが手のひらから溢れ落ちていくような、哀しみ……。
(ああ、そうか……)
龍樹の胸がズキリと痛んだ。
(俺はもう、ハルカの為に書けないことを哀しんでるのか……)
気付いてしまった喪失。
憂いをおびた表情の龍樹見て、何かを感じ取った夏樹が言う。
「兄貴……夢や目標が見つからないなら、俺の為に書いてよ。俺の為に作家でいてくれよ」
「夏樹?」
「それが俺の希望だから。俺の夢に付き合ってよ……」
夏樹の夢を考えれば、まだ折れるわけにはいかない。
それに龍樹だって、作家という自分を失いたくない。積んできた人生をまだ手放したくはない。
作家で居続けることは、ただでさえ困難なことだ。立ち止まっている暇なんかない。
──書き続けなければ……!
舞台化が決まった今、自分の作家人生において最大のチャンスが訪れているのだ。
(俺は進み続けるしかないんだ、夏樹ためにも)
「ありがとう夏樹。俺、日本に行ってくる……」
「頑張れ兄貴! 兄貴を待ってる人は絶対いるから!」
龍樹は日本へ戻ることにした。
帰国の日取りが決まると、それに合わせて仕事のスケジュールが組まれていった。
まず一番はじめの仕事は「鍵をなくした妖精」の舞台化についての取材。内容は、原作者である星樹と、舞台で物語の主人公レインを演じる俳優──紀村真治との対談だった。
この対談は、公演当日、客席にて配られるパンフレットに掲載される。写真撮影もあると聞いて、日本に帰ってからすぐに秋服を買いに行ったり、美容院に行ったり、龍樹は慌ただしい時間を過ごしていた。
取材当日。早朝。
龍樹は都内にある植物園の一角にいた。
緑の多いこの場所は、まるでレインとクルスが出会った森を彷彿させる。
現場には、龍樹と担当編集者の深山アカリ。それから紀村真治と、紀村が所属する劇団「のらいぬ」を今回プロデュースし、さらに自ら舞台監督兼演出家として参加する、周防マルタもいる。
他にもスポンサーになっている企業の担当者や、カメラマンがいた。
いつも出版社にあるミーティングルームでの取材しか経験のなかった龍樹は、この空気に緊張してしまう。
この植物園も、営業時間前のみということで使用許可が降りている。
(滞りなく、終わらせないと……)
「紀村さんのヘアメイクも終わったみたいだから、そろそろだわ……。よろしくね星樹くん!」
アカリがそう言って龍樹の肩をたたく。
星樹の本を発行してくれている出版社も、今回の舞台のスポンサーに入っていた。
アカリはその出版社の代表でもあるし、担当作家が手がけた作品が舞台化ということで、かなり気合が入っているようだった。
「紀村真治さん、準備オッケーです! 入りまーす!」
「星樹先生も、スタンバイ宜しくお願いします!」
鮮やかな緑を背景にして、小さなテーブルと二人分の椅子が置いてあるセットに向かって龍樹は歩き出す。
一同の視線を全身に感じながら、龍樹は自分よりいくつか年上の俳優、紀村真治の前に立った。
紀村真治という役者を龍樹は最近知った。
もともと日本の芸能人に詳しく無かったこともある。
紀村との対談を前に、龍樹はネットで彼のブログをチェックした。どうやら来年の春から始まるテレビドラマにも、出演が決まっているらしい。
ヘアメイク前の紀村に挨拶にいき、そこでお互いにはじめて顔を合わせた。
(──この人が、レインを……)
一瞬で惹きつけられた。注目を集めている俳優だ。見た目も申し分無く、かっこいい。
だが、それだけじゃない──
紀村の纏う空気だ。
そこにいるだけで、周りをも包み込んでいくような存在感。俳優として立っているのだという緊張感も伝わってきて、龍樹自身も背筋が伸びるような心地がした。
「改めて……はじめまして星樹先生。レインを演じさせて頂きます紀村真治です。今日は宜しくお願いします!」
「作家の星樹です。こちらこそ、今日は宜しくお願い致します!」
握手を交わし、用意されている椅子に腰を下ろす。
対談が始まった。
この対談では、作品の見所や、実際に舞台を観に来てくれたお客に向けてのメッセージを入れて欲しいという事だった。
こういう場に慣れていない龍樹を気遣ったように、紀村は「大丈夫ですパンフレットは編集して載せるので、気楽にやりましょう」と言ってくれた。
龍樹がまず、紀村を見た時から気になっていた事を口にした。
「紀村さん、もしかしてその髪型……」
「そうです。絵本のレインを参考にしてみたんですけど、どうですか?」
「いや、もう……レインそのものっていうか……。小説ではレインの髪色は「緋色に金糸が織り交ぜられた」と表現したのですが、ぴったりですね」
「星樹先生にそう言ってもらえると安心します。ただ、問題点としては、とにかく目立ってしまって……」
「あはは……。そうですよね……」
確かに目立つだろう。
ただでさえ、背も高くスタイルの良い紀村だ。その上、レインに合わせて真っ赤に染めた髪色は、趣味のコスプレイヤー見間違えられてもおかしくない。
役作りとはいえ、目立ってしまって大変だろう。
紀村は苦笑いを浮かべながら言う。
「実は昔から喫茶店でバイトしてるんですが、今では、裏で皿洗いしかさせてくれなくなりまして……。そろそろ、退職を申し出ないと思っていたところです」
「えっ、喫茶店でバイトですか? 裏にいるなら良いですけど、テレビにも出るようになったら絶対にバレますよ!」
「ですよね……。すごく好きなお店なので残念です。あ、星樹先生も良かったらきてください。マスターの淹れるシナモンカプチーノは絶品なので!」
紀村はとても話しやすい相手だった。
年代が近いこともあるのかもしれない。これがキッカケで友達になれたら嬉しい。
──紀村の演じるレインを早く観てみたい……。
話すと気さくなのに、滲みでている圧倒的な存在感は、舞台の上で最大に発揮されるのだろう。
強く、優しく、クルスを守ろうとするレインを、紀村はどう演じるだろうか。
対談は順調に進み、紀村が話題を変える。
「この「鍵をなくした妖精」という物語は、すごくメッセージ性が強いなと感じました。驚いたのですが、星樹先生はこれを小学生の時に書かれたんですよね?」
「そうです。僕がはじめて書いた物語でした。弟と一緒に楽しむ目的で書いていたものが、編集者をしている叔父の目に止まったんです」
「──すごいですね。才能というか……」
「いえいえ。僕より、秤先生の表現力が素晴らしくて……。順調にいけば、小説も出させてもらえそうなので、絵本では語られていないストーリーが楽しめると思います。それに、秤先生の描くレインとクルスがまた見れるかもしれません」
真剣な眼差しで傾聴する紀村のおかげか、龍樹の緊張もすでに無くなっていた。
「小説楽しみですね。──小学生の星樹先生は、どんな気持ちでこの物語を書いたんですか?」
「さっき少し触れましたが、これは身体の弱かった弟のために書いたんです。その頃、僕たちが夢中になったのがファンタジーのアニメだったり、冒険小説で、入院生活ばかりの弟が退屈しないように思って、書きはじめたんです」
「弟さんの反応は?」
「大好評で、今でもこの物語を大切にしてくれています……」
日本に送り出してくれた夏樹。
幼い頃、病院でよく一緒に過ごしていた。
(そう、一番初めは夏樹のためだった。そして、そのあと……)
──記憶の蓋が開いていく。
龍樹にとって、大切な思い出が蘇ってくる。
「素敵な話ですね。「鍵をなくした妖精」物語はすごく優しさが滲み出ていて、大切なものを守りたいっていう強い気持ちと、「ひとりぼっちじゃない」というメッセージを僕は受け取りました──」
「確かに……。僕は、幼いながらに前向きな思いをこめた物語で……」
龍樹は話しながら、瞬きした瞳の裏側に、あの日の光景を思い出す。
学校帰り。
突然降ってきた通り雨──
そして、雨宿りの為に飛び込んだ、いつもの本屋で──
はじめは夏樹のために書いていた。
けれど、あの日から龍樹は……。
(俺は、あの日から、どこかで生きているハルカのために書いていたんだ……!)
「星樹先生?」
紀村が龍樹に声をかける。
「あ……れ、なんか……、すみません」
龍樹の声が震えた。
──胸がものすごく痛い。
喉元までせりあがってきた感情を抑える事ができず、龍樹の目からは涙が溢れた。
会話が止まってしまった事に気付いて、周囲がざわめきはじめた。
漏れ出てきた感情を抑えることができなくて、龍樹はどうして良いか解らなくなる。
「星樹くん!」
アカリの声がした。
しかし心配して駆け寄ってこようとするアカリや、ざわめく周りの人間に向かって、紀村が「大丈夫です」と、手を上げて制する。
「大丈夫です星樹先生。編集で何とでもなるので……。少し落ち着くまで、俺の話しをしても良いですか?」
「……すみま、せん……」
拭っても、拭っても、涙は止まってくれない。
(はやく、普通に戻らないと……)
焦るが、胸の痛みは消えてくれなくて、龍樹は唇を強く噛み締めた。
目の前の紀村は、動揺することなく穏やかな声音で話しはじめた。
「はじめて「鍵をなくした妖精」を読んだ時、僕はもっと早くこの物語に出会っていたかったと思いました。──だから今日、星樹先生に会えるのを本当に楽しみにしていたんです」
「……」
それから紀村は、誰もが驚く事を口にする。
「俺は、父親の不倫相手に育てられました……」
「──……!」
「本当の両親は俺を顧みてはくれなかった。すごく、哀しくて、寂しくて……生きるのが辛かった。だからその頃にこの物語に出会っていたら、勇気付けられただろうと思ったんです。レインがクルスに言った、あの言葉に出会っていたら……」
紀村が椅子から立ち上がった。
それから姿勢を正して、腕を少し広げたあと、紀村は深く息を吸い込む。
そこへ朝の陽射しが伸びてきた。
一枚の絵のように幻想的な光景だった。深い緑の間に射し込んだ光は淡くて、朝日なのに、満月のような光が紀村を浮かび上がらせる。
龍樹は息をのむ。
──目の前に、レインがいる……!
そして、龍樹に手を差し伸べたレインが言った。
『クルス、俺は……
お前が、過去の傷ついた俺を救ってくれたことを、一生忘れない。
だから、お前が消えてしまったら俺は哀しい!
明日、もしかしたら、大切な何かに出会えるかもしれない。
明日、大切な気持ちに出会えるかもしれない…、そうやって俺は生きてきた。
そして、クルス──お前に会ったんだ!
生きろ、クルス!
お前はもう、ひとりぼっちなんかじゃない!
俺にとって、お前は大切な存在なんだ──!』
ここはステージの上ではない。
台本が手元にあるわけでもない。
けれど、目の前の役者は、龍樹の作り上げた「レイン」の姿、そのものに見えた。
強くて伸びのある声。
虹彩が浮かぶ、優しい眼差し。
手の先までもが、クルスへの想いを表現しているかのようだった。
一瞬の静寂のあと、「おお!」と、周囲から拍手がわきおこる。
紀村は少し照れた笑みを浮かべながら、再び椅子に腰をおろした。
「星樹先生の他の著書も読みました。どれにも共通して誰かを「守りたい」という想いが伝わってきました。俺にも今……守りたいって思える人がいるから解ります。そしてきっと、星樹先生の書くものに、癒されたり、勇気付けられたりする人がいるから。だから、これからも書き続けてください!」
「──……っ!」
紀村の言葉が胸にささる。
こんなに真っ直ぐに求められたことは、はじめてだった。
今までは、ハルカだけだった。
ハルカのことだけを思って書いていた。
「そうです。僕は守りたくて書いてた。……けれど、もう終わってしまったんです」
「終わった?」
「全てを込めて書きました。そして、それを託したんです……」
「だから、終わったと……?」
龍樹は首肯する。
──書けない理由も、胸の痛みの理由も解っている……。
(守るものを失ったから……ハルカの為に書けないから、俺は哀しんで動けなくなっている……)
しかし、紀村は微笑んで言う。
「果たして、それで終わりでしょうか?」
「……え?」
「星樹先生が創りだした未来、そこに広がっている景色……。終わったと思うのは尚早かもしれませんよ。託した後の未来がこれから待っています……」
「──未来……ですか?」
「そうです。見届けてください。そこでまた自分がやるべき事が見えてくるんじゃないでしょうか。自分が生きている意味。生かされている意味……。俺は「鍵をなくした妖精」の舞台を絶対に成功させます! 星樹先生の大切な人へ向けた優しい想いが、一人でも多くの人に届いて希望となるように──」
紀村との対談が終わった。
龍樹はそのまま、アカリと共にタクシーで出版社に向かう。
この後は、アカリと打ち合わせをすることになっていた。
龍樹は、紀村から言われた言葉を頭の中で反芻していた。
(俺が創り出した未来……か……)
その景色が見れるのは当分先だろう。けれど紀村と話したことで、龍樹はひとつだけ自分の中の真実を見つけた。
(俺の中で、変わらない想いがある。俺はハルカの幸せを永遠に願ってる──)
もうハルカの為にできることは無くても。もう会うことはなくても。
ハルカが、誰か……愛しい人と共に人生を歩むことなったとしても。
ハルカの幸せを願っている……!
この想いを見つけられただけで、龍樹はずいぶん心が晴れた。
「深山さん、俺……作家として生きていけるように頑張るので、これからも宜しくお願いします」
龍樹が隣にいるアカリに言うと、アカリは驚いた表情のあと「もちろんよ!」と、笑顔で頷いた。
日の入りも間近だ。
眩い残光とは反対に、冬が近いこの時期は風が冷たくなる。
アカリと打ち合わせを終えた龍樹は、羽織ったジャケットの前ボタンを締め、首にウールのマフラーを巻き、オフィスビルを出る。
「……っ!」
ビルを出た瞬間、夕陽の眩しさに反射的に瞼を閉じる。
右手を翳し、陽射しを遮る小さな傘をつくってから、龍樹はゆっくり目を開けた。
そこで──夕陽の中に浮かび上がる輪郭に気付く。
ぼやけた視界のなかでその輪郭を追い、やがてその姿が鮮明に映ったとき、龍樹は息をのむ。
「──……っ!!」
夕焼け色に染まった艶めく黒髪。
コートを纏っていてもわかる細い身体つき。
小さな手のひらは軽く身体の前で組んでいて、つま先は龍樹を捉えるように、こちらを向いている。
そしてその瞳は幼い頃から変わらず、穏やかで芯があり、滲み出るような優しい光を湛えていた。
それらすべて──龍樹が心から愛しいと思う輪郭……。
「ハルカ!」
「龍樹くん……!」
ハルカが笑顔で、龍樹のもとへ駆け寄ってくる。
夢ではないのかと龍樹は目を瞠るが、頰に当たる冷たい風がこれは現実だと教えてくれる。
「──ハルカ……どうして……」
どうしてここにいるのだろう。偶然、いや……。
「アカリさんに聞いたの。龍樹くんが来てるって……だから待ってたの」
ハルカの頰と、鼻先がほんのり赤くなっている。これは夕陽のせいではなく寒さのせいだ。
「俺に……会いに……きてくれたのか……」
龍樹は奥歯を噛みしめる。そうでもしないとまた泣いてしまいそうだった。
──嬉しい! またハルカに会えて嬉しい。身体を冷やしながらも、自分を待ってくれていたハルカの心が愛しい。
「龍樹くん、私、見つけたよ……」
「……何を?」
「私に向けられた、愛の形を──」
愛の形……。
そう、覚えている。愛されていないと哀しむハルカに、龍樹は言ったのだ。
愛の形は色々あって、ハルカはこれからそれを見つけるのだと。
「私、結局家を出たの。反対はされなかった。解ってたことだけど……。でもね、最後にお母さんが言ってくれたの。「幸せになりなさい」──って。それだけで、今までの何もかもが報われた気がしたの……」
ハルカの瞳にもう哀しみの色は見えなかった。
まるで、雨上がりの空のように澄んでいる。
「そうか……」
「龍樹くんのおかげだよ。龍樹くんの想いが、いつもここにあったから……」
ハルカがそっと、自分の胸元に手を当てる。
(俺の想いは、ずっとハルカのそばに……)
この世界のどこかで生きているハルカに向かって、龍樹は物語を書いていた。
今までの龍樹の人生すべてが、ハルカの為にあったのだと思うくらい。
だからハルカの支えになれたのなら、龍樹はそれだけで満たされる。
──これが、創り出した未来の姿かもしれない。
「良かったな、ハルカ」
心からそう思う。ハルカの哀しみがやっと消えたのだ。
「ありがとう龍樹くん。……でもね……」
「……?」
「龍樹くんが願ってくれたように、私も……龍樹くんの幸せを、誰よりも願ってる──」
そう言って、ハルカが一歩……龍樹に近づいた。
二人の視線が絡まる。
冷たい風に赤くなっているハルカの頬が、今は上気しているように見えた。
(俺の幸せを願ってくれるのか……?)
近づいた距離──無意識に龍樹は己の手を伸ばし、ハルカの頬に触れていた。
手のひらに柔らかさと、冷たくなった肌の温度が伝わってくる。
「龍樹くん、私……」
ハルカも龍樹の手に自分の手を重ねた。
冷たい指先が絡まり、そこからお互いの鼓動が聞こえた気がした。
そして──今度はハルカが想いを紡ぐ。
「龍樹くん、私もアナタの事が好きです。龍樹くんが私のことを守ろうとしてくれたように、龍樹くんの心が辛いことや、哀しいことで痛むことがあるなら守りたいって思うよ。だから──」
ハルカの想いが、失くしたと思っていた龍樹の熱を目覚めさせていく。
「私のそばに、これからも……いてくださいっ……!」
「──……ハルカ!」
ハルカの想いに応えるよう、龍樹は重なっていた小さな手を握りしめて、その細い身体を引き寄せる。
そして両腕でしっかりとハルカを抱きしめると、龍樹は言った。
「俺はずっと、ハルカの幸せを願っていたけど、これからは違う。ハルカ──キミを絶対に幸せにする……!」
腕の中でハルカが頷くのがわかった。
(どんな冷たい雨が、キミの心に降ろうとも、俺がそばにいて守るから──)
溶け合うように佇む二人に、眩い残光が降り注ぐ。
まるで祝福を受けているかのように、二人の頭上では彩雲が煌めき、反射した光が淡い虹を浮かび上がらせていた。