君のために紡いだ物語①
龍樹はパソコンを前にして執筆を始めるとき、いつも不安に駆られる。
──果たして、この物語がどれくらいの人々の心に響くのか……。
誰の心にも届かないものだったら書き続けることに意味は無く、また、書くことに費やしてきた人生の全てが無駄だったということになる。
(誰の役にも立たなかったら? 誰も望んでくれなかったら……?)
心に湧いてくる不安を、都度、振り切り、自分を奮い立たせて龍樹は執筆を始める。
原動力はただひとつ……。
瞼の裏に、一度として褪せたことのない、幼い日のハルカの姿を浮かべる。
『……わたし……生きるよ……』
涙を流して呟いたハルカの姿が、作家──星樹に、一文一文、切実な思いを紡がせていく。
──遠くの……誰か……。その誰かにも届く「救い」の物語を……!
秤アキラから、クルスとハルカが似ている言われて、龍樹の目が醒めた。
ハルカの心に「鍵をなくした妖精」が響いた理由……。
それはもしかしたらハルカがクルスに心を重ねた結果だったのではないか。
──ハルカだけじゃない。
夏樹も、キースも、自分の心の影をクルスと重ねたのではないか。
物語の主人公のひとり──クルスは孤独を抱えた妖精だ。
消えて無くなりたい思うほどに、生きることに困難さを感じ、愛されない哀しみ抱えていた。
しかし人間の冒険者のレインと出会い、彼の温かさに触れて希望を持つことが出来た。
物語の最後に、クルスは妖精の世界に帰っていく。
だが、そこにはクルスの唯一の理解者であるレインはいないのだ。
──クルスにとって、それは本当の望みだっただろうか。一人きりで、また挫けそうになる心を抱えて、生きていくのだろうか。
(クルスの心にはレインがいる。レインもクルスの事を絶対忘れたりはしない!)
たとえ遠く離れていても、お互いを守りたいという想いは大きな心の支えになる。
龍樹も同じだ。
たとえ自分の想いが通じなくとも、近くにいることはできなくとも、ハルカの幸せを心から願っている。
そしてその為に自分に出来ることがあるのなら、何でもしたいと──。
だから、龍樹は書き始めた。
「鍵をなくした妖精」の、真実のハッピーエンドの物語を。
クルスとレイン、二人の絆が奇跡をおこし、新たに創り出される世界の物語を。
これからハルカが歩む未来のために──。
『土曜日、十三時。駅でハルカちゃんが待ってる』
渉がハルカに約束を取り付けてくれた。
一足先に、渉は自分の想いに決着を付けるため岟里に会いに行った。
渉の想いは遂げられることが無いと最初からわかっていた。だから帰ってきた渉に会った時、どこか吹っ切れた様子が、逆に痛々しくも見えた。
(ずっと想ってきたんだ。平気ではいられない……)
──それだけじゃない……。
『ハルカちゃんは家族のなかにいても、自分が大切にされてないと感じてるようだった』
渉から聞いたハルカの状況に、龍樹は言葉を失う。
すぐにでもハルカの元へ行って、連れ去りたい衝動に駆られた。
しかし、それでは駄目だ。
ハルカが自分で立ち上がり、幸せを掴まなければ……。
そしてそのために、龍樹は今、物語を書いているのだ。
全身全霊をこめて、龍樹は物語を紡ぐ。
時間はもう無い。ハルカのために、龍樹は寝る間も惜しみ書き続けた。
──約束の土曜日。
黎明をむかえた頃、龍樹は、最後の一節を書き終えた。
(……間に合った……)
推敲はしている余裕はない。おかしい箇所もあるだろう。
でも、伝えたいことは全て込めている……!
(これで、やっと、ハルカに会える!)
一睡もしていないのに龍樹の心は昂っていた。
原稿をプリントアウトしている間にシャワーを浴びる。
始発の新幹線に乗る予定だった。新幹線を降りた後も、何度か乗り継ぎをしなければいけない。
順調に行けばいいが……。
新幹線に乗るとすぐに微睡みに誘われて、龍樹は目を閉じる。
(あの時から、ずっとここまで……旅でもしてきたかのようだ……)
龍樹は思う。
目的地に向かって真っ直ぐ伸びているこの線路のように、遠い昔からハルカの事を想い続けていたのだと……。
そして今日が「果て」だ。過去から続いた想いの終着の日だ。
龍樹の想いをこめた物語を届けて、それで全てが終わる。
(もうすぐ、ハルカに会えるんだ……)
龍樹は深い眠りに落ちていった。
乗り継ぎで迷うこともなく、予定よりも早い時刻に龍樹は目的地に降り立つ。
(静かだな……)
はじめて訪れた場所。田舎特有の静寂さがここにはあった。
空間を埋める音の少なさ、駅の待合室に佇む人たちも、息をひそめるようにじっとしている。
まるでここだけ時が止まっているかのような錯覚を龍樹は覚えた。
さらに、駅の正面口から外に出た瞬間、独特の香りに包まれる。
(海が近いのか……)
柔らかく撫ぜていく風に、潮の香りが混じっている。
ぱらぱらと通り雨が降っていて、アスファルトの地面が濃い灰色に染められていく。
龍樹は懐かしい気持ちになった。
ここは家族と一緒に住んでいたアメリカの田舎町を想起させる。
──海の匂い。ひっそりと息づく生命の気配や、寂れて、長い年月を重ねた建物。
龍樹の住んでいた街も、小さくて、手付かずの自然が豊かだった。
目を閉じて、潮の香りを胸いっぱいに吸い込む。
この場所で、ハルカは今を生きている……。
そう考えるだけで、この街が特別なものに変わっていく気がした。
息を吐いて目を開けると、柔らかな午後の光が視界に溢れてくる。
そして見つめた光の向こう……雨粒が光を帯びて流星のように降り注ぐ先に──ハルカがいた。
龍樹は驚いて、目を瞠る。
「ハルカ──!」
ハルカもまた、目を何度も瞬き、龍樹を見つめている。
「……っ、龍樹くん……!」
名前を呼ばれて龍樹の胸はいっきに熱くなる。
──ハルカが駆けてくる。
龍樹も吸い寄せられるように、ハルカに近づいていく。
(やっと、会えた……!)
湧き上がってきた喜びに身の内が揺さぶられる。
龍樹はこの瞬間、自分の身体のなかに宿る魂の在り処を、はっきりと感じた。全身の細胞のひとつひとつが、魂に呼応し歓喜に震えている。
「龍樹くん──」
手を伸ばせば簡単に触れられるくらいの距離にハルカがいる。何度も愛しいと思った輪郭がすぐぞばにある。
離れていた時間の喪失が充たされていくのが分かった。
距離が近づきそれぞれの纏う空気が触れ合い、溶け合っていく。
再会した二人を海風が優しく包んでいった。