同じ空の下、二人が想うこと⑥
土曜日──。
週末だというのに、定之は忙しいようで、今日も仕事に出掛けていった。
「十三時に駅……」
ハルカもまた、約束の時間に間に合うように、いつもより早く家を出て岟里のもとへ向かう。
病室に着くと、岟里の隣にいた患者が退院したのか、閉められていたカーテンは開放されベッドも空になっていた。
「……お母さん、起きてる?」
静かにカーテンを開けると、岟里が驚いた表情でハルカを見上げる。
「今日はずいぶん早いのね」
「うん。午後から用事があるから」
「……そう」
岟里はいつも通りそっけない返事をする。
ハルカもいつものように、着替えや洗濯したタオルなどを戸棚に仕舞おうとする。
──だが、そこで気付く。
(無い! 確かにここに置いて帰ったのに!)
戸棚の上に置いていたハルカの本が見当たらない。
何冊か置いていったうちの一冊……。
それもハルカが一番大切にしている、龍樹から貰った「鍵をなくした妖精」の絵本が無くなっている。
「お母さん、私の絵本どこにいったか知らない?」
ハルカは青くなって、岟里に問う。
「……あげたわよ」
「──え?」
一瞬、岟里が何を言ったのか理解できなかった。
「隣の奥さんが今日退院したの。小さな子供も来ていたからお世話になったし、あげたのよ。いいじゃない、あんなもの。大人が持ってたって恥ずかしいだけでしょ」
「そんな……」
ハルカは愕然とする。
(だってあの絵本は、私にとって大切な……!)
頭の中が真っ白になって、怒りが思考を突き破る──
「あげたって、そんな勝手なことしないでよ!」
「大きな声出さないでっ! 迷惑でしょ!」
岟里が思い切り顔を顰めて、ハルカを睨む。
「あの本は、私にとって大切なものだったの!」
悔しさに涙が滲んできた……。
あの絵本は、龍樹から貰ったものだ。
幼いハルカの心を支えた、「鍵をなくした妖精」の絵本──。
(こんなことになるなら、置いていくんじゃなかった!)
──岟里のことを信用するんじゃなかった。
「たかが、本くらいで……なによっ」
岟里が吐き捨てるように言う。
「大切だって言うけど、お金で買えるものでしょ。アタシはね、大切な者のそばにいることすら許されなかったのよ。それにくらべ……アンタは自由じゃないの」
「──自由? ……そんなことない!」
ハルカは頭を振って、岟里の言葉を否定する。
(私は、自由じゃなかった!)
自由……。
そんなものは幼い頃から無かった。
ハルカはいつも肩身の狭い思いをしていた。
ボロボロの服を着て、遊ぶのはお金がかかるから出来なかった。だから、友達もいなかった。
学校では、いじめられる事はなかったが、いつも白い目で見られていた。
(いつも……みんなが、羨ましかった……)
そんな気持ちを話せる相手も、ハルカの心に寄り添ってくれる人も、誰もいなかった。
「私には自由なんて無かった! いつもいつも必死で……ただ目の前の事をどうにかするしかなくて。お母さんは助けてくれなかったじゃないっ! いつも自分のことばかり!」
「…………」
──そうだ。岟里はハルカの事を助けてはくれない。
それどころか、ハルカの生活、時間、お金までも搾取していく。そしてそれを親だからと、当たり前のようにしているのだ。
(もう……疲れた……)
ハルカの頬に涙が伝った。
「…………」
目を背け、ハルカと向き合おうとしない岟里。もしかしたら、彼女は彼女で何か思うことがあるかもしれない。
けれど岟里は何も語らない。それがハルカを苦しめる。
「結局、私のことはどうでもいいんでしょ……?」
諦め時かもしれない。
もう何年も変わらない関係が、これから変容するとも思えない。
ハルカは荷物を整えると、病室をあとにした。
約束の十三時には少し早いが、駅に向かうことにする。
外に出ると、強い海風に混じって雨粒がハルカの頬を叩いた。
空は幾分、明るさを保っているから、すぐに晴れるだろう……。
もくもくと歩き続け、小さな駅舎が見えてきたところで、ハルカは立ち止まる。
「もしかして──!」
十三時にはまだ早い時刻。
田舎の小さな駅の正面入り口に、ハルカがよく知る人物が立っていた。
──細身だが、男性特有のしっかりした身体のシルエット。
風に揺れる、短かめの黒い髪の毛。
口元は引き締まり、それが誠実な彼の人柄を表している。
そしてハルカを見つめる、優しくて穏やかな黒い瞳──
「ハルカ──!」
「……っ、龍樹くん……!」
龍樹の声が聞こえた時には、既にハルカは駆けていた。
風は止み、雲間から太陽が顔を出す。まばらな雨粒が反射しキラキラとした輝きが空間を彩っていく。
ハルカの心にも、一筋の光が射した。
(ずっと、ずっと……会いたかった……)
龍樹の物語を失ったハルカの前に、今、龍樹本人が現れた。
ハルカは自分の胸が、どうしようもなく熱くなるのを感じていた。