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同じ空の下、二人が想うこと③

  目が覚めた時、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくて戸惑う。


(──そうだ。私、お父さんの家に来たんだった……)


 頭の中で、今の自分が置かれている状況を整理して、ハルカは身体を起こす。

 枕元では毎朝六時に設定しているスマートフォンのアラームが鳴り続けていた。

 アラームを止めて、ハルカは半身を起こしたまま、しばらくぼんやりとする。

 視界にうつる部屋の風景も匂いも、慣れ親しんでいたものと違っていて、目覚めた時に感じる違和感はもうすぐ一ヶ月が経とうとしているのに、なかなか消えてくれない。


「起きたら朝ごはんの支度をして、洗濯をして、お母さんのところに行って、帰ってきたら夜ごはんを作って……あ、今日はお父さんは会合? で夕飯はいらないんだっけ……」


 ハルカはブツブツと今日のスケジュールを呟きながら起き上がり、まず布団を畳んでいく。

 それから部屋の窓を全開にして、朝の新鮮な空気を室内に取り込んでいく。


 ──夏も終わりだ。


 今日はいつもより、風に混じった潮の香りが濃く感じられた。

 ハルカが今住んでいる街は海に面している。自然が溢れていて、隣町に行くためには山を越えなければいけいほどだ。


 東京から離れ、東北の静かな街に引っ越して来てからハルカは自然の美しさを知った。

 遠くの山々の緑の鮮やかさや、空気を伝ってこだまする虫の声や、満天の星空、それに雨の匂いも……。どれもテレビの中や、本の中でしか知り得なかった世界だった。

 今日は天気は良いが、低気圧が近づいたときは部屋の中まで海鳴りが響いてくることもあった。


 ハルカは着替えを済ませてから部屋を出ると、階段を使って一階へ降りる。

 ここはハルカの父──定之(さだゆき)の家。年季の入った二階建ての木造住宅で、階段は踏みしめるたびに軋んだ音を立てる。

 使われておらず物置になっていた部屋を、ハルカは寝起きする自室にして暮らしていた。

 定之の書斎や寝室は一階にある。

 広い家で定之は一人で暮らしていた。もともとは両親と一緒に住んでいたようだ。しかし他界してしまい、独身で兄弟もいない定之は一人でこの家を継いだ。

 仏壇には亡くなった、定之の父と、母の写真が飾ってあった。

 ハルカにとっては、おじいちゃんと、おばあちゃんだ。

 しかし話したこともない人の姿は、ハルカにとってはいくら血をわけているとはいえ、情は湧いてこない。

 それどころか、この家に染み付くように残っている「この人達」の面影が、ハルカに居心地の悪さを与えていた。


「さ、お味噌汁からつくろうかな……」


 ハルカはキッチンに立つと二人分の朝食を作る。

 自分と定之の分だ。岟里は病院に入院しているから、ハルカは定之と二人で食卓を囲んでいる。

 冷蔵庫から大根を取り出し、食べやすいように細く切っていく。

 手に持つ包丁も、きっとハルカの「おばあちゃん」が使っていたものだ。

 鍋も、フライパンも、皿も、箸も……この家のものすべて、借り物を扱っているようで、ハルカは落ち着かなかった。

 少し経てば慣れるだろうと思っていたが、いつも誰かの影が付き纏っているように思えて、馴染んでいく気配がない。

 ──しかし新しいものを買い揃えたいとは言えなかった。

 金銭的にこれ以上迷惑をかけるわけにいかないし、何より、この家の采配をする権利がハルカには無いように思われた。

 それは定之か、定之とこれから正式に結婚する岟里が決めるべきことだろう。


「おはよう。ハルカちゃん」


 定之が新聞を片手にダイニングルームにやってきた。


「おはようございます。朝ごはん、できてますよ」


「……ああ、いつも悪いね」


「いえ、これくらいしか私にはできないので」


 ──申し訳無いと思う。

 定之は岟里のつくった借金の返済、入院にかかる費用や、ハルカも含めた生活にかかる金銭の負担を全て引き受けてくれた。


(お母さんが退院したら、私も働かなくちゃ……)


 今のハルカは家事全般と、入院している岟里の世話をすることに時間を費やしていた。岟里が無事に退院したらすぐにでも就職して、定之にかけしまった負担分を少しずつでも返していきたいと思っていた。


「今日は遅くなるから岟里ところに行けないな。岟里に、明日は必ず行くと伝えておいてくれないか?」


「分かりました」


 朝食の時間も夕食の時間も、定之との会話は岟里のことが中心だった。


「そういえば、岟里の好きな食べ物はなんだろう?」


「お母さんは、好き嫌いはあまり無いように思います。ただ油っこいものよりは、さっぱりしたものを摂るようにしてますね。フルーツとかは……よく食べてますね。美容に気をつけてる人だから……」


「そうか、フルーツか。岟里は今でも綺麗だからな……」


 嬉しそうに定之が微笑む。

 そんな姿を見るたび、岟里のことを本当に愛しているのだと伝わってくる。

 もう何年も離れていたというのに、変わらない愛情がここにはあった。それがどんなに素晴らしいことか、少し前のハルカは二人の間にある愛情に胸を打たれた。

 しかし最近になって、ほの暗い思いがハルカの中に芽生えてきた。


(──まるで、私のことは見えてないみたい……)


 定之は優しい。

 けれどもその優しさは岟里がいるからこそなのだ。

 ハルカ自身に興味を持つことは一切無かった。

 岟里の好きなことには関心を示す。だが、ハルカの事には一つも触れようとしなかった。

 ──それは岟里も同じだった。


(これが普通……じゃ、ないよね?)


 朝食が終わると、定之は仕事に行き、ハルカはひとり片付けをしていた。

 考えごとをしていたせいか、手を滑らせて洗っていたコップを落としてしまう。

 ガラス製のコップは、床にぶつかり派手に音を立てて割れてしまう。


「後で、謝らないと……」


 ハルカは慎重にガラスの破片を集めはじめる。

 元の原型から変わり果てた姿のコップは、鋭くて冷たい凶器にしか見えなかった。


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