同じ空の下、二人が想うこと②
「深山さんすみません。──ちょっと聞こえづらいです」
『ごめんなさいね。食事をしにきていたから……外にいて』
アカリの声に騒々しいノイズが混じって聞こえる。
「奇遇ですね……、僕も今、知り合いのお店で飲んでるんです……」
『え、そうなの? あ、ちょっと待ってて……』
「ああ、はい。大丈夫ですよ」
アカリが誰かと会話しているようだ。
龍樹の隣で渉が「女から電話か?」と言って、にやりと笑う。
「……確かに女ですけど、ハルカが働いていた出版社の人で、俺の担当編集なんで……」
「ああ。ハルカちゃんから聞いた気がする。話したいなら呼べばいいんじゃね?」
そこでふたたび、アカリが龍樹に話しかけてくる。
『星樹くん、実は貴方に会わせたい人がいるのよ』
「──俺に会わせたい人?」
『ふふ。驚くわよ。今一緒にいるの。星樹くんもきっと会いたいって言うと思うわ!』
電話越しのアカリの声が弾んでいる。
(俺も会いたい人? そんな人いたかな……)
ふと頭に浮かんだのはハルカだった。しかしアカリが言っているのは、きっと違う人物だ。
『貴方に会わせたいのは、秤アキラ先生よ──』
「──……!」
秤アキラ。
アキラという名前だが、女性だ。
国内外で有名なイラストレーターであり、絵本作家だ。数年前に舞台演出家の男性と結婚している。
そして何より……龍樹が書いた「鍵をなくした妖精」に命を吹き込み「星樹」という作家の誕生に関わりが深い人物。
当時、秤アキラと顔合わせの予定もあったのだが、ちょうど夏樹の具合が悪くなったため会うことができなかった。それきり、龍樹は一度も秤アキラと対面する機会が無かった。
「──……会いたい、です……!」
『今からそっちへ行くわ! 秤先生も、ずっと会いたがっていたのよ』
アカリが言った。きっとアカリは、龍樹のために秤アキラと会っていたのだろう。
──龍樹がこれから書こうとしている物語に、秤アキラは必要な人物だから。
頭が下がる思いがした。
「じゃ、おもてなしの準備でもしますか……」
渉が立ち上がり、カウンターキッチンの中に入っていく。その表情はどこか嬉しそうに見えた。
「急ですみません。……有難うございます」
「気にすんな。この仕事をしてるとな、毎日目の前でドラマのような事が起こるんだ。良いことも、悲しいこともな。俺はさ、そんなお客の心にぴったりのアルコールを出すんだ。ちょっとでも綺麗な思い出になるように……それが俺の趣味でもあり、仕事なわけ」
「なんか。──かっこいいですね」
「だろ? 俺はイイ男なんだ。だから岟里さんの事も、俺は絶対に泣かせたりしない!」
渉の言葉に、龍樹もつられるように頷いた。
「はじめまして。星樹です」
「秤アキラです。ずっと、会いたいと思ってましたよ、星樹先生……」
「僕もです。まず伝えさせてください。「鍵をなくした妖精」を描いてくださり、本当に有難うございます」
龍樹は深く、深く頭を下げた。
初めて会った秤アキラは、想像よりずっと若く見える女性だった。
小柄で、ふんわりとしていて、まるで彼女自身が絵本のなかの住人のように透明感があり、純真さを孕んだ瞳が神秘的に見えた。
「星樹先生、そんなっ頭をあげてください!」
慌てる姿ですら可愛らしく見える。
渉にすすめられ、龍樹とアカリ、秤アキラは広々としたテーブル席に腰を落ち着け、話し始めた。
「──さっそくだけど星樹くん、「鍵エルフ」の小説のイラスト、秤先生が描いてくれると仰ってくれたわ!」
「本当ですか?」
龍樹は、そこまで話が進んでいたのかと驚く。てっきり交渉自体、これからだと思っていた。
作家としての認知度を上げなければ、「鍵をなくした妖精」の小説は売れないと言われていたし、そのためには次の新作を成功させる必要がある。その新作の執筆も、始まったばかりだから、まだ先の事だと思っていた。
しかし龍樹の知らないところで、既にアカリは動いていてくれたのだ。
「はい。全力で描かせてもらいます。これでやっと貴方に恩返しができます」
「恩返し……ですか?」
「星樹先生、私は貴方にずっと謝りたかったんです。「鍵をなくした妖精」は貴方の物語なのに、結果的に私ばかりが注目されてしまった」
「それは、秤先生が謝るようなことでは……」
結果的にはそうだったかもしれない。けれど、すべては秤アキラの実力があったからだ。
「僕はあの時、幼い子供で……作家になろうなんて少しも思っていなかったんです。そんな力も無かったし。弟の為にだけ書いた物語だったんです。それを見た叔父が企画して、秤先生に持って行っただけで……」
「はい。あの物語に出会ったことで、私の人生が変わりました」
「──それを言うなら、秤先生があの絵本を描いてくれたから……」
秤アキラでなければ、あの美しい絵本は生まれていなかっただろう。他の誰かが真似できるようなものじゃない。
──そう……だからきっと、ハルカも手に取ったんだ。
あの美しく幻想的で、魂が宿っているかのような温かさに、きっと魅かれずにはいられなかったはず。
そしてハルカの涙が無ければ、龍樹は作家になろうとは思わなかった。だから──。
「あの絵本を読んだ女の子がいました。その女の子は「鍵をなくした妖精」を読んで、頑張って生きようと決意をしてくれたんです。今も、僕にとって大切な女性です」
「──……あの絵本を、見て……?」
「僕はその姿を見て作家になると決めました。だから秤先生に感謝してます。秤先生がいなかったら、僕も、ハルカも、きっと大事なものを失っていた気がするから……」
「……星樹くん」
二人の会話を聞いていたアカリの声が涙に濡れていた。
アカリは長年、龍樹を見守ってきた。そしてハルカを妹のように可愛がっていた。だから余計に色々と感じてしまっただろう。
渉が何も言わず、そっとアカリにハンカチを差し出す。
「星樹先生、その女性は今は……?」
「ハルカは、自分の行くべきところへ行ってしまいました。もう、会うことも無いかもしれません」
「そうでしたか。まるで、クルスのようですね……」
秤アキラの言葉に、龍樹は息をのむ。
クルスは「鍵をなくした妖精」の主人公のひとりだ。
「クルスも、無事に大切な鍵は取り戻しましたけど、妖精の国に帰ってしまいましたよね? 自分の役割を果たすためにたった一人で……似ていると思いませんか?」
ふいに、ハルカの言葉が蘇る。
『ねえ、龍樹くん。クルスは妖精の国に帰ったけれど、一人きりで心細くなかったかな? ちゃんと幸せになれたのかな──?』
そう言った時のハルカは、少し寂しげに見えた。
(本当のクルスの幸せは、鍵を取り戻すことでも、妖精の世界へ帰ることでもなかったんだ……)
ハルカの言葉があったから、龍樹はレインとクルスの物語をもう一度書こうと思った。
物語の構想は完成している。
──今度こそ、真のハッピーエンドにするために。
しかし秤アキラの言葉に、龍樹の心はさらに揺さぶられた。
「──もしもハルカが、クルス同じだと言うなら……俺はまだハルカのために出来ることがあるかもしれない」
漏れ出てしまった龍樹の呟きに、その場にいた全員が強く頷いた。
「星樹先生、これを──」
秤アキラがバッグから一枚の色紙を出し、龍樹に手渡す。
そこには美しいイラストが描かれていた。
──レインとクルスが笑顔で手を取り合っている。そして二人の後ろには、雨上がりに輝く虹が描かれていた。
見ているだけで、レインとクルスの幸せな気持ちが伝わってくる。
「今までのお詫びと感謝の気持ちです。そして……星樹先生の物語が、想いが、ちゃんと届きますように。──一緒に頑張りましょう!」
「秤先生、有難うございます! どうかよろしくお願いします!」
「良かったわね、星樹くん!」
瞳を潤ませたまま、アカリが笑顔で言った。
「此処にいる全員の幸せを祈って、乾杯しようぜ──」
何も言わず見守っていた渉も、ワイングラスを並べ始めた。
──龍樹は決心をする。
(俺は書く、ハルカのために! そして俺を見守ってくれる人達のために!)
その夜。
眠りについた龍樹は、微睡みの向こうでハルカの姿を見た。
ハルカは背を向けていて、どんな表情をしているのか分からなかった。
龍樹はハルカの名前を呼んで手を伸ばすが、ハルカが振り向くことは無かった。
ハルカはただ海辺に佇み、吹いてくる風に冷たさを感じているのか、小さな肩を震わせていた。