同じ空の下、二人が想うこと①
龍樹は、日々を、ただ繰り返すように過ごしていく。
決まった時間に目覚め、汗ばんだシーツを洗濯している間にシャワーを浴び、簡単な朝食を摂る。
それから仕事部屋にこもり、パソコンに向かいあう。
昼過ぎに休憩をはさみ、昼食をとって、コーヒーを飲みながら夕方までまた仕事をする。
定めた目標をクリアするまで休むことなく頭を回転させ、今の自分が最高だ思える一文を書き上げていく。
今日の分を終えたら明日の目標を立て、龍樹はやっと仕事部屋から解放される。
「──……」
部屋を出たとたん、心に潜んでいた哀しさなのか寂しさなのか──入り混じって形容しがたい感情と、龍樹は向き合わなければならなくなる。
(──ハルカ……)
心の中で呟くと、胸が詰まったように苦しくなった。
ハルカはもう、この街にはいない。
龍樹が見たことも行ったこともない場所に行ってしまった。
──もしかしたら、もう会うこともないかもしれない……。
もともと、海外に引っ越した時から、ハルカと再会して交流を持つことなんて考えもしなかったのに。今はなんだか、置いていかれたような気持ちだった。
──ハルカのことが好きだ。
こんなに苦しいのはきっと、好きという気持ちがあるからだ。
(この想いは、いつか消えてしまったりするんだろうか……)
それとも死ぬまでずっとハルカの事を思い出しながら、自分は生き続けていくのだろうか。
未来が想像できなかった。
──自分の想いより、ハルカの幸せを願っている……これは、嘘じゃない。
岟里が無事で良かった。
それに定之も真面目で良い人そうだった。
きっとハルカの事を大切にしてくれるはずだ。
──ハッピーエンドのはずなのに……。
龍樹の心は靄がかかったように、すっきりしなかった。
龍樹はリビングのソファに、力無く身体を預け、ぼんやりとしていた。
(あー……、なんだか、動くのも面倒だな……)
自嘲するように溜息をつき、目を閉じる。
呼吸を繰り返しているうちに、龍樹は眠りにおちていった。
どれくらいそうしていたのか……。スマートフォンの着信音が静かな部屋に鳴り響いて、龍樹は覚醒する。
室内は真っ暗で、デジタル時計の時刻と、スマートフォンのライトが浮かびあがるように光っている。
もう、二十一時をまわっていることに龍樹は驚きながら、急いでスマートフォンを手に取る。
着信の相手は、渉だった──。
龍樹と渉は、ハルカのアパートで会った日から、電話でのやり取りを数回していた。
「もしもし?」
『あ、星樹さん。……急にすいません。今、電話して平気?』
「平気……ですけど?」
龍樹は通話をしながら立ち上がって、部屋の明かりをつける。
『実は店が暇過ぎて、今日はもうクローズするんだけど、誰かと話したい気分でさ……。星樹さんが良かったら、うちに飲みにこない?』
電話越しの渉の声は明るかった。
けれど……それが本心でないことを龍樹は知っている。
(きっと渉さんも、俺と同じなんだ……)
渉は岟里に好意を寄せていた。
しかし、その愛する人は遠くに行ってしまった。お別れも言えないまま……。そのせいで、渉は自分の気持ちの遣り場が無いのだ。
そんなモヤモヤした感情に絡め取られて苦しい気持ちを、龍樹はよく理解できた。
「──いいですよ。ちょうどお腹もすいてたんで……。お店の場所、地図もらえますか? 今から支度して向かいます」
『わかった。……待ってるな』
通話を切って、数分のうちに、渉から店の住所と地図が送られてくる。
龍樹の住んでいるマンションから、少し距離はあるが、すごく遠いわけでもない。
タクシーを拾えば、今から一時間以内には着けるだろう。
龍樹は顔を洗い、着替えを始めた。
「──いらっしゃい! さ……こっち座って。俺以外、誰もいないから気楽にしていいぜ」
クローズのプレートがさがった扉を開け中に入ると、カウンター席に座っていた渉が手をあげて、龍樹に声をかけてくる。
「こんばんは。雰囲気いいお店ですね」
「だろだろ。こじんまりしてるけど、酒は美味いし、いい女は来るし、もう最高っ!」
グラスごと手を掲げた渉は、既にすこし酔っていそうだ。
天井から注ぐ淡い照明。
あたたかみのある木製のカウンター。テーブルや椅子は見たこともない曲線がかたどられていて、デザイナーズブランドものもか、もしくは特注したものだろうか。ハイセンスな感じがする。
流れている音楽も、ほどよく重低音がきいていて、大人が落ち着ける空間だ。
龍樹は渉に倣い、カウンター席に腰を落ち着けた。
「──あ、水割りでいい?」
慣れた手つきでグラスに氷をいれる渉の横顔を見る。
淡い照明とグラスにいれた氷が反射し、渉の顔に陰影をもたらす。俯いた表情は、どこか……長く旅を続けてきた者のように、疲れて見えた。
「星樹さん、最近どう?」
はい、とグラスを龍樹の前に置いてから、渉が言った。
「相変わらずです。毎日、仕事漬けですよ……」
龍樹の口からは当たり障りのない言葉が出た。
「ふうん……」
「渉さんは? 最近どうなんですか?」
「俺はさ、」
グラスを傾けてウィスキーを一口流し込んだ後、渉が言った。
「俺は岟里さんがいなくなってから、世界が色を失ったようにつまんなくなっちまった。心ん中が空っぽみたいになってさ。……で、そこを埋めたいのに、埋めたくない……みたいな?」
口調は軽いが、表情は苦くて、痛々しい。
(わかる気がする……)
「まだ好きだし、好きでいたい……ってことですよね……」
岟里は定之を選んだ。渉はそれを知っているし納得もしていた。けれど……心は別だ。
忘れなきゃいけないと思うたび、岟里を思い出してしまうだろう。
──龍樹も同じだ。
遠くへいってしまったハルカを想い続けている。ハルカのことは大切だ。龍樹の人生を変えたのだから。けれど……どこかでちゃんと思い出にして、龍樹は龍樹の人生を歩んでいかなければいけない。
(それでも、まだ今はハルカのことを想いつづけていたいと、俺は願ってる……)
「星樹さんは、どうなの? ハルカちゃんのこと……どう思ってた?」
「俺は、告白して、振られました……」
「え、──マジで?」
「マジですよ」
龍樹はグラスを傾けて、ウィスキーを半分ほど飲み干した。
喉元を過ぎてしばらくすると、胃のあたりがカッと熱くなっていく。
そういえば夕方に食べたきり、コーヒー以外を口にしていなかった。龍樹は、酒のつまみで用意されていたナッツを一つ口に放り込んだ。
「なんか信じられないな……」
渉の呟きに、龍樹は首を傾げる。
「何が?」
「ハルカちゃん彼氏がいたわけじゃないし。それに星樹さんの本の話をしてるときのハルカちゃんは、なんかすごく幸せそうな顔しててさ……」
「それは俺の書いた物語が好みだっただけで、俺の事じゃないから」
「そうか? 告白した時、ハルカちゃんになんて言われたんだ?」
「ごめん、と、一言……」
「…………」
かける言葉も見つからない……そんな渉の表情を見て、龍樹は苦笑いする。
「でも伝えて良かったと思ってますよ。──だって、「愛されない」ってハルカが言うから。そんな事ないって、ちゃんとキミを見てる人もいるんだって、そう伝えたかったから」
「後悔は、してないんだな?」
「もちろん。──後悔なんてありません」
きっぱりと龍樹は言う。
渉は「そっか……」と呟きながら、龍樹のグラスを引き寄せ、ウィスキーを注いでいく。
氷とグラスがぶつかりあってカラカラと軽い音が響いた。
「……じゃあ、俺も、当たって砕けてみるか……」
「え? ……まさか」
驚いて渉を見ると、どこか吹っ切れたような表情をしていた。
渉の瞳に淡い照明の光が浮かんでいる。龍樹には、まるでそれが暗闇の中に瞬く星のように見えた。
いつか賢二が言っていた言葉を思い出す。
──「星」には希望の意味もあると……。
道標となる星を見つけ、ふたたび歩き出す旅人の姿を龍樹は渉に重ねた。
「岟里さんが幸せでいるならそれでいいと心の底から思ってる。──だからこそ俺は見届けなくちゃいけないとも思う。岟里さんが少しでも寂しそうなら、俺は岟里さんを取り返してくる……!」
渉の真っ直ぐな想いに、龍樹は目が醒める心地がした。
──龍樹もハルカが幸せになることを望んでいる。
けれど今の自分は喪失感に苛まれるだけで、ハルカの幸せのために何も出来ていない。
だから、見届けると言った渉の言葉が心に刺さった。
「──星樹さんは、このままでいいわけ?」
「え……?」
「ハルカちゃんのこと。ハルカちゃんは岟里さんとは違う。岟里さんには前から忘れられない好きな奴がいるのを俺は知ってた。けど……ハルカちゃんは違うだろ? あの子はいつも寂しそうだった。そして、そんな気持ちを星樹さんだけには打ち明けたんだ。それに自分が愛されないと思ってた人間が、愛していると伝えたところで、すぐに信じられると思うか──?」
「それは……」
「俺だったら、まず疑っちまうな」
──そうだ。ハルカは泣いていた。
龍樹が「前から好きだった」と伝えても、寂しそうな様子は変わらなかった。
(生まれてこなきゃ良かった……そう、言ってたよな……)
ハルカは生まれてからずっと苦しんでいたのではないか──。
幼い頃に龍樹が書いた物語に縋ってしまうほど、ハルカの心はずっと……あの日のような冷たい雨に降られたまま、傘をさしだす者も、温めてくれる者もいないまま、ずっと孤独を感じていたのではないか……。
──だとしたら、今のハルカは幸せだろうか……。
酒を飲んでいるはずなのに、龍樹の意識はクリアになっていく。
ハルカは今家族と一緒にいる。実の父親とも会えた。生活だって楽になるだろう。
けれど──これで、ハルカの心は救われたのだろうか。
何故かこのままではいけないような気がした……。
「もしかしたら、ハルカはまだ、」
心に浮かんだ言葉を口にしようとしたとき、パンツの後ろポケットに差し込んでいたスマートフォンが振動した。
深山アカリからの着信だった。