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序章 君がくれた夢②

 二時間ほどで取材は終わった。

 小金井は「今日は、貴重なお話が聞けました」と、満足げな様子で帰っていった。


 星樹(セイジュ)──本名、保志(ほし)龍樹(たつき)は、自身の担当編集の深山(みやま)アカリに挨拶をしてから、出版社を後にする。


 ──暑い……


 初夏の太陽が天頂で眩しく光を放ち、地上をジリジリと焦がしている。気温はとうに三十度を超えているだろう。

 龍樹は着ていた紺色(ネイビー)のコットン素材のジャケットを脱いで手に持つと、陽射しを避けるようにビルの影を歩き出した。

 ──まだ自分の鼓動が早い。

 小金井と話しをしているうちに、龍樹は大切にしている思い出の蓋を、つい開けてしまった。


(誰にも、話すつもりなかったんだけどな……)


 いったん漏れ出てしまった熱は、ちょうどこんな──夏の太陽を浴びた時のように、胸の奥をジリジリと焦がしていく。

 ビル街の隙間を縫うように、少し湿った風が吹き抜けていく。

 龍樹の脳裏に、鮮明に残る思い出がまた浮かび上がる。


 ──あの日も、確か、こんな夏のはじまりだった……




 あの日──龍樹の小学五年の夏の始まり。

 学校の帰り道を一人で歩いていると、強く叩きつけるような風が一瞬吹いてきて、驚いた龍樹は空を仰いだ。

 風にのって、いくつかの濃い灰色の雲が流れてきたと思ったら、ボタボタと大きな雨粒が落ちてきた。それでも太陽の光は完全に遮られていないし、灰色の雲の隙間からは澄んだ青空がのぞいて見えたから、これは通り雨だ……と思った。

 傘を持っていなかった龍樹は、慌てて小さな本屋に飛び込む。


(ウチまであと少しだったのに、ツイてないな……)


 叔父から買ってもらったばかりの新品のスニーカーの爪先が少し濡れていて、そこだけ布地の色が変色している。

 がっかりしながら、龍樹は児童書が置いてある本棚(コーナー)に向かう。

 この本屋は小さい──なのに書籍の量は多い。

 そして、本棚と本棚の間はかなり狭くて、人が一人やっと通れるくらいの幅しかなかった。

 龍樹の他にも学生が何人かいた。皆、雨宿りが目的かもしれない。この小さい本屋の人口密度がいつもより高いのだ。

 龍樹はこの本屋の常連客だった。

 ここでいつも、漫画本やファンタジー小説を買う。

 とくに買いたいものが無い時でも、よく足を運んでいた。

 本の一冊一冊が、異なる世界の入り口のようだと龍樹は思う。

 本を手に取り表紙を開く瞬間は、いつだって胸がいっぱいになった。

 ──本さえあれば、知らない場所にだって簡単に行ける……

 龍樹の弟は生まれつき身体が弱く入退院を繰り返していたし、母はそんな弟の看病とパートタイムの仕事で毎日忙しい。父は天文学者で研究に没頭していた。

 だから龍樹は、旅行など行ったことがない。

 家族旅行が恒例となっている同級生たちを見て羨ましいと思うことはあったが、不思議と、不満な気持ちは芽生えなかった。

 ──だって、本を開けば、そこには未知の世界が広がっている。

 龍樹にとって「本」は心を弾ませる「自由」への扉そのものだった。

 ふと、足を止める。

 目的の児童書の本棚のとなり──絵本が並んである本棚の前に、ランドセルを背負った女子が立っていた。

 その女子を龍樹は知っていた。


(隣のクラスの、都築(つづき)ハルカだ……)


 色白で、細っこくて、影が薄い。母子家庭で、貧乏で、噂では母親が夜の仕事をしているとか……。

 家は近いがクラスが違うから、龍樹はあまり話したことはない。

 けれど……同じクラスにいる、強気で、男っぽい言葉遣いで話す女子とくらべ、都築ハルカは「おしとやか」で女の子らしさがあった。顔立ちも、目がくりっと丸くて可愛く見える。

 だが今は──その可愛らしい瞳も、手元の絵本に釘付けになっているようだった。


(なに読んでるんだろ?)


 さりげなく視線を滑らせて、ハルカが呼んでいる絵本の装丁を見て、龍樹はぎょっとする。

 それから素早く──ハルカに見つからないように、龍樹は本棚の陰に身を隠した。

 心臓がバクバクと大きな音を立てていた。

 念のため、もう一度ハルカが読んでいる絵本を確認する。


(──やっぱり、そうだ。間違いない!)


 ちらりとしか見えなくても分かる。

 だって何度も何度も、龍樹はそれを手にしたことがあるから。


 ──「(かぎ)をなくした妖精(ようせい)」の絵本だ!


 それは龍樹がはじめて書いた物語──「鍵をなくした妖精」。

 絵本になることが決まって、龍樹の名は伏せられ、かわりに「星樹(セイジュ)」というペンネームが付けられた。

 物語は龍樹がつくり、イラストは「(はかり)アキラ」というイラストレーターが描いている。


「まじかよ…」


 龍樹は身体が汗ばんでいくのを感じた。

 恥ずかしい。

 けれど……面白いと思って書いた物語だったから、読んでくれて嬉しいような、今までに感じた事のない高揚感で龍樹の胸はいっぱいになる。

 心臓がさっきから、ずっとうるさく騒いでいた。

 その物語を龍樹が書いたということを、当然、ハルカは知らない。けれど……


(──たくさんの本の中から、オレが書いたものを見つけてくれた!)


 奇跡のように思えた。

 まるで埋もれていたの龍樹の心を「ずっと、探していた」と、光を当ててくれたような、そんな感覚だった。

 売り物を傷つけないよう、ハルカは細い指先を慎重に滑らせ、ページをめくる。

 ハルカが着ている白いカーディガンには幾つもの小さな穴があいていた。それに背負っている赤いランドセルも、たくさんのシワと引っかき傷でボロボロになっていた。

 けれど龍樹の目には、ページをめくるハルカの細い指の動きと、熱心に物語の行方を追う、(かげ)りをおびた真っ黒な瞳しか映らなかった。

 ハルカが自分の書いた物語を読んでどう思うのか……、それしか無かった。

 気づかれないように、龍樹は息を殺しながらハルカの様子を窺う。

 ……ゆっくりとページをめくり、視線を落とす。

 またページをめくり、視線を落とす。たまに一つのページを繰り返し読んだあと、感情を含んだような溜め息をつく。

 ハルカの瞳が揺れるたび、龍樹の鼓動も早くなった。

 ──外は晴れたのだろう。

 雨宿りのために訪れていた一元客たちは、いつの間にかいなくなっていて、店内には龍樹とハルカの二人だけだった。

 静寂に包まれた二人の間に太陽の光が伸びてきて、陰陽をつくりだす。

 それからどれくらいの時間が経ったのか……、ついにハルカが絵本を閉じる。


(最後まで、読んでくれた……)

 

 見守っていた龍樹もようやく、肩の力を抜いた。

 ──しかしそれで終わりでは無かった。

 太陽の輝きに包まれたハルカは、閉じたばかりの絵本の表紙を泣きそうな表情で見つめたあと、その絵本をぎゅっと抱きしめた。


「────!」


 驚きすぎて、龍樹の呼吸が一瞬止まる。

 ハルカはそんな龍樹の存在に気づきもせず、ゆっくりと慎重な手つきで絵本を本棚に戻すと、すっと顔を上げる。

 さっきまで頼りなく揺れていたハルカの瞳に、今は強い光が生まれていた。瞬きをしたその瞳から、ひとつ……透明な雫が滑り落ちる。


「わたし……生きるよ……」


 ハルカが涙を零しながら、そう小さく呟いた。

 そして背筋を伸ばし、迷いのない足取りで本屋を出ていった。

 一人になった店内で、龍樹は、ハルカが戻したばかりの絵本を手に取った。

 ──まだハルカの温もりが此処にある気がした。

 ハルカの瞳。

 指先。

 そして、呟いた「生きる」という言葉……

 龍樹はぐっと唇を噛んだ。

 そうしなければ、今度は自分が泣いてしまいそうだったから。

 ──「鍵をなくした妖精」は、龍樹が心をこめて書いた物語だ。

 不自由さを感じている龍樹自身と、生死をさまようばかりの幼い弟の運命や、それでも愛情を注ぎ続ける人たちが疲れていく姿とか。言葉にするのは難しいが──そういうものを見て、感じて、願いそのままに書いた物語だった。


 ──その物語を、大事に思ってくれる人がいた! 


 それは龍樹にとって、自身の心を認めてくれたのと同じだった。


「読んでくれて、ありがとう……」


 我慢できずに溢れてしまった涙を、手の甲で拭いながら、龍樹はもういないハルカに向かって呟いた。


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