君の心に降る雨④
──冷たいハルカの肌が、ほのかに熱を取り戻していた。
同時に強く降り続けていた雨足も緩やかになり、まばらな雨粒が、名残惜しそうに龍樹の肩をたたいている。
腕の中にいるハルカが身動ぎをして、龍樹は抱きしめていた腕をほどいた。
触れ合って、ひとつのもののように溶け合っていた体温が離れていく。
龍樹とハルカにできた隙間を埋めるように、雨粒がまた……落ちてくる。
顔を上げたハルカはもう泣いてはいなかった。
「……大丈夫、か?」
頰に残っている涙の跡に龍樹はそっと指先で触れてから、優しく拭った。
その行動に顔を赤くしたハルカが言う。
「──龍樹くん、ごめんなさい……」
「いや。いいんだ……」
何に対しての「ごめん」なのか、龍樹にはハルカの言葉の真意を汲み取る事はできなかった。
こうやって心配して、ハルカを探しにきたことに対してだろうか。
それとも、「好きだ」と告げたことに対しての返答だろうか。
(両方、かもしれない)
胸の奥が少しだけ痛んだ気がした。
ハルカの瞳はまだしっとりと濡れてはいるが、先ほどまでの弱々しさは消えていた。
心の痛みや哀しみを、ハルカはまた内側に綺麗に仕舞いこんでしまった。
「──……雨、止んだね」
ハルカが雲の隙間から射す光を見つめて言った。
夕暮れの赤い光が、雲間から淡く落ちてきて、雨に濡れた校庭を染め上げていく。
雨上がりの空は澄んで見える。
「これが日中だったら、もしかしたら虹が出てたかもしれないな……」
空を仰ぎながら、龍樹はそう言った。
「うん。そうだね」
「俺……一度しか見たことないんだ。だから、雨があがるとつい探してしまう」
「いつか、見れるといいね……」
二人はベンチから立ち上がった。
ハルカが小さくクシャミをする。
雨除けにと、肩にかけた龍樹のシャツはぐっしょりと濡れていた。
このままでは、本当に風邪を引いてしまうかもしれない。
「着替えないと、風邪をひく。──一度、帰ろう」
龍樹は、ハルカの肩からシャツを取りながら言った。
濡れたアスファルトの道を、ハルカのアパートに向かって歩く。
龍樹は心配して連絡を待っているだろうアカリに、無事にハルカ合流したことをメールで送った。すると、時間を置かずに安堵の返信がくる。
十五分ほど歩いたところで、ハルカの住んでいるアパートが見えてきた。
(──誰かいる……)
平屋のアパートの前に男がいる。
距離的にはまだ離れているから、はっきりとしないが──中年くらいの男で、この暑い季節にスーツを着ていた。
背筋を伸ばした佇まいからは、心なしか緊張感が伝わってきた。
男は、ハルカの家の前にいる。
「──知ってる人?」
隣にいるハルカに問うが、首を振る。
「知らない人だと、思う……」
ハルカの顔が不安げに曇った。
龍樹は、さっき渉が言っていたことを思い出す。
(確か、「取り立て屋」がなんとか……って言ってたよな)
もしかして、この男がそうなのだろうか。可能性はあるかもしれない。でも、もしそうだとしたら、事情を話して今日は帰ってもらうしかないだろう。
「ハルカは此処にいて。俺が話しを聞いてくるから……」
「ううん。……私が行く」
「いや、まずは俺だけでいい」
「でも……」
「誰なのか分かったら、ちゃんと呼ぶから。此処にいて──」
龍樹はさらに念を押すように「大丈夫だから」と告げると、ハルカは渋々頷いた。
(──よし……)
龍樹は男に近づいていった。もちろん、じっくりと全身を眺め観察することを忘れない。
容姿、纏う空気感や、ちょっとした仕草や視線……。
龍樹はそこから、その人間の内面を垣間見るのだ。作家の素養のひとつでもある。
──五十代前半くらいだろうか……。中年の男は、危険な人物には見えなかった。
右手には、役割を終え閉じられた折り畳み傘を持っている。
そしてどこか落ち着かない様子で、左手に持った小さな紙切れと、アパートの玄関を交互に眺めている。
(──なんていうか、取り立て屋ではなさそうだな……)
実際に取り立て屋を見た事がないから分からないが、身体に馴染みきった既製品の落ち着いた色のスーツに、履いている革靴も、普通のサラリーマンが身に着けているようなものだ。取り立て屋というよりは営業マンといったところか。
それから、傘と一緒に手に提げている紙袋。贈答用に買ったお菓子か何かだろう。
男の肩先が濡れているのが見えた。
さきほどの強い雨は、折り畳み傘では防ぎきれなかったのだろう。
「──あの、このウチに何か御用ですか?」
躊躇うことなく、龍樹は男に話しかけた。
急に声を掛けられた男は、一瞬驚いた表情で龍樹を見たが、すぐに安堵したように微笑ん頷いた。
「ここは、都築さんのアパートで間違いないだろうか?」
「ええ。表札にもそう書いてますよね?」
「あ、ああ。……そうだな」
男の歯切れの悪い返事に、龍樹は首を傾げる。
この男がハルカの家を訪ねてきたのは間違いない。
男は龍樹に向かって、さらに質問をする。
「……失礼だが、君はここの者と知り合いだろうか?」
「それは……」
そうだ。
しかし、素直に答えていいものか。
まだこの男がハルカにとって、どういう存在なのかわからない。
どう答えようか逡巡しているうちに、男はジャケットの内ポケットから名刺を出して、龍樹に渡す。
「すまない。こちらから名乗るのが礼儀だったな……」
名刺には、名前の他に、会社名、肩書きも入っている。
(──近藤定之……、え、取締役社長?)
どうやら男は不動産会社を営んでいるらしい。住所は、東京ではなかった。
龍樹の表情を汲んだ男──近藤定之は苦笑いを浮かべて言った。
「──田舎の、本当に小さな会社なんだ……」
「……そうだとしても、貴方のような方が何の用でここに?」
取り立て屋ではない。ということは、不動産の購入をしていたのか……。
もしそうだったとしても、社長自ら足を運ぶ理由が分からない。
思考を巡らす龍樹に、近藤定之は落ち着いた口調で言う。
「私は、伝えにきたんだ。岟里は無事だと伝えるために──」
「──!」
岟里はハルカの母親で、まさに今、行方を探しているところだ。
「無事……というのは、本当ですか?」
定之が嘘をついているようには見えないが──。
「ああ、本当だ。ただ……事故に遭ってしまってね。命に別状はないんだが、今は入院している。それを岟里の娘に伝えるためにきた。君は岟里の知り合いか……?」
「いえ、僕は岟里さんの娘──ハルカさんの友人です」
「名前は、ハルカと言うのか……」
定之は目を細めた。
瞳の奥に柔らかな輝きが浮かんで見えた。
「……岟里は、娘の名前は教えてくれなかったんだ」
「貴方は、いったい……」
「私は、岟里の娘の……父親だ」
──ハルカの父親!
予期せぬ登場人物に龍樹は驚く。
「私も岟里が子供を産んでいたなんて知らなかった……。こんなに時が経って、やっと岟里に再会できたと思っていたら、娘がいるのだと聞かされた……」
定之が「岟里」の名前を口にするとき、その声音には情感がこもっていた。
(ハルカに、知らせないと……!)
岟里の無事を知れば、安心するだろう。それに、岟里が自分を置いてどこかに行ってしまったと、哀しんでいた心もきっと少しは晴れるだろう。
龍樹は離れたところで様子を窺っているハルカに、視線を移す。
定之もつられるように龍樹の視線を追って、ハルカの姿を見つける。
「──もしかして、あの子が……」
「はい。……ハルカです」
定之の眦に、涙が滲んでいた。
龍樹は、定之を自分のマンションに連れてきた。
ハルカは濡れた衣服を着替えてからやってくる事になった。
「──私の、お父さん……なんですか?」
定之と対面したハルカは、信じられない……という面持ちで呟いた。
シングルマザーの家庭でこれまで育ってきたのだ。無理もない。
「そうだ。初めて会ったのだから、受け入れられなくても当然だ。ただ……少し、話しをさせてくれないだろうか……」
定之の提案に、ハルカはぎこちなく頷いた。
龍樹が「良ければ、俺の家でどうですか?」と提案し、二人は了承する。
このままハルカのアパートで話すわけにはいかない。
(渉さんのことがあるからな……)
それに、龍樹も早く着替えをしたかったから、ちょうど良い。
マンションに帰ってくると、キースは神妙な二人の空気を察したのか、お茶を用意したあと、そそくさと龍樹の部屋に引っ込んでいく。
それから少し経って、ハルカがやってくる──。
「あの、もう一度聞きますが、母は無事なんですね……?」
突然の父親との出会いに、ハルカはまだ心の整理が付けられていないようだった。ぎこちなく定之に問いかける。
(そうだよな。他人の俺ですら、どうしたら良いか分からないんだ……)
当のハルカは、もっと困惑しているだろう。
定之も緊張しているようで、強く握り込んだ拳を膝の上に置いたまま、話し始める。
「岟里は、君のお母さんは無事だ。ただ……事故に遭ってしまって。怪我はそうひどくは無いんだが、意識が少しぼんやりとしている。心配だから、しばらく入院してもらうことにした。医者の話では事故でショックを受けたのだろうと……。精神的にも疲れが溜まっていたのかもしれないと……」
「──……お母さん……」
ハルカは顔を伏せた。細い肩が小刻みに震えているのが見えた。
「岟里が事故に遭って病院にいたとき、私も偶然病院にいたんだ。二十数年ぶりに岟里と再会した……。岟里は東京に住んでいたんだな。もしかしたら……私に会いにきて事故に遭ってしまったのだとしたら、本当にすまない」
「謝らないでください。……それより、偶然病院にいたって……どこか身体の具合が悪いんですか?」
「──心配、してくれるのか?」
「それは……」
ハルカが困ったように口を噤む。一方、定之は嬉しそうに微笑んだ。
「私は、どこも悪く無いよ。知り合いのお見舞いに来ていただけだから」
「そう、ですか……」
それっきり会話は無く、沈黙が続く。
既に冷めてしまった、キースの淹れた紅茶を飲みながら、二人は俯いたままだった。
定之とハルカのやり取りを聞きながら、龍樹は考えていた。
(二人とも、本当はこんな話しをしたいわけじゃない……。俺だったら……)
「他人の俺が、事情を聞くのは失礼だと分かっていますが……近藤さん、ひとつ訊いてもいいですか?」
「ああ、構わないよ」
沈黙が破られたことに安堵したのか、定之は快く頷いた。
「近藤さんは今、結婚されていますか? 岟里さんとの、これからのことをどう考えていますか? ──何も考えずに、ハルカに会いに来て父親だと名乗るわけは無いですよね? 近藤さんの表情や口調からは岟里さんに想いを寄せているように見受けられますが、そもそも……どうして離れてしまったんですか?」
ハルカが息をのむ気配がした。
──龍樹は核心に触れた。
きっとこれは、知っておくべき事柄だと……そう思った。
定之も、もしかしたら話したかったのかもしれない。彼の瞳には安堵の色が浮かんでいた。
紅茶を飲み干し、ゆっくりと深呼吸をした後、定之は口を開いた。
「若い頃、私と岟里は、結婚を前提に交際をしていた──」
過去を語り始めた定之は、時折、痛みを堪えるように唇を噛む。
「だが、私の家は代々続く地主で、今は不動産会社を営んでいるが……とにかく、両親が厳しい人達で、結婚を反対されてしまったんだ……。岟里と二人で駆け落ちも考えたんだ。けれど、岟里は急に姿を消したんだ。──ずっと、探していた……。岟里以外の女性とは結婚は考えられなくて、これまで独身でいた……」
「──……」
「二十数年ぶりに、岟里に会えて嬉しかった……! そして、私との子供が産まれていたと聞いて、本当に驚いた……」
定之の声が、再会の喜びに震えていた。
「じゃあ、やっぱり……貴方が私のお父さん、なんですね……」
「──ああ、そうだよ。信じられない気持ちは、私も一緒だ」
「お母さんと……これから、どうするつもりですか?」
「私は……岟里と結婚しようと考えている。岟里も、もちろん賛成してくれた。ただ、今は事故の直後で不安だ。面倒を見る人も必要だ……だから、君も私の所へこないか?」
定之は、きっと最初からこの事を伝えたかったのだろうと、龍樹は思った。
家族としてハルカを迎えいれるため、定之はわざわざ、ここにやってきたのだろう。
「──……私も?」
「岟里も、ずっとそばにいた君がいないと、寂しく思うだろうから……」
定之の言葉に、ハルカは黒い瞳を揺らした。
(──ハルカは、自分が愛されていないと思っていたからな……)
そのことにどれだけ心を痛めていたか、龍樹は知っている。
「岟里のそばに、ついていて欲しい。私達は──家族だから……」
「──……家族……」
まるではじめて聞いた単語のように、ハルカは茫然とした様子で呟いた。
(良かったな、ハルカ……)
ハルカが欲しかったものは、家族の愛情だった。
龍樹には決して与えることができないもの……。
(ハルカが幸せでいてくれたら、俺はそれでいい……)
──それから、二週間後。
ハルカは仕事を辞め、東京を離れ、家族の元へと旅立っていった。