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君の心に降る雨③

 龍樹は、幼い頃に何度も通った道を進んでいく。

 懐かしさを感じている暇はなかった。

 時刻は十七時をまわったところ──。

 夕方になってもなかなか気温は下がらないこの時期に、珍しく、ひんやりとした風が吹いてきて、龍樹の熱くなっていく身体を宥めていく。

 街路樹が強く吹いてきた風に枝をしならせ、音を立てる。

 龍樹は走りながら空を仰ぐ。


(雨が降るかもしれない……)


 膨らんだ積乱雲が、空を覆っていく。

 ──あの日に似ていた。

 夕方。学校の帰り道。急に降ってきた雨。

 偶然、本屋で見かけた同級生の都築ハルカ……。


 ──けれど、あの時とは状況が違う。


 龍樹は今、自らハルカのもとに向かって走っている。

 頭上では、急速に青い空が翳りをおびていく。

 耳元で微かに遠雷が聞こえた気がした。


(夕立ちか……)


 このところ、夕方の突発的な豪雨で被害が出ている地域も多かった。

「夕方、ところにより一時雨。──ゲリラ豪雨には注意してください」と、天気予報士は、連日同じ言葉を繰り返していた。

 できれば雨が降り出す前に、ハルカを見つけたい……。

 龍樹は走り続けて、やっと小学校の前までたどり着く。

 今は丁度夏休みで、子供の声がしない校庭は時が止まっているかのようにひっそりとしていた。

 強く吹いてきた風が砂を散らせ、遊具がキイキイと音を立てる。

 ぐるりと見渡した先、昔から変わらずある校庭の隅っこにある木製のベンチに──ハルカはいた。


「……っ、はっ……良かった……」

 

 龍樹は息をつく。

 走り続けて、脇腹や太ももが、じんじんと悲鳴をあげている。

 荒い呼吸をつきながら、龍樹は真っ直ぐにハルカのもとへ歩いていく。

 ──風がハルカの髪を躍らせている。

 気配に気付いたハルカが顔を上げ、龍樹を見て驚いた表情をした。しかし、それは一瞬だけで、ハルカは唇を噛み泣きそうになるのを堪えるような表情をした。


「龍樹くん、どうして……ここに……」


 目の前に現れた龍樹に向かって、ハルカが言う。

 ──声が震えていた。


「事情は深山さんから……。ハルカの家にも行ってきたんだ。そしたら渉さんが、此処じゃないかって。それで……」


「渉さんに会ったんだね」


「うん。──ハルカの恋人かと思って、正直、焦った……」


「あはは。違うよ。渉さんは……お母さんが好きだから」


 微笑んだハルカを見て、龍樹の胸は切なくなる。血の気を失った顔色は、岟里の行方不明に相当ショックを受けている様子が窺えた。

 龍樹はハルカの隣に腰を下ろす。

 年月を感じさせるように、ベンチが軋んだ音を立てた。


「小学校も、このベンチも、懐かしいな……」


 とりあえず呟いた台詞に、ハルカは静かに頷いた。

 青い空を埋めるように流れてきた積乱雲が、幾つも重なり合い、やがてポツポツと冷たい雨が頬にあたる。


(やっぱり、降ってきたか……)


 風に乗って軌道を変えた雨粒が、龍樹の前髪を湿らせていく。


「……このままだと濡れるから」


 どこか雨に当たらない場所へ行こう──そう言いかけて、龍樹は息をのむ。


 ──隣にいるハルカが、声を殺して泣いていた。


「……っ……っつ……」


 頬に流れる透明で小さな雫が、雨粒と混ざって白い肌を濡らしていく。


「ハルカ……」


 龍樹は腰に巻いていたシャツを{解}(ほど)くと、ハルカの肩にかけた。

 ──一瞬、指先がハルカの肌に触れる。

 驚くほど冷たい体温に、龍樹の指が微かにはねた。

 ハルカは身動ぎひとつしなかった。

 まるで龍樹の熱を孕んだシャツの温かさも、吹いてきた風の強さも、冷たくぶつかる雨粒の感触すら何も感じていないように、ハルカはただ静かに涙を流している。


 ──ザーッ……


 雨足が強くなる。

 埃っぽい地面に叩きつけられた雨粒が、跳ね返って砕けていく。

 龍樹の服も、髪の毛も濡れそぼり、水が滴っていく。


「ハルカ、あの木の下まで行こう。──ここよりはきっと濡れないから……」


 そう言って龍樹は、校庭の中でひときわ大きな存在感を放つ、(けやき)の木を指す。


(俺が濡れるのは構わない。けど、ハルカをこのままにはしておくわけには……)


 冷たい体温のハルカを、このままにしていては風邪を引いてしまうかもしれない。

 もしも……これが弟の夏樹だったら、命にもかかわってくるのだ。

 けれどハルカは、凍りついてしまったように動かない。

 ハルカの頰に冷たい雨が次々と落ちて、幾筋も跡をつくっていく。それが雨だけじゃないことを龍樹は知っている。


(もしかしたら、ハルカは、泣きたいのかもしれない……)


 降る雨とともに、ハルカがこれまで抑えていた感情が溶かし出されているような気もした。


「──私、気付いたんだ……」


 雨音の間を縫って、ハルカの細い声が龍樹の耳に届いた。


「お母さんは、私を置いていったんだ。きっと……」


 低くて、か細い声だった。


「そんな。だとしたら何か事情があるはず……」


 そう、例えば……何か帰ってこれない事情ができたのかもしれない。

 しかしハルカは頭を振った。


「お母さんは、昔から「何か」大切なものがあって……私がいなければ、もっと自由でいられたんだと思う。私さえいなければ……って、そう、言ってたから……」


 言葉と共に、涙が溢れてくる。

 ──ハルカの心が哀しみに震えている。

 痛切な思いが空気を通して、そばにいる龍樹にも伝わってくる。

 龍樹は、ハルカの家庭事情を深くは知らない。

 けれど──岟里がどんなに辛い想いをして、大切なものを抱えているのだとしても、それがハルカの心を傷付けて良い理由にはならない。


(俺は、ハルカがいなければなんて、絶対に思わない! 逆だ……ハルカがいなかったら今の俺はいなかったんだから)


 そうだ。あの時……ハルカの姿を見つけなかったら、龍樹は今の自分にたどり着けなかっただろう。

 ──ハルカだけじゃない。


 叔父も、深山アカリや、親友のキース、家族も……出会った人々のおかげで、今の龍樹がいる。

 そしてその中心にあるのが──ハルカへの想いだ。


「お母さんのために、いつか楽な暮らしができるように……って、頑張ってきたけど駄目だった。──それ以上に、私はお母さんに愛されてなかったのが哀しくて……。私、ずっと独りだった。……っ、生まれて、こなきゃ……良かった……」


 ハルカは両手で顔を覆い、今度こそ、抑えきれずに嗚咽をもらして泣いた。

 強く叩きつける雨が、まるで……ハルカの心にまで鋭く突き刺さっているように見えた。


 ──こんなハルカの姿なんて、見たくない……!


 龍樹の心に衝動がうまれる。


「ハルカ、俺は……」


 龍樹のなかで、何か……熱いものがせり上がってくる。

 その熱さが喉元までやってくると、龍樹はそれを──「言葉」に変容させた。


「──ハルカが、独りだと言うなら……」


 龍樹の伸ばした手が、ハルカの冷たい肩に触れる。

 そして身体を震わせて泣いているハルカに身を寄せると、龍樹は降り注ぐ雨から守るようにそっと抱きしめた。

 胸元に閉じ込めたハルカの息遣いに、自分の鼓動が重なっていく。


「──俺がそばにいる。ハルカがいてくれて良かった。ハルカがいない世界に生まれなくて良かったと思ってる──……俺は、ずっと前からハルカが好きだから……」


 告げたのは秘めていた自分の想い。

 偽りのない、大切にしてきた想いが、ハルカの癒しになればいい。


(この冷たい雨にも似た哀しみから、キミを守る盾になれたら……)


 ハルカの細い身体を抱きしめている両腕に、自然と力がこもった。

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