君の心に降る雨①
日本に遊びにきていたキースは明日、帰国することになっている。
昨日、龍樹とキースは一緒に買い物に出掛けた。
キースは家族や友人にたくさんお土産を買い、龍樹もまた、外国に住む家族のために贈り物をいくつか選んだ。
今日は二人でマンションの近くにあるラーメン屋で少し遅い昼食を取り、帰ってくるとキースはさっそく帰国のための荷造りを始めた。
「楽しい時間は、アットイウマだね……」
顔は笑っているのに、モスグリーンの瞳は惜しむように揺れていた。
龍樹は「俺もそう思うよ」返事をした。
(二度と会えなくなるわけじゃないのにな……)
寂しそうな様子のキースの姿を前にすると、龍樹も離れがたく感じてしまう。
キースにはたくさんの友達がいることを龍樹は知っている。
だからきっと、故郷ではきっとキースの帰りを待ちわびている人もいるだろう。
「今度は俺が遊びにいくからさ。──夏樹のこと頼んだぞ……」
「もちろん! 約束スル!」
しんみりとした空気を払うように龍樹が笑顔で言うと、キースは噛みしめるように強く頷いた。
するとその時……リビングのテーブルに置いていた龍樹のスマートフォンが着信を告げる。
龍樹は手に取り、ディスプレイを確認する。
「──深山さんからだ……」
先日の打ち合わせ以降、はじめての連絡だ。
アカリの要件について、なんとなく予想はついていた。
──「鍵をなくした妖精」のプロットのことだろう。
仕事が早いアカリの事だから、既に確認は終わっているに違いない。
「もしもし、星樹です」
『深山です。こんにちは……今、大丈夫かしら?』
「はい大丈夫です。今のところ、新作もちゃんと書き進めています」
『そう、安心したわ。──それでね、この前もらったプロットのことだけど』
(やっぱりそうだ……)
龍樹の胸に緊張が走る。
──あのプロットをアカリがどう評価したのか。
認めてくれれば良い。でも、そうじゃなかったら……。
願うような気持ちで龍樹はアカリの言葉を待った。
「正直に言うわ。商業性は厳しいかもしれない……」
「──……はい」
スマートフォンを持つ龍樹の手が震えた。
(駄目だったか……)
落胆に目の前が暗くなっていくような気がした。
『ファンタジー小説は今のこの業界で勢いはあるけど、売るのは難しいわよ。それを星樹くんなら解ってると思う』
──そう……だからずっと不安だった。
売れるものは求められているもの。そのための要素がこの物語には欠けているような気がしていた。
(それでも俺は、書きたいと思ってしまった……)
この物語を今もなお大切に思ってくれている人達がいる。
そして天啓を受けたように、登場人物達が動き始め……衝動のまま、龍樹はプロットを書きあげた。
欠けているものがあるかもしれない。けれど、自分の感じたことを信じたかった。
──書きたいと思う気持ちの先には、きっと何かがあるのだと。
(深山さんの言うことに間違いはない……けど)
けれど、龍樹の想いも変わらない。
「深山さんの言いたいことことは解ります。でも、僕は、」
『──でも、私は読んでみたいと思ったわ』
力強いアカリの声が、龍樹の耳に届いた。
『人間の心を繊細に紡ぐ「星樹が書くファンタジー」……その切り口は良いと思うわ』
「本当ですか……?」
『本当よ。ただ、まだ足りないわ』
足りない……。一体、何が足りないのか。
『この小説を売るためには、もっと作家として、アナタの認知度をあげることが必要だわ』
「──認知度……」
龍樹がプロ作家になって二年が過ぎた。
刊行された書籍は、すべて初版止まりだ。
それでも、コラムや文芸誌の掌編掲載など、少しずつ仕事も増えてきている。
だが、圧倒的に世間は「星樹」の事を知らないのだ。
このままであれば、鳴かず飛ばずのままでは、いずれ廃業という道を選ばなくてはいけない日が来るかもしれない。
(書くために……作家として書き続けるためには)
「次の新作で、確実に認知度を上げる……」
『その通りよ。──次の新作が要になると思ってちょうだい』
──新作が成功すれば、書きたいものが書けるのだ。
『次の新作に、絵本版の「鍵エルフ」の電子書籍ダウンロードの特典をつけて、小説版の宣伝をしましょう。そして小説版の鍵エルフのイラストを、秤アキラが描いてくれたら完璧だわ。秤先生は今でも人気のイラストレーターだし……』
龍樹もそれは想像していた。
もし小説の挿絵を、絵本と同じく秤アキラが担当してくれたら心強い。幼い龍樹が書いた物語は、秤アキラによって命を吹きこまれたのだ。
『秤先生のことは……頼んでみるしかないわね。アナタは秤先生を納得させるくらいのものを書きなさい。どちらにせよ「星樹」が作家として埋もれてしまわないようにしないと、プロで続けていくのは難しいわ……』
「はい。頑張ります」
(深山さんは、俺の未来を見据えてくれている……)
龍樹にとってアカリがいてくれることは、作家として大きな支えだ。商業性は厳しいと言いながらも、どうすべきかまでアドバイスをくれる。
アカリがいなかったら、龍樹はプロになれなかっただろう。それに……龍樹の書くものを大切にしてくれる。
「深山さん、僕、絶対に次の新作を今までのなかで一番の傑作にしてみせます!」
『ええ、一緒に頑張りましょう。でも根詰めすぎて、体調崩さないように気をつけるのよ』
「はい!」
龍樹は強く頷きながら、心の内でアカリに感謝する。
『それから、星樹くん……』
アカリの声音が不意に曇った。
「深山さん……?」
躊躇うようにアカリが、少しの間、沈黙する。
『──ごめんなさい。言うべきか悩んでしまって……』
「仕事のことで何か?」
『いいえ違うわ。その、ハルカちゃんのことなんだけど……』
「ハルカの?」
ハルカに何かあったのだろうか。
さらに曇っていくアカリの言葉に、嫌な予感がじわりと背筋を這い上がっていく。
『ハルカちゃん、数日前から仕事を休んでるの……』
「……理由、は?」
『私もよく分からないけれど……ハルカちゃんのお母さんが行方不明らしいわ』
「──行方不明⁉︎」
『心配になって、さっき電話してみたら、まだ見つかってないって。今日も心当たりがある場所を探してみるって言ってたわ。だからね星樹くん……」
アカリが何を伝えたいのか、龍樹はすぐに理解できた。
──多分、同じ気持ちだからだ。
「深山さん、僕、行ってきます……」
このまま放っておく事なんでできない。もし、他に頼れる人がいるならそれで良い。
けれど、もし一人きりでいるのだとしたら、心細くて不安だろう。
「何ができるか分からないけど、そばにいることは出来るから……」
『そうね……。私も、ハルカちゃんのそばに誰かいてくれたらと思ったの。星樹くんなら信用できる」
「──はい」
『ただし、何かあったら私にちゃんと連絡すること。くれぐれも危険なことには手を出さないと約束して!』
「わかりました。それじゃ、急ぐので切ります」
アカリとの通話を切ると、龍樹はすぐにハルカに電話をかける。
だが繋がらない……。
「タツキ、何かあった?」
焦りや不安が顔に出ていたのだろう。龍樹の様子見ていたキースが問いかけてくる。
「ハルカの母親が行方不明らしい」
「それは、タイヘンだ!」
「ハルカとも連絡がつかないし……俺、行ってくるよ」
「オレもいくよ!」
「いや、キースはここにいてくれ。ハルカは俺がここに住んでるって知ってるから、もしかしたら来るかもしれない……。その時、キースがいてくれたら助かる」
「オーケー!」
龍樹は急いで身支度を整えると、マンションを飛び出した。
もう一度ハルカに電話をするが、やはり繋がらない。
(──ハルカ、今、どこに……)
瞼の裏に、あの日……駅のホームで青白い顔をしたハルカの様子が浮かんで、龍樹の不安をさらに駆り立てた。
(危ないことに巻き込まれてなければいい!)
ハルカと、ハルカの母親の無事を、龍樹は心のなかで強く願った。