今も、降り続けている想い③
『僕の物語を見て、感動してくれた女の子がいたんです。僕がまだ、小学生の時です……』
『だけど、そんなある日、雨宿りのために入った本屋で、隣のクラスの女の子が僕の書いた絵本を立ち読みしているのを目撃してしまったんです。僕はドキドキしながら、その様子を物陰から見ていて……』
『その女の子がページをめくるたびに、どの場面を読んでいるのだろうと想像して、落ち着かなかったですね。そして読み終えるわけなんですが……。その子は、こう……大事そうに絵本を抱きしめたあと、涙を零したんです……』
『きっとあの絵本の何かが、その子の心に触れるものだったんだと思います。そして僕はこの時、大きな勘違いをするんです。「自分は誰かの心を救えるものが書けるかもしれない」──それが大きな転機となって、僕は本気で言葉というものに向き合うことを決めました』
『あの時、本屋に行ってなかったら、僕は作家にはなっていなかったかも……』
『うまく書けなくて、腐った時期もありましたけど……あの時の女の子がもしかしたら待っているかもしれない……と、自分を奮い立たせていました。今もそれは変わらずです──』
仕事帰りの駅のホーム。
龍樹と再会した場所で、ハルカは繰り返し「宙色」に書いてある星樹の言葉を追っていた。
今月号の文芸誌「宙色」には星樹の特集が組まれていた。
星樹が、ハルカの同級生の保志龍樹だということは、ついこの前知ったばかりだ。
それに……幼い頃、心を揺さぶられるほど感動した絵本「鍵をなくした妖精」を書いたのは龍樹だった。そして龍樹に告げられたのだ。
『ハルカがいたから、俺は作家になれた。──だから俺のほうこそ見つけてくれて、ありがとう……』と。
信じられない気持ちでいっぱいだった。
でも間違いなく「宙色」で語られている女の子は、ハルカのことだ。
龍樹はハルカが絵本を読んでいた事を知っていた。そして、そのハルカの姿を見たことを機に作家の道を歩み始めたのだ。
(龍樹くんは、私のことを忘れないでいてくれた。私はあの物語を忘れてしまっていたのに……)
でも、思い出すことができた。
まるで遠い昔に海に流したタイムカプセルが、時を経て、持ち主のもとへ帰ってきたように、大事な気持ちを思い出すことができた。
──アカリが言っていた龍樹の「原動力」。
もし龍樹の原動力が、幼い頃のハルカとの思い出なのだとしたら、ハルカにとっても「鍵をなくした妖精」は生きるための原動力になっていた。
レインがクルスに「生きろ」と言った台詞が、小学生だったハルカの心には真っ直ぐに突き刺さった。
(だから、私は頑張って生きてこれた……)
そして大人になって、疲れ果てたハルカの前に、ふたたび龍樹は現れたのだ。
「宙色」で語られた、龍樹の想い……。
──遠いと思っていた龍樹が、今は近くに感じる……。
勘違いかもしれないけれど。
龍樹にはきっと、大切なものがたくさんあるだろう。だけどその中のひとつに、自分のことが含まれているのなら、すごく嬉しい。
「宙色」をバッグの中に仕舞うと、ハルカは帰路につく。
途中、商店街の小さなスーパーに立ち寄り、食材を買うことにする。
キンキンに冷房のきいた店内に入ると、汗がひいていく。
朝食用のパンと、お弁当用の惣菜。
お肉コーナーで、広告の品がまだ残っているかをチェックする。
「そういえば、今朝はお母さんいなかったな……」
ふと、ハルカは思い出す。
朝、目覚めた時、隣の部屋に気配は無かった。
渉のところに泊まりにでも行ったのだろうか。
基本、自由に生きている{岟里}(えり)は、いちいち自分のスケジュールをハルカに告げたりはしない。
それは昔からだ。だからハルカも自分の事を話さなくなっていた。
生活スタイルも違うから食事も別々だった。
家族というより、ただの同居人と言ったほうがしっくりくるかもしれない。
買い物を終えてスーパーを出ると、頬に雫がぶつかる。
空を見上げると、もうすっかり傾いている太陽を、濃い鉛色の雲が覆いはじめていた。
「──また、雨……」
梅雨はとっくに明けたというのに、今年の夏は雨が多い。
バッグの中に折りたたみ傘は入っているが、少し急げばそこまで濡れる心配はないだろう。
「よしっ……」
ハルカはバッグを肩に掛けなおし、ビニール袋の持ち手をぎゅっと握ると、小走りで駆け出した。
「はっ、は……はあ……、あれ?」
息を乱しながら、長年住んでいる古びたアパートの前までやってくると、玄関先に見知った人物を見つける。
ハルカより少し歳上で、スラリと身長が高くて、モテそうな顔立ちの──渉だ。
こんな時間に一人でくるなんて珍しい。なにか忘れ物でもしたのだろうか。
「渉さん、こんばんは。どう、したんですか……?」
「あっ、ハルカちゃん。おかえり……」
渉はハルカに気付くと、安堵の表情を浮かべた。
しかしその声音は、いつもより沈んでいる。
「ねえ、岟里さんて帰ってきてる? 今、家にいる?」
「お母さん? ……いつもはこの時間は、もういないけど?」
岟里はスナックで働いているから、とっくに出勤しているはずだ。
それを渉が知らないはずはない。
「入ってもいい?」
「ああ、うん……いいですけど」
捲くしたてるように言われ、ハルカは急いでバッグから鍵を取り出そうとするが、今日はスーパーに寄ってきて、両手が塞がった状態だ。
察した渉が無言のまま、ビニール袋を持ってくれる。
鍵を開けて、二人は室内へと入る。
「やっぱり、お母さんいないみたいだけど?」
「そう、だな……」
いつも二人で過ごしている部屋に、岟里の姿はない。
はあ……と溜息をつき、渉はベッドに腰をおろし項垂れる。
「いったい、どうしたんですか?」
「実は、岟里さんと連絡が取れなくて……」
「今朝はいませんでした。だから、昨日は帰ってないんだと思います」
「俺は、一昨日から連絡が取れてない……」
「一昨日から?」
渉はジーパンの後ろポケットからスマホを取り出すと、電話をかける。
が──数秒後、がっかりした様子で首を振った。
渉は何度もそうやって岟里に電話をしているのだろう……。
繋がらない電話。行き先も言わず、どこかへ行ってしまった岟里。
(──お母さんは、いつも自分勝手に生きている人だし……)
そこまで心配する必要は無い気がする。
けれど、渉の不安げな様子を見ていると、ざわりと嫌な感じが胸の奥にうまれた。
「もしかしたら、ひょっこり帰ってくるかもしれないし! お母さんだって、たまには恋人をほったらかして、一人で遊びたいんじゃないかな……」
ハルカは不安な気持ちを払拭するように、明るくそう言った。
表情は苦笑いにしかなっていないのだが、これが精一杯だ。
つられるように、渉も「そうだね……」と頷いた。
「もし、岟里さんが帰ってきたら連絡が欲しい。俺も、連絡するから……」
「わかりました! お母さんが帰ってきたら、渉さんに連絡するように言いますね」
「それとね、ハルカちゃん……」
渉は少しだけ言い淀んだあと、口を開く。
「ずっと勘違いしてるみたいだから、この機会に言っておくけど、俺と岟里さんは恋人同士なんかじゃないんだ」
「──……え? うそ……」
「本当。俺が一方的に岟里さんを好きなだけ」
驚くハルカに向かって、渉はさらに言葉を重ねる。
「岟里さんが好きなのは、ハルカちゃんの……お父さん、なんじゃないかな?」
「お父さん?」
ピンとこなかった。
ハルカは父親を知らない。岟里はシングルマザーで一度も結婚していない。ハルカが物心ついた時には既に岟里しかいなかったし、父親に関しての情報はいっさい与えられていない。
「渉さんは、お父さんについて、何か知ってるんですか……?」
「いや……。どこの誰かまでは、知らない……」
渉は首を振った。
その表情が今まで見たなかで一番苦しそうに、ハルカの瞳に映る。
──渉は岟里が好きなのだ。ここ数年、ずっと二人を見ていたから分かる。
確かに、渉を恋人と紹介されたことは無かった。
けれど、二人は本物の恋人のように仲が良かったから、勘違いしても仕方がないと思う。
誰かに恋心を寄せられたことの無いハルカは、それがたまに羨ましく思える時もあったくらいだ。
(お母さん、今どこにいるの? 渉さん心配してるよ……まさか、本当にお父さんのことが好きなの?)
渉は開いたカーテンの向こうの曇りガラスに目をむけていた。
どうやら、外では本格的に雨が降り出したのだろう。激しい雨粒がガラスを叩く音が響いている。
「何年経っても、どんなに時が経っても、変わらない「想い」ってあるんだろうな──」
渉が、ぼそりと呟く。それは雨音に混じって切ない響きを帯びた。
(──どんなに時が経っても、変わらない想い……か……)
あるかもしれない。
ハルカの脳裏に、龍樹の言葉が蘇る。
龍樹はハルカのことを忘れずいてくれた。そのことがハルカは嬉しかった。
変わらないことで救われるものがある。
けれど──もし、岟里がハルカの父親を思い続けているのだとしたら……。
(それがお母さんにとって、良いことなのか、悪いことなのか、私にはわからない)
岟里が何を考えているのか、ハルカには解らなかった。