序章 君がくれた夢①
「星樹先生は、生まれ変わるような、そんな経験をしたことがありますか?」
都内にある出版社ビルの一室。
パイプ椅子に姿勢を正して座る、四十歳の文芸雑誌の記者──小金井トオルは、二十代の青年作家に、そう質問をした。
「生まれ変わるような、経験……ですか?」
「ええ。人生の転機と言ったほうが、いいかもしれません」
小金井は若い青年作家に向かって頷いた。
今日は二ヶ月後に書店に並ぶ、作家──星樹が書き下ろした青春小説「君の心をつつむ、僕の宇宙」についての取材だった。
取材は順調に進み「では、最後に……」と、前置きを挟んで、小金井は先ほどの問いかけをする。
(さて、どんな話が出てくるか……)
用意してきた質問は、これが最後だった。
この取材が終われば、星樹と話す機会はしばらく訪れないだろう。だから、ほんの少し名残惜しく感じた。
小金井は星樹の書く物語が好きだった。
読み手が楽しめるようにちゃんと工夫を凝らしているし、安定した文章力は最初の一文から、安心して物語に身を委ねていける。それに、弱いモノを救いたいという、正義感に溢れる作風にも好感が持てた。
星樹本人も、物腰が柔らかく見目もいい男だ──
「そういうことなら……そうですね。ありますね……」
理知的な星樹の眼差しが、まるで愛しいものを見つけたように、優しい輪郭に変化していくのが分かった。
小金井はこれまでも取材で、何度か星樹に会ったことがある。
しかし、こんなふうに感情が滲みでた星樹を見るのは、初めてだった。
(俺はいま、星樹という作家の「心」に触れているんだ……!)
小金井は、妙な感動を覚えた。
それから星樹の愛しさに満ちた表情が、何かのキッカケで壊れてしまうことの無いよう、小金井は息を詰めて、次に語られることに全神経を傾けた。
「僕の物語を見て、感動してくれた女の子がいたんです。僕がまだ、小学生の時です……」
星樹が語り始めた──
「ご存知ない方も多いと思うのですが、僕の処女作は絵本でした。と言っても、僕は絵が描けるわけでなく……僕が書いた短編小説に挿絵がついたものでした。タイトルは「鍵をなくした妖精」という、ファンタジーの物語でした」
「すみません、初めて知りました……」
星樹という作家の経歴は掌握していたはずなのに。
──これは明らかに自分の落ち度だ。
小金井はプロの記者として恥ずかしくなる。
しかもプロ作家に対して「知らない」と、口に出してしまった。これはさすがに失礼だと、小金井は青くなる。
しかし星樹は、申し訳無いと頭を下げる小金井に、「とんでもない」と慌てて頭を振る。
「当然だと思います。どちらかと言えば、僕よりイラストレーターの方が注目されてましたし。もう十数年以上も昔の……小学生の時ですし、実力があるわけでもなく、たまたま書いた物語を編集者だった叔父に見せたのがキッカケだったんです」
「そうだったんですか。それはスゴイですね──」
これは確かに、人生の転機に相応しい話だ。小金井は大きく頷く。
「ただ僕は、その時、社会の意味すら分からないほどの子供で、自分の書いた物語が絵本になったということも実感がなく、もちろん作家になりたいという気持ちすら無かったんですね……。だけどそんなある日、雨宿りのために入った本屋で、隣のクラスの女の子が僕の書いた絵本を立ち読みしているのを目撃してしまったんです。僕はドキドキしながらその様子を物陰から見ていて……」
「なんか、僕までドキドキしてきました……」
きっと星樹が、初めて読者という存在を認識した瞬間だろう。
ランドセルを背負った小学生の星樹を、小金井は想像して微笑ましく思う。
自分の書いた物語を夢中になって読む女の子と、胸を高鳴らせながらそれを見つめる、幼い星樹──
「その女の子がページをめくるたびに、どの場面を読んでいるのだろうと予想したりして落ち着かなかったですね。そして読み終えるわけなんですが……。その子は、こう……大事そうに絵本を抱きしめたあと、涙を零したんです……」
「──!」
「僕にとってそれは衝撃でした……」
星樹の切れ長い瞼の奥にたたずむ瞳が、かすかに揺れた気がした。
「そして、その時に思ってしまったんです。かなり大袈裟ですが「ヒトの心を救うものが、自分には書けるかもしれない」──と。生意気ですよね。後々、大きな勘違いだとすぐに解るのですが。でも……それが大きな転機となって、僕は本気で作家を目指すことにしたんです」
「なるほど……。それが星樹先生の転機……」
「そうですね。あの時、本屋で女の子に会っていなかったら、僕は作家にはなっていなかったかも……」
(星樹先生が、こんな風に、自分の過去を話してくれるのは珍しい!)
取材の中で過去の著作について触れることは今までもあったが、私的な事柄について語ることは少なかった。
冷静に聞き手にまわっていた小金井は、内心、歓喜した。
星樹の過去の姿を引き出すことが出来たのが自分であること。また、星樹という作家を形成していた一つの断片に触れたこと。そして何より、それを記事にする役目が自分にあるということ──小金井の記者魂が熱く震えた。
(だが、もっとだ。もっと、引き出せるはずだ!)
小金井はさらに質問を重ねる。
「確か星樹先生は、海外に住んでいた事がありましたよね?」
「ええ、親の都合で中学の時に、海外に引っ越しました」
「それも大きな転機だったと思うのですが。違う国で、色々な刺激を受けている中で、興味の対象が変わる事もあったはず……」
「確かに──」
小金井の言葉に、星樹は首肯する。
「新しい事を吸収できる環境にはあったので、色々なことに興味を持ちました。ただ……やっぱり新しい事を知ったり感動する事があっても、頭の中では『じゃあ、これをどう物語に活かすのか』という事しか考えてなくて……。うまく書けなくて腐った時期はありましたし、諦められたら楽だったんだろうけど……。あの時の女の子がもしかしたら待ってくれているかもしれない……、そう思ったら、自然に書いてたし、書くことが好きになりました。今もそれは変わらずです──」
星樹はそう答えたあと、懐かしい景色を思い出したように窓から差しこむ光に視線を移すと、微笑みを深めた。