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8

「なんや……篝はおらんのか」

 於仁丸はいささか気落ちした声でいった。

 お婆の屋敷の土間である。

「わしはおまえが篝と一緒におるかと思うとったぞ」

「そんなわけなかろう。今帰ったとこやぞ」

「ほんまに……そろそろ日も傾く頃やというのにのう」

「……まあええ。ほんならまた来るわ」

 踵を返し出て行こうとした於仁丸は、何ごとか思い直したようにまた振り向いた。

「これ……」と包みを差し出す。

 包みを解いたお婆は目を見張った。

「どないしたんや、こんな……立派なもんを……!」

「盗んできたとでも思うてか」

 於仁丸がいつもの憎まれ口でいった。

「この前の礼にと、鴇様から篝に頂戴したのや……誰か腕のええ女房に頼んで仕立ててもろてくれ」

「ありがたいことや……篝に……」

 お婆は丁寧にまた反物を包み直すと、それを押し戴いた。

 於仁丸は外へ出た。本当は篝に直接手渡して喜ぶ顔が見たかったが、仕方がない。一日でも早く渡しておけば、仕立て上がるのもそれだけ早いはずだ。

「…………」

 仕立て上がった着物はどれだけ美しく篝に添うことだろう……晴れ着姿を思い浮かべるだけで頬が緩む。

 道行く者が見たら、ひとりで歩きながら笑いを抑えかねている於仁丸はさぞかし胡乱に映ったことだろう。

 だが一方、於仁丸は胸中に刺さった微かな違和感を拭えずにいた。

 昨日、確かに篝に自分は夕刻には帰る、といった。それなのに篝はなぜいないのだろう……

 於仁丸は篝が待っていることを疑っていなかったし、実際これまでこうしたときに、篝がいなかったことは一度もないのだ。

 於仁丸は柑子こうじ色に染まり始めた空を見上げた。山の中腹にいつにない黒々とした烏の群が見える。

 ふと不吉なものを感じ、於仁丸は眉根を寄せた。


 於仁丸が空を見上げたその半時ほど後である。

 烏の群の下には黒髪村の男が数人、いずれも厳しい表情で立っていた。

 男達の目の前には無残な死体があった。切り飛ばされた手足にはそれぞれ矢が射込まれている。左足には二本の矢が刺さっていた。

 露わになった股間は裂けて陵辱の跡は明らかで、四肢を失った体躯は着物を剥がれ切り刻まれ、臓腑を引きずり出されている。

 傍らには切り落とされた首が転がっていた。

 死肉を喰らいに来たはいいが篝の毒に動けなくなったらしい烏や小さな獣、それらの死骸までがそこここに散らばって、周囲は戦場のごとき有り様であった。

「……これは……むごい……」

 ひとりがとうとう、呻くようにつぶやいた。

 何よりもむごいのは、その場の夥しい血の量から、生きながらに刻まれたことが明らかなことであった。

 男達は加賀からの帰りである。加賀では先頃大きな戦があり、一揆が守護を倒し国を打ち立てた。男達はその中にあり、ことの顛末をつぶさに見てきた。

 たまたま近くを通ったが、烏がやたらに騒ぐので、様子を見に来てこの惨状を目にしたのであった。

「誰か村へ戻って戸板を持ってこい」

 厳しい表情を崩さずひとりがいう。その目は篝をみつめたままだ。

「このままにはしておけん……」

 べつのひとりがようやく気づいたようにいった。

「そうや……於仁丸……」

「あかん!」

 先の男が鋭く制した。

「あれには」

 知らせるな──という言葉は途中で消えた。村へ向かうために踵を返した男の視線の先、わずかな崖の上に、今知らせるなといった当の於仁丸の姿があったからだ。

 いつからそこにそうしていたのかはわからない。男達が奇異に感じたのは木偶のように突っ立ったままの於仁丸に、全く表情がないことであった。

 驚きも怒りも、悲しみもない──まさに人形だ。

「……於仁丸……!」

 ひとりの声に、於仁丸の体が弾かれたようにびくんと動いた。

「……ア」

 みるみるうちに表情を取り戻す。それは歪み、喉の奥から絞り出されてきたのはまさに傷ついた獣の咆哮であった。

 於仁丸は転がるように崖を駆け下りると、何かを叫びながら走り寄ってきた。

 篝の名を呼んでいるのだろうが、それは言葉にはなっていない。

 男達が止める間もなく於仁丸は篝の骸をかき抱いた。於仁丸の体に押しつけられ、かつて篝であったものの中に残っていた、わずかな体液が押し出される。

 於仁丸の着物と体が、赤黒く染まった。

「あかん、於仁丸──」

「篝に触んな!」

 ひとりが於仁丸を引き離そうとした刹那、於仁丸は悲鳴のような声で叫ぶと稲妻の速さで腰の山刀うめがいを抜き、止めようとした男の胴を払った。

「うわ……っ!」

 男がのけぞり、飛びすさる。

 思いも寄らぬ攻撃から身を翻したのはさすがであったが、己れの前腕を掴んだ右手の指の間からひとすじの血が滴った。

「阿呆が!」

 一喝したのは先刻「戸板を持ってこい」といった男である。男は山刀を振り回す於仁丸の右手を捻り取り、これを叩き落とした。

 於仁丸は腕を掴まれたまま今度は右足を蹴り出した。男は苦もなくかわすと、逆に於仁丸の鳩尾に拳を突き入れた。そして掴んでいた手を放すや力任せに頬を張った。

 小柄な体が吹っ飛ぶ。於仁丸は受け身も取らずに河原に叩きつけられた。

「素破が頭に血が上って、あっさり当身を喰らいおって……!」

 男はいまいましげに吐き捨てた。於仁丸は体をくの字に折り、反吐を吐いている。

 立ち上がろうとしても、足が立たないようだ。表情は朦朧としていて口元の汚物を拭おうともしない……どうやら意識もはっきりしない様子であった。

「早う行け!於仁丸は縛り上げろ!」

 尖った声で男が叫ぶ。

「篝の血に触れた者は、川でよう洗い流しとけ」

 男達は無言でそれぞれやるべきことに取りかかった。

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