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最終話

 天津領は東を雨宮領と接し、三方を山に囲まれ南には平野が開けた国である。

 領内をほぼ縦断する川は美津川といい、雨宮領の山中に源流を発し、天津領を経て隣国へと続いている。

 天津領の中心地は、この川岸の段丘に広がっていた。

 だが与兵衛はこの町には入らず、隣村へと向かっていた。

 於仁丸も後を尾行る。

 与兵衛は午前中に村を出、街道に出る前に商人のなりに着替えていた。一方於仁丸は渋染めの上下、腰に山刀をたばさみ懐にも幾ばくかの武具を呑み、足元は脚絆と革足袋で固めている。

 いささか剣呑ないでたちであったが、於仁丸には往来で見咎められない自信があった。

 姿を見せなければいいだけだ。

 手甲には得物である夜条をたっぷりと巻きつけてある。

 このため普段は縫い込んで短くしてある上衣の袖は長く落ち、於仁丸の腕は指先まで隠れていた。ありていにいえば戦仕度である。

 与兵衛と争うつもりはもとよりなかったし、何より与兵衛の用向きは篝には全く関わりのないことかも知れなかったが、於仁丸は万に一つの念を入れたのだった。

 日が落ちて小半時もした頃である。

 田畑を過ぎ小振りな集落へ入ると、与兵衛はとある武家の門をくぐった。

 於仁丸も忍び込んだ。そしてそこが鴇姫の婚家、佐々家の屋敷であることを知った。

「…………」

 掌が汗ばんでいる。於仁丸は胸中で真言を唱えながら、奥歯を強く噛みしめた。そうしなければ口から心臓が飛び出てきそうだった。


 座敷では、鴇姫が幸隆に与兵衛を引きあわせたところである。

「よう来てくれた。わしが佐々幸隆や」

「与兵衛と申します。この度は鴇様の命により、まかり越しました」

 そういって頭を下げつつ、与兵衛は続けた。

「無礼を承知で申し上げます……これからの話、幸隆殿にのみお聞きいただきたく……」

「……鴇」

 幸隆は鴇姫を振り返った。

「わたくしはすぐに下がりますゆえ、気遣いは無用です。与兵衛と申しましたな、よろしゅう頼みます」

 あとで茶などお持ちしましょう……そういって鴇姫は去り、座敷にはふたりの男が残った。

「ちょうど良い……わしも鴇のおらぬ場で、おぬしに聞きたいことがあった」

 鴇姫が去ったのを確認し、幸隆が口を開いた。

「何でしょう」

「ぬしら何者で鴇とはどういう関係や?あれに聞いても答えぬでな」

 与兵衛は顔を上げ、幸隆を見た。口元には笑みを含んでいる。

「鴇様が申されぬことを、わしが語るとお思いですか?」

「…………」

「今は黙ってわしらをお信じくだされ」

 与兵衛はそういうと、話を続けた。

「腐って死んだという侍のことや……あれらはその二日前、国境の山中で娘をひとり嬲り殺しにしてましてな」

「…………」

 幸隆は眉を顰めた。

「この娘、実は毒を持ってましてな。侍が死んだのはまあ、おのが非道の報いというやつや」

「……娘が毒を?なんでそれがわかる?」

「近隣の村の者が骸を見つけました。切り刻まれた骸はもとより、死肉や血を啜りに来た獣や烏の死骸までがそこら中に散らばって、それはひどい有り様やったとか……」

「…………」

「娘の骸に触れた者には、かぶれたようになった者もおるそうや。そら男の摩羅なんぞひとたまりもないわなあ」

 与兵衛はなぜかくっくっと喉の奥で笑いを漏らした。

「……それは気の毒なことやが……やったのがあのふたりとなぜわかる?」

「侍の屋敷にて裏を取りました。二日前、上機嫌で血の付いた着物で帰ってきたそうや。どなたとご一緒やったかも掴んでます。

 下人らがこそこそ噂しとりましたわ……腐って死んだは殺された者の祟りに違いないとな……」

 ここでまた、与兵衛は口元を歪めた。

「この分ではわしらが何もせずとも、早晩領内に噂が広がるやも知れませんなあ」

 幸隆にはとうてい笑える話ではなかった。

 それは屋根裏に潜んだ於仁丸も同様であった。


 幸隆が与兵衛の話を辛抱強く聞いていた頃、戌郎は他の使用人に頼まれて鉈を研いでいた。本当は日が暮れる前に終わらせたかったのだが、雑用にかまけて遅くなってしまったのだ。

 ようやく研ぎ終えた鉈を持ち戌郎は下人小屋へ向かったが、ふと違和感を覚え立ち止まった。

「…………」

 今夜与兵衛が来ることは知っていた。この違和感は与兵衛ではない。

 戌郎はギンを呼んだ。

 ギンはほどなくやって来た……が、どうも様子がおかしい。心許ない足取りで尾を下げ、しきりに鼻を鳴らしている。

「──!」

 戌郎はさっと頬を緊張させると、足音もなく屋敷へと走った。


「まあさようなことにて」

 座敷では与兵衛が話を続けていた。

「御身の無実は明白にございます。刺客などというものももとより存在せぬ……」

「しかしそれを証明するのは難しかろう……その村の者に話をさせても、信じていただけるかどうか……」

「さあそのことでございます……」

 与兵衛は身をかがめるようにして声を落とした。

「これから話すことは、今、ここだけのこととしていただきとう存じます」

「……?わかった」

 幸隆は怪訝そうな表情をしたが、素直に応えた。

「……実は先に申し上げた殺された娘というのは、わしらにゆかりの者にございましてな」

「……!」

 思わず顔を上げた幸隆だったが、次の刹那、顔色を変えた。

「待て……!それでは──」

「さよう、いささか厄介な仕儀と相成りました……

 全くの偶然とは申せ、無関係を証すはずが、鴇様もご存じの娘とあってはなあ」

「…………」

 幸隆は眉根を寄せ、口元を手で覆った。

 与兵衛はそんな幸隆に頓着するふうもなく、例のいささか皮肉な調子で続けた。

「その上失礼ながら天津の殿様幸政殿は、弟君がお気に召さぬご様子。それでのうてもご自分も毒に当たって死にかけた挙げ句、不具になってもうたとあっては、幸隆殿が何をいうても納得する訳がおませんわな」


 天津幸政──!

 全身の毛が逆立った。於仁丸はその名を目のくらむ思いで聞いた。

 その時である。座敷では障子が音もなく開いた。

 思わずそちらを見やった幸隆は、その場に控えているのが戌郎であるのを見て取った。戌郎の指は唇に当てられ、静かに、と示している。

 次の刹那、戌郎は立ち上がりざま座敷に飛び込み、手にした鉈を天井に向かって投げつけた。

 天井板が割れて吹き飛ぶ。

「!」

 鉈は反射的に身を反らした於仁丸の脇腹をかすめ、梁にめり込んだ。

 座敷のふたりも立ち上がった。

「くせ者や!」

 与兵衛が手裏剣を撃つ。

 軒裏を破る音がした。戌郎はもう一本の鉈を掴むと外へと走り出、そこにある影に向かって撃った。影の長い腕が動いたかと思うと、鉈は戌郎に向かいうなりを上げて返ってきた。

 戌郎はそれを拳でたたき落とした。

 雲が切れ、望月が姿を現す。

 戌郎と与兵衛は月明かりにその影の顔を見た。

「…………」

 縁側では手燭の明かりが揺れた。

 呆然とそこに立っていたのは鴇姫である。

「っ!」

 戌郎が駆け寄り鴇姫を抱きしめて飛びすさるのと、姫の手を離れた手燭の燈芯が切られて落ちたのはほぼ同時であった。

 その刹那、影は何かを地面に叩きつけた。

 ばしん!と大きな爆ぜる音がした。騒ぎに屋敷の者が集まってきた。一帯に煙と異臭が立ちこめる。

 幸隆は耐えきれず激しく咳き込んだ。喉も目も、焼けつくように痛んだ。

「目ぇをこすったらあかん!水で洗いなされ!」

 与兵衛が袖で口元を覆ったまま叫ぶ。

「誰も近寄るな!水や!」

 戌郎は鴇姫を抱き、これを庇ったたまま縁側から転げ落ちた。そのまま風上へと逃れると姫から離れ、夜空に向かって鋭く指笛を吹いた。

 ほどなく現れたのは隼である。それは羽ばたきながら戌郎の腕へと降りた。

 与兵衛は矢立を取り出すと何ごとかを書きつけ、こよりに撚って戌郎に渡す。戌郎はそれを隼の脚に嵌めた環に結びつけた。

 隼を据えた腕を空へと突き出す。隼は大きく翼を広げ舞い上がり、羽ばたくと旋回して夜空へ消えた。

 ほんのわずかな間のことであった。

「…………」

 幸隆は痛む目でこの間の戌郎と与兵衛を見ていた。

 半ば呆然とした面持ちである。

 幸隆は婚礼の前、戌郎も引き受けたいと申し出たときの雨宮知徳の言葉を思い出していた。

「よろしゅうございます。幸隆殿が承知なら、あれも連れて行きなされ。あれは鴇の機嫌をとるのが誰よりも上手いでな」

 そういって笑ったあと、知徳はこう続けたのだ。

「戌郎はああ見えてなかなか使える男や。あれの能は何も鴇のお守りだけやない……いずれ幸隆殿のお役にも立ちましょう」

 その時幸隆は曖昧に笑顔を返しただけであった。

 知徳殿は、あの時本気やったのや……幸隆はようやく知徳の本心に気がついた。

 戌郎は鴇姫のみならず、幸隆をも守るために雨宮家から送り込まれた番犬なのだ。

 鴇姫が嘆願したからではなく、ましてや自分が口添えしたからでもなく、最初から知徳殿はそのつもりやったのや──  

 そして戌郎自身が己れの役割を十分に心得ていることも、今しがたの働きを見れば明らかであった。

 鴇姫もまた、初めて目にした戌郎の、鬼気に満ちた形相と身のこなしに圧倒されていた。

 ためらうことなく影に向かって鉈を投げ、逆に飛んできたそれを素手で打ち落とした。

 鴇姫を守るために跳んだときも、何の躊躇もなかった。

 そして隼──

 鴇姫は戌郎が隼を操るのを初めて見た。10年以上を身内も同然に過ごした戌郎、よく知っていると思い込んでいた存在が実はその力の大半を隠していたことを、鴇姫は今夜こそ思い知ったのである。


「……戌郎……!」

 ようやく絞り出したような、鴇姫のわななく声に幸隆は我に返った。

 戌郎はすでに外縁に座らせた鴇姫の傍らに跪き、姫の着物の泥を丁寧に払っていた。表情には厳しさがまだ残っていたが落ち着きを取り戻し、その手の動きにも先刻鉈を掴み投げた荒々しさはなかった。

「何や……あれは……さっきの……」

 戌郎は目を伏せたまま、鴇姫の着物を払い続けている。よく見ると右手の袖口が裂け、血が滲んでいた。どうやら先刻叩き落とした鉈の刃が触れたらしい。

「鴇」

 幸隆の声に鴇姫は弾かれたように顔を上げた。

「幸隆様……!

 あれは……さっきの……」

 声を震わせ、ひとつことを繰り返す。その表情は歪み、大きな瞳からは今にも涙がこぼれ落ちそうに見えた。

「もう今夜はやすみなさい。わしはまだ与兵衛と話がある──戌郎」

 戌郎は振り返り、声の主を見た。

「鴇を連れて行け。鴇、戌郎の手当をしてやれ」

 戌郎は立ち上がると、ためらいがちにうながすように鴇姫の肩に触れた。

 鴇姫ものろのろと立ち上がった。

「おまえらももう行け。片づけは明日でええ」

 幸隆は集まった使用人の不安そうな顔に向かっていった。

「きつくいうておくが今夜のこと、他言無用や。互いに話してもならぬ。何かわしの耳に入ってくるようなことがあれば、必ずその舌を抜いてやるからそう思え」

 幸隆の隻眼には鋭い光があり、その声は厳しかった。

 これを穏やかな若当主とばかり思っていた佐々家の使用人は、初めて見る主人の激しさにたじろいだ。


 於仁丸は月に向かい、夜を駈けていた。

 戌郎は隼を放っただろう。佐々屋敷を脱出した時、於仁丸は戌郎の指笛を確かに聞いた。

 望月は禍々しいほどに皓々と輝き、白く明るく夜を照らしている。

 隼は間違いなく、於仁丸より先に黒髪村へと辿り着くはずであった。

 わしは何もわかってなかったのや……

 於仁丸はあふれそうになる涙を必死で堪えながら駈け続けた。

 村衆が隠していることを知るとはどういうことなのか、本当には何も理解していなかった。

 お爺にも二度と会えぬ。

 与兵衛、すなわち村衆とことを構えることになるやも知れぬ、とまでは考えたのに、なぜお爺の姿も見ず、声もかけずに黙って出てきたのか……

 せめてひとこと……ただたわいないひとことで良かったのに……

 お爺は今頃、夜更けても戻らぬ於仁丸の身を案じているに違いなかった。

 そして明日、早ければ今夜中にも於仁丸の出奔を知るはずだ。

 於仁丸は激しく悔やみ、己れを責めていた。

 村へ戻れば仕置きが待っているのは目に見えている。於仁丸が恐れたのはそのことではなかった。

 復讐の目は失われ、二度と村の外へは出られないだろう。少なくとも仇である隣国領主、主家の姫が夫の兄が滅びるまでは。

 もう村へは戻れない──

 それでも於仁丸は、来た道をひた走った。


 夜半、於仁丸が姿を現したのは黒髪村ではなく草場であった。

 正気を取り戻した後も、どうしても訪うことの出来なかった場所だ。

 しかし今夜は、於仁丸にはここに来なければならない理由があった。

  村ではおそらく、すでに捕縛の網を張っていると思われたが、ここにはまだ人影も気配もなかった。

 赤い花が一面に咲き乱れていた。すでに傾きかけた月の光に、真紅が妖しく浮かび上がって見えた。

 花の血の色を踏みしだき、於仁丸は歩く。

 まだ新しい土の盛られた跡があり、於仁丸はそこに跪いた。

 懐から取り出した苦無で盛り土を掘る。しばらくそうしていると見覚えのあるきれが出てきた。

 於仁丸は用心深く一層掘り進め、やがて苦無を傍らに突き立てると手を使い始めた。

「……篝」

 震える声で小さくその名を呼ぶ。

 於仁丸は土の中に両手を差し入れ、それを掘り出した。

 かつては愛しい篝であった。今は変わり果て誰もが目をそむけずにはいられないそれを、於仁丸はためらわず胸に抱きしめた。

「わしと行こう、篝……約束したやろ……ずっと一緒や……」

 着物の袂を切り、それで篝の首を包む。

 於仁丸は丁寧に土を埋め戻すと、包みを抱いて立ち上がった。

 この日を最後に於仁丸は村から姿を消し、二度とここに戻ることはなかった。

 小さな影が夜の闇へと融けるのを、草場の赤い花だけが見送った。



於仁丸出奔/了


一章了。

お読み下さった皆様、ありがとうございました。

二章もまた、こちらに投稿の予定です。そのうち見かけましたら、読んでやってください。

また何か感想などありましたら、ぜひお聞かせ下さい。

評価もいただけましたら幸いです。

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