13
正気を取り戻して以来、心身の不調もあってまるで技の修練に身の入らなかった於仁丸だったが、このところまた熱心に取り組み始めていた。
しかしお爺には喜ばしいとばかりも思えなかった。於仁丸の瞳は不穏な熱を帯び、その表情はひどく張りつめていた。
於仁丸は、なかなか痺れの取れない指先を気にかけながら考えていた。
──戌郎がこの村に現れた……
多分、婚家で何か大きな問題が起こったのだろう。そうでなければ鴇姫の輿入れの直後という時期に、戌郎がわざわざやって来る理由がない。
しかもその理由を、お爺を含めた村人はどうやら自分には知らせたくないらしい──
自分には伏せておきたい理由となれば、もう答えはひとつしかなかった。
篝に関する何かだ……
「…………」
いつまでも無為に過ごしている訳にはいかない。一刻も早く勘と技を取り戻さなければ、いざというときに動けない。
もし篝の仇が生きているのなら、必ずわしが仇を討つ……!
村人が己れに対し冷淡な無関心を示す理由にも、今はもう気づいている。於仁丸はもう、村人に戌郎について問うことはしなかった。ただ全身の神経をそそけ立たせるようにして、どこかにあるはずの微かな手がかりを感じ取ろうとしていた。
「おまえ何か……良からぬことを企んどるのと違うやろな」
その夜、囲炉裏を挟み、とうとうお爺が耐えかねたように言った。
「…………」
「……於仁丸」
「良からぬことて、何や」
箸で椀の中身をつつきながら、目を伏せたまま於仁丸が応えた。
お爺はしばらく黙っていたが、やがて苦しそうに
「篝のことや……おまえ……仇討ちやの何やのと考えとるのと違うか──」と言った。
「仇討ち?」
於仁丸が顔を上げた。口元が奇妙に歪んでいる。
「そら仇が生きとればな。わしが必ず殺してやる……そやけど」
「…………」
「どうせもうくたばっとるわ。仇討ちもしようがなかろう」
お爺は於仁丸の手が微かに震えているのを見た。於仁丸は椀と箸を置くとその手をもう一方の手で掴み、立ち上がった。
「於仁丸」
出て行こうとする於仁丸にお爺が声をかけた。
「篝のことはもうあきらめえ……!あれは運がなかったのや」
「わかっとる……!」
於仁丸はひとこと言い捨てると、夜の中へと出て行った。
於仁丸の心は乱れていた。
やはりお爺は気づいていたのだ……しかしそれを口にするとは、於仁丸は思ってもいなかった。
気づいていることを明らかにしようがしまいが、いわれて引く自分ではないことはお爺もよく知っているはずではないか。
なぜお爺は今に至ってあんなことを──
ざわついた心のままに夜の村を歩きまわっていた於仁丸は、月明かりに遠く人影をみとめ、慌てて身を隠した。
瞬く間に心のざわめきは重く沈み、頭が冷たく冴えてくる。
人影は村の者だがここしばらくは見かけなかった顔だった。尤も村には常に人の出入りがあったから、これは特に奇異なことでもなかった。
しかし今の於仁丸は、常と違うことがあれば、それがどんなにささやかなことでも反応せずにはいられなかった。於仁丸は秘かに男を尾行た。
男は村長の屋敷へと消えた。
「…………」
村長の屋敷に忍ぶのはさすがに拙い。於仁丸がこれまでにこなしたことがあるのは取るに足らない間諜ばかりであったが、本来村長の所に集まる諜報がどういう類のものかは承知していた。
余計なことを聞いた上に見つかりでもしたら、その場で殺されても文句はいえない。
於仁丸は近くに身を潜めたまま、男が出てくるのを待った。
半時ほどの後、出てきたのは先の男ともうひとり、これは四十がらみの与兵衛という男である。
迷ったが、於仁丸は与兵衛の小屋へと走った。
与兵衛には妻子がある。ふたりの会話を何か聞けるかも知れない。
待宵の月が辺りを明るく照らしていた。その分影は暗く濃い。
於仁丸は小屋の影へと身を潜めた。
屋内の会話が聞こえてきた。
「ホラ、もう寝え」
「いやや、また明日からおらへんのやろ?お父が帰るまで待っとる!」
「明日だけや。近くまで行くだけやから出かけるのも昼からやし、明後日には戻る」
それだけ聞けば十分だった。於仁丸は与兵衛が戻る前にその場を離れた。