12
翌朝。
村長の屋敷を訪なったお婆は囚人に呼びかけられ、驚いて振り返った。
「おまえ……!正気に戻ったのか?」
「腹が減って動けん……何か食わせてくれ」
その声はかすれて小さかったが、以前の張りを取り戻していた。
知らせを受け、すぐさまお爺がやって来た。於仁丸はお爺に支えられ、帰って行った。
夕刻、お婆はお爺の小屋を訪ねた。
「於仁丸の様子はどうや……」
お爺は顎を少し動かした。
目線の先に於仁丸の姿がある。於仁丸は体を柱にもたせかけ、所在なげに己れの手を見ていた。
「於仁丸」
「……指が」
独り言のように於仁丸がごちた。かすれた声はそのままである。
「よう動かん……痺れて……」
「長い間きつう縛られとったらようなることや。心配いらん。そのうち治る」
お爺は近づいてそういうと、手を伸ばし於仁丸の指を優しく揉んだ。於仁丸は笑いもせず嫌がりもせず、お爺のするままになっていた。
「於仁丸」
再びお婆が呼びかける。お婆は於仁丸の前に座り、言葉を継いだ。
「わしが今日来たのはな、これをおまえに渡すためや」
そういって懐から取り出したのは、ひと房の黒髪である。紙に包まれたそれを上から束ねてあるのは、いつも篝の髪を飾っていた赤い髪紐であった。
「…………」
於仁丸の表情が少し歪んだ。
「篝にはあの着物を着せたった……それはよう似合うとったぞ……」
「篝……」
於仁丸の唇がわなないた。
「埋めたのか……篝を……あんなじめじめした、蛆や地虫がいっぱいおるとこに……」
「土が篝の毒を清めてくれる」
お婆が静かにいった。
「あれもきれいな体であの世に行けるやろ……」
「……っ」
震える手で遺髪を取ると、於仁丸はそれを握り締め顔を伏せた。
嗚咽すら漏らさず、ただ肩が小さく震えている。お爺にもお婆にも言葉はなかった。
於仁丸の声は結局元には戻らなかった。
どうやら加減も知らずに大声で泣き叫んだ結果、喉をつぶしてしまったものらしい。
夜毎にうなされているのをお爺は知っていたが、どうしてやることも出来なかった。
篝の無残な姿が、何度振り払っても瞼に蘇る。そのたびに拳が震え、暗い炎が心を灼いた。
しかしその怒りは、どこにもぶつけようのないものであった。篝の仇はすでにこの世にないはずだった。
以前の自信に溢れた快活さは影を潜め、人が変わったかのような於仁丸に、村人達は冷淡ともいえる無関心さを示した。於仁丸にとってもその方が都合が良かった。篝を奪われ、その仇さえ討てぬ──於仁丸には何もかもが虚しく無意味だった。
だがお爺は知っていた。村人のそっけない反応は、実は於仁丸が仇の存在に気づくのを恐れるがゆえであることを。
このあやうい均衡は、あるときふとしたきっかけで崩れた。
その日、於仁丸が畦道ですれ違ったのは、村長の屋敷で下働きをしている男であった。
折からの突風に男が首から提げていた手拭いが飛んだ。於仁丸は難なくそれを掴み取ると、男に手渡した。
「元気そうやな……良かった」
何の言葉もかけないのは気詰まりであったのか、男はいささかぎこちない笑顔を作るとそういった。
「…………」
「正直、もうあかんかと思うたが……戌郎がおって良かったな」
於仁丸が男を見た。男の表情に一瞬動揺が走ったのを、於仁丸は見逃さなかった。
「戌郎が来とったのか……?なんでや?」
「……そら、鴇様のお輿入れが無事に済んだ報告に決まっとるやろうが」
男はそれだけをいうと、そそくさと立ち去った。
「お爺」
小屋に戻った於仁丸はお爺に声をかけた。
「うん?なんや?」
お爺は機嫌良く答えた。於仁丸はすっかり無口になり、自分から口を開くこともなくなっていたから、久々に呼びかけられたことが嬉しかった。
「わしが呆けとった間に戌郎が来たのか?」
「…………」
お爺の表情は少し固くなった。だがすぐそれを緩めると、いつもの調子で
「そうや。長様のところに、鴇様のお輿入れの報告に来たのや」と答えた。
先の男と変わらない返答である。だが於仁丸は微かな違和感を覚えた。
自分が正気を取り戻したのは輿入れから2日目の朝だ。それ以前に現れたということだから、戌郎が本当に輿入れの報告に来たのなら、それは輿入れの当日深夜から翌日中ということになる。
別段必要もないのにそんなに急いて、わざわざこの村まで無事を伝えに来るものだろうか……
さっきの男が一瞬見せた表情が、小さな棘のように心にひっかかっていた。
さりげなさを装い、於仁丸は訊ねた。
「輿入れ先でなんぞあったんかな……?」
「さあな」
お爺の答えはそっけなかった。