11
幸隆はその日、陽も暮れようという時分にようやく帰ってきた。
長らく待たされたのであろう、足を引きずりつらそうな幸隆に、鴇姫はすぐさま薬湯を用意した。
「お殿様のお加減はいかがでしたか……?」
おそるおそる訊ねた鴇姫を幸隆は見やった。心を痛めているのがその表情からも読み取れる。
「お命に別状はない……そなたは何も心配せんでええ」
幸隆は笑顔を作るといった。しかしその笑顔にも疲労が色濃く滲んでいる。
幸隆は一息つけると、
「兼嗣殿に報告してくる」と部屋を出た。
「…………」
不安げな姫の顔色が見えるようだ……部屋の外に侍った戌郎は思った。
鴇姫の命があれば、今度こそこの後の会話を聞き取ったあとは余さず知らせるつもりでいたが、姫はついに「夫と舅の会話を諜報せよ」とはいわなかった。
兼嗣の居室に向かった幸隆を追い、戌郎も音もなくその場を離れた。
幸隆は先代に簡単に幸政と殿中の様子を伝えた。
「殿も今や一国の主となられ、また敵も少のうないお方にて」
と、最後にいささか皮肉な口調で一言を添えて幸隆がいった。
「私のみをお疑いな訳でもなさそうやったが……それでも殿に何かあれば、私が一番に疑われるのは必定や──そやから当方で必ず下手人を挙げると申し上げてきました。
出来るかどうかはわからぬが、身の潔白を証明するにはそれしかない……」
「うむ……」
先代は頷いたが、
「しかしこれは……殿はそなたには決して子細を漏らさんやろうし、骨が折れる話やな」といった。
「……まことに申し訳なく……」
「他人行儀はやめよ。そなたはもう、佐々家の大事な跡取りや」
幸隆を遮り、先代はきっぱりといった。
「幸隆殿ご自身がそういわれたのですぞ。わしはもう佐々家の人間や、これからはこの兼嗣を父と思うて尽くすゆえ、そのように扱うてくれとな。
わしはどれだけ……そのお言葉が嬉しかったか……」
「…………」
「美しい嫁御も守ってやらねばならん。あれには何も話しておらんのですか?今朝見かけたとき、あれは涙ぐまんばかりやったが」
「……申し訳ありませぬ……」
幸隆は再度詫びると深々と頭を下げた。
老人の許を辞した幸隆は、ふと気づくと屋敷の裏手に来ていた。そこには厩があり、幸隆はその一角を姫の従者に与えていた。
狭くとも粗末でも構わぬゆえ、戌郎を他の下人と一緒には住まわせないでほしいとの姫の希望を容れた結果である。
「…………」
幸隆はしばらく黙ってその場に立っていたが、やがて従者の名を呼んだ。
「戌郎」
戌郎はいずこからか姿を現し、幸隆の前に手をついた。
「よい、楽にいたせ」
また歩き始めた幸隆に従い、戌郎も後に続く。
幸隆は己れの心を測りかねていた。
戌郎の名を呼んではみたが、幸隆はこの下人が特に気に入っている訳でもなければ信頼している訳でもなかった。
戌郎を連れて行けるよう父に口添えしてほしいと頼まれたとき幸隆は快諾したが、実は心中はいささか複雑であった。
鴇姫の愛や信頼を幸隆は疑っていなかったが、それとは別に姫の戌郎に対する無条件の安心を、己れに対してはないものだと感じていた。
だがそれも、ふたりが共に過ごしたこれまでの時間を思えば奇異に思うにはあたらない。これから鴇姫とふたり、時間をかけてこの上ない関係を作っていけばよい……幸隆は己れにそう言い聞かせた。
今は幼い頃から妻に付き従ってきたこの男に、問うてみたいことがあった。
「戌郎、おまえはどう思う……」
幸隆はついに口を開いた。
「殿がどうやら毒を盛られたらしい……ご一命は取りとめられたが、殿はわしをお疑いや。鴇のことも悪し様に申された。他国から来た嫁なれば、何か企んでおるに相違ない、婚礼の夜に変事が起きたはその証やとな」
「…………」
姫のくだりは、幸隆は先代にも語っていない。
どうやら己れが考えているよりは、幸隆もまたこの唖の下人を信じているようであった。
「わしは殿に、必ず下手人を挙げてみせると申し上げたが……」
幸隆は言いよどんだ。
「正直なところ、どうしたものか……」
答えが返ってくる訳もない。幸隆は続けた。
「情けないこの身を晒すのは耐え難いが、……わしは知徳殿に助けを乞うつもりや」
「…………」
幸隆の言葉に戌郎はいささか驚いていた。
戌郎自身、ことの真相を探るには雨宮知徳、ひいては黒髪村衆を頼るが上策と考えていたが、その解に気づいても、幸隆は今しばらく逡巡するのではないかと思っていたからだ。
「しかしそのためには、鴇に此度の子細を打ち明けねばならん……
わしはあれに心配をかけとうないし、何より傷つけとうない──」
戌郎は手を上げた。が、幸隆が戌郎の手振りを読めぬことに気づき、いったん上げたそれを下ろした。
戌郎のその様子に、幸隆も気づいて言葉を変えた。
「鴇にはいうに及ばぬか」
反応がないのを見て、新たに言葉を継ぐ。
「……では、打ち明けよと申すか……?」
戌郎は頷いた。
鴇姫の傷つく様は戌郎も見たくはない。しかし姫が知れば、必ず戌郎を頼るはずだった。
そうすればわしが動く──
「……これから鴇に話そう。戌郎、おまえも参れ」
ふたりは踵を返し、屋敷へと向かった。
大まかな経緯を聞いた鴇姫の反応は、概ね戌郎の考えた通りであった。
鴇姫は父、雨宮知徳を頼るのは少しだけ待ってくれといった。
「わたくしも雨宮知徳の娘……多少の手蔓がございます。ほんのしばらく、わたくしに時間を下さりませ」
「鴇、そなた……」
幸隆は不安を隠さずにいった。
「何か危ないことを考えているのやなかろうな?わしはそなたに危ない目を見させるくらいやったら、土下座してでも雨宮殿に助けを乞うぞ」
「ご心配は無用です。決して危ないことはいたしません……わたくしの方で対処できぬようやったら、すぐさま手を引いて父を頼りますゆえ」
幸隆はちらりと下座の戌郎を見やった。戌郎が頷く。
どうやらこの男もまた、姫のいう手蔓に心当たりがあるらしかった。
「その手蔓とやら……わしが問うても、答えはせんのやろうな」
「お許し下さい」
鴇姫は手をつき頭を垂れた。
「時が来れば、必ずお話しいたします」
それから戌郎を見た。
「戌郎。行ってくれるな」
戌郎は頷き、立ち上がった。
半刻ほどの後である。屋敷の裏に戌郎はギンを呼んだ。
戌郎のいでたちは多少足元を固め山刀を腰に差した他は、いつもと大差のない軽装であった。
戌郎はギンがやって来たのを見、懐から苦無を取り出すと地面に置いた。飛び苦無とも呼ぶ小振りのそれを、ギンは器用に銜えるといずこかへ運んで行った。
ギンを見送り、屋敷を抜け出す。
戌郎は閂を下ろした門は通らず塀を飛び越えた。軽々とした猿のごとき身のこなしであった。
「此度のこと、幸隆様は知らず鴇の一存で参ったと必ず伝えておくれ。
またおまえらの主が父上であることは、鴇も重々承知しています。父の判断が必要やと思うたら、父に知らせてかまいません……そやからなるべく力を貸してくれるよう、おまえからもくれぐれもよう頼んでおくれ」
姫の言葉を胸に畳み、闇の中を駈ける。今宵は天空に星があり、初めての夜道でも迷う気遣いはなかった。
数刻で村に着いたが、戌郎は村の空気が常とは違うことに気がついた。
冷たく張りつめた、不穏な空気である。
「…………」
不審に思いながらも当初の目的通り村長の屋敷を訪ねた。
屋敷の外れの土牢に人の気配を感じ、それとなく覗き込んだ戌郎は思わず息を呑んだ。
そこにはきつく縛められ、轡まで噛まされた於仁丸の姿があった。於仁丸は目覚めていたが、生気も表情もなくまるで人形のようで、すぐそばにいる戌郎にも気づかないようであった。
「…………」
一瞬逡巡したが戌郎はその場を離れた。
まずは村長と年寄りたちに会わねばならぬ。
「おお、戌郎か。こんな時分にどないした。鴇様は無事に輿入れなされたのか」
村長が気づいて声をかけた。
戌郎は頷いた。両手が上がる。
ひめさま からの でんごん
戌郎の手振りを読んでいた村長は、表情を引き締めると
「……待っとれ。すぐに他の者を集める」といった。
戌郎が語ったあらましはこうであった。
鴇姫が幸隆に嫁した夜に天津家の家臣がふたり、苦しみながら果てた。
幸政の側近であったこのふたりの陽物は腐り落ちていたという。
幸隆の兄であり主君である幸政にも変調が現れており、今は薬師がつききりで診ているが、どうやら毒を盛られたらしい。嫌疑は幸政と折り合いの悪い弟幸隆、その妻鴇姫にかけられている。
刺客とその目的を明らかにし、夫と己れへ向けられた疑いを晴らすために村衆の力を借りたい。それが姫からの嘆願である、と戌郎は続けた。
「…………」
その場に居合わせた面々は、戌郎の話を聞き終えても誰も言葉を発しなかった。座敷の重苦しい空気は村を覆うそれと同じものだ。
「……?」
戌郎は眉を顰めた。
なにか あったのか?
耐えきれず、訊ねる。
ろうで おにまるを みた
おにまるが なにか したのか
ようやく年寄りのひとりが重い口を開いた。
「……篝が殺されたのや」
「────」
脳天を殴られたような衝撃。年寄りの言葉は耳には入ったが、言葉の意味がよく理解できない。
……篝が、殺された……?
かがりが……ころされた……
幼い頃から下男として姫の身近に仕えてきた戌郎は、篝とはほとんど触れあった記憶はない。
だが篝の愛らしさには見かけるごとに目を奪われたし、於仁丸が身を尽くし、舐めるように愛おしんでいたのも知っている。篝は死の影など微塵もない美しい少女であった。
何より先日この村で、於仁丸のそばに寄り添い輝くような姿を見たばかりではないか。
その篝が……殺された……
なぜ──
「…………」
「むごい殺されようやった」
年寄りはそれだけを短くいった。
戦場で数多の死を見てきた男がそういうには、よほどにひどいありさまであったのか、と戌郎も暗澹とした気持ちになった。
それで先刻の於仁丸の、魂が抜けたようなありさまにも合点がいった。
「於仁丸の阿呆がわめくわ暴れるわでかなわんから……しょうがなくああやって牢に放り込んであるのや」
「そういえばあやつ、篝の骸をかき抱いて泣きわめいておったが」
と、別の男がいった。
「なんであやつはあれほどの篝の血にまみれながら平気でおるのや?」
「……!」
唐突に篝が殺されたと知らされ、先刻見た於仁丸の無惨な様子にすっかり心を奪われていた戌郎だったが、ここに来てようやくふたつの事件が結びついた。
天津家の怪事と篝の非業の死。嫌な符丁に戌郎の心は騒いだ。
「……あれはな」
これまで黙っていたお婆の声に、皆が振り返る。
「あれはほんの餓鬼の時分から、この婆の毒を盗み舐めておったのよ……ただ篝に触れたい一心でな」
お婆の言葉に、座敷の男達はまた押し黙った。
「於仁丸の耳にはこのこと、絶対に入れてはならん」
しばらくのちにようやく口を開いた村長は低く、だが厳しい声でいった。
「知ったらあやつ、何をしでかすかわからんぞ」
それは居合わせた者全てが抱いた、強い懸念であった。
「戌郎」
村長が戌郎を見た。
「この話、必要あらばお館様に通じてもええ、と鴇様はそう仰ったのやな?」
戌郎は頷いた。
「鴇様には確かに賜ったと伝えてくれ。わしらがちゃんと裏を取ったる……どのみち篝のことも捨ておけんと思うとったのや」
そして長は続けた。
「お館様かてせっかく鴇様をくれてやった幸隆が腹を切らされでもしたら、たまったもんやなかろうしな」
戌郎はその場を辞した後、再び牢へと廻った。
一刻も早く鴇姫の許へ戻るべきだったが、於仁丸が気がかりだったのだ。
ちょうど様子を見に来たらしい村人の手には粥の入った器があったが、これはすっかり冷えて固くなっていた。
若いこの男は
「全く食べんのや……無理矢理食わせても吐いてしまうし、もう相当に参っとるはずやが……あれは突然泣きわめいて暴れる他は呆けとるばっかりや」といった。
「よもや篝の後を追うつもりやあるまいなあ……源爺も心配なことや」
「…………」
戌郎は男を促し牢の閂を外させた。
轡を外しても於仁丸は何の反応も示さなかった。ただ少し身じろぎしただけだ。
手燭の明かりの中で見ると、於仁丸の唇は乾いてひび割れ、頬は蝋のように白かった。一方縛られた手指は暴れるせいか縄が食い込み、赤黒く腫れ上がっている。触れてみると死人のように冷たい。
戌郎は傍らに座ると於仁丸を己れに寄りかからせ、腕の縄を慎重に解いた。
於仁丸の表情が歪み、呻き声が上がる。気遣わしげな素振りを見せた男を戌郎は制し、重湯を、と示した。
男が戻るまでの間、戌郎は縄を全て解き於仁丸を抱いて、腫れて痺れた手足をゆっくりとさすってやった。それでも激しく痛むのか、於仁丸は時折小さく呻いた。
戌郎の心も痛んだ。力なく身をまかせ、されるがままのこの哀れな虜囚が己れの知る於仁丸と同じ人間だとは、とうてい思えなかった。
ほんの数日前、於仁丸は快活で自信に溢れた少年だった。
男が戻った。戌郎は重湯の器を受け取るとそれを口に含み、於仁丸の頭を抱いてその口に少しずつ流し入れた。
於仁丸の喉がこくりと動く。
戌郎はそれを確かめながら、ひとつことをゆっくりと何度も繰り返した。
戌郎には生まれて間もない仔犬や目も開かぬ雛を懐で温め、乳を銜ませ擂り餌を与えて育てた経験がある。今の於仁丸はそんな幼くか弱い者と同じだ、と思った。己が命も同然のものを突然理不尽に奪われ、心をもがれたのだ。心がなければ赤子も同じ、手を貸し助けてやらねば生きられる訳がないではないか……
「…………」
傍らの男はただ、戌郎がすることを見ていた。男は何も言わなかった。
戌郎が佐々家に帰り着いたのは夜明け前、七ツの頃である。
鴇姫はすでに寝んでいるものと思っていたが居室には明かりがあった。戌郎はそっと近づくと障子の桟に触れ、とんとんとん、と三度打った。
それは口の利けない戌郎の符丁であった。
「戌郎か?」
驚いたような小さな声がし、部屋の主が立ち上がり、近づく気配がした。
静かに障子が開いた。頭を上げると間近に姫の顔があった。
「もう行ってきてくれたのか……戌郎……村長はなんというとった……?」
微笑み、頷いてみせる。
鴇姫も安堵した表情になった。
そやから もう おやすみなさいませ
「おまえもほんまにご苦労やった……詳しい話は改めて聞くゆえ、ゆっくりおやすみ」
戌郎は頭を下げると静かに障子を閉めた。
厩に戻り、筵の上に横になる。
鴇姫がひとりの空間を与えてくれたのは有難かった。他の者を気にせず動き、眠ることも出来るからだ。
しかしこの朝、疲れた身を横たえ眼を閉じても、戌郎はなかなか寝付けずにいた。
鴇姫と幸隆についてはむろんのこと、無残に殺されたという篝や、廃人のごときありさまだった於仁丸の姿が心をざわつかせていた。
特に気がかりは於仁丸だった。多分、於仁丸は立ち直るだろう。そして篝の仇が生きているかも知れぬことに気づく。そうなれば、躍起になって仇を捜すに違いない。
それが幸政と決まった訳ではなかったが、ほぼ間違いないように戌郎には思われた。
おそらくあの場の村衆も同じ思いであったはずだ。
そうであれば、於仁丸が辿りつくのも当然幸政ということになる。
その時あれはどうするのか──
「…………」
於仁丸と戦うことになるやも知れぬ──それは予感だった。
戌郎は眼を閉じたまま、苦しげに眉根を寄せた。
屋敷の鴇姫もまた、眠れずにいた。
黒髪村の長が応といったからには、多分嫌疑は晴らすことが出来るだろう。この時鴇姫の心を占めていたのは、このことではなかった。
戌郎である。
山中を含め併せて二十里余りの往還を、戌郎は一夜のうちに走り抜けた。
鴇姫は戌郎の出自を知っていたし、常よりこの下人を頼りにはしていたが、戌郎がその異能を見せつけたのはこれが初めてだった。
父雨宮知徳が、村衆を間諜として使っていたことは知っていた。しかし己れにとっては気のいい村人でしかなかった黒髪村衆の真の姿を、鴇姫は初めてかいま見たのだ。
漠とした不安が胸中に広がった。
平生の暮らしの中では常人ならざる力など必要ない。それが必要になるのは非常時であり、すなわち今なのだ。
これから、何かが変わってしまうかも知れない──鴇姫もまた、不穏な予感を抱いたのである。