10
村人達が念仏を唱え篝を埋めていた頃、雨宮の館では明日の輿入れの準備におおわらわであった。天津領まではほぼ十里、峠を越えて約一日の道程である。
「戌郎」
馬の手入れに余念のなかった戌郎は、姫の呼ぶ声に振り返った。
「すまぬが連れていく仔を選んでおくれ」
戌郎は笑顔で頷いた。鴇姫と共に裏手に廻る。屋敷の犬はもっぱらそこで飼われていた。
戌郎が選んだのは、先に黒髪村を訪ねたときに供とした犬だ。あれからふた月ほども経ち、いささか頼りなげだった仔犬もしっかりしてきた。額には純白の星がくっきりと浮かび上がっている。
「わたくしもギンが一番ええと思うてました。この仔は利口で勇気もある。あの時も、小さいのにちゃんと馬の番をしてくれたものなあ」
鴇姫はギンと呼んだその犬の頭を撫でると、嬉しそうに笑顔でいった。
「幸隆様はわたくしを愛おしんでくださるし、おまえもこの仔もついてきてくれる。わたくしはほんまに果報者や……」
だがその頬には微かに緊張が見える。
わしが必ずお守りします。そやから心配めさるな……
戌郎は心のうちで鴇姫に呼びかけた。まるでその言葉が届いたかのように、鴇姫は顔を上げると戌郎に微笑んだ。
夜が来て朝になり、出立の時刻となった。
戌郎は受け渡し役である騎馬の宿老に従い、鴇姫の輿につく。
白絹の小袖に同じく白い打掛を腰巻きにした鴇姫はまばゆいばかりの美しさで、戌郎の心を激しく揺さぶった。
夏の初め、戌郎が鴇姫と辿った同じ道を今日は婚礼の列が行く。しずしずと輿は進み、天津領は佐々家の屋敷に着いたのは日も落ちて半時も経った頃であった。
門火は赤々と夜を照らし、一行を出迎える。
妻戸の前で受け渡しが行われ、戌郎はここで鴇姫の輿を見送った。
雨宮の姫ではなく、佐々家のお方となられた──戌郎はそう思った。それでも戌郎にとっては、なんら変わらぬこの上なき姫であった。
夜半。
婚礼の儀を終えた幸隆と鴇姫は、今は寝所にあった。
「お国を離れてよう参られた、鴇殿……長旅で疲れたやろう……」
幸隆が鴇姫を労う。鴇姫はほんのりと頬を染め、消え入りそうな声で
「鴇と呼んでくださりませ」といった。
「鴇」
微笑みを浮かべて鴇姫の手を取る。
「これからはわしがそなたの家や。何があってもわしが必ずそなたを守るゆえ、信じてついて来てほしい……」
「……はい」
うつむいたまま、鴇姫が答えた。
「心よりお尽くしいたします……どうぞ可愛がってくださりませ……」
取った手を引くと、鴇姫が幸隆の胸に身を預けてきた。
肩を抱く。少し震えているのが分かる。
「わしが恐いか」
「いいえ」
と、小さい声ながら鴇姫ははっきりといった。
「お慕い申し上げております、幸隆様。鴇の全ては、幸隆様のものでございます……」
「鴇──」
幸隆の腕が鴇姫を夜具に横たえる。
やがて鴇姫の秘めやかな息遣いが夜の静寂を伝いはじめた頃、戌郎はそれまでいた場所をそっと離れた。
戌郎の心中は悲痛であった。もとより戌郎は己れが鴇姫を得られるなどとは思っていなかったし、それを望んでもいなかったが、ふたりが睦みあう様をまざまざと見せつけられたのはさすがに堪えた。
また大切なひとの秘め事を盗み見た、そのこと自体にも傷ついていたのである。
確かに戌郎は、いつまでも姫のおそばにてお守りする、と誓った。しかしその誓いを全うするためには何を為さねばならないか、それを突きつめて考えていた訳ではなかったのだ。
姫を守るために姫の望まぬことを為し、憎まれることがあるやも知れぬ。望まずとも心の奥襞の敏感な部分に触れ、傷つけてしまう時も来るやも知れぬ。
例えば今夜、戌郎が初夜の褥を覗き見たことを知れば、鴇姫は二度と戌郎に向かって無邪気に微笑みはしないはずだ……
「…………」
戌郎は短いため息をつくと小さく頭を振り、考えても仕方のないことを無理矢理心から押し出した。そして辺りを伺いつつ屋敷の塀の影に身を潜めた。
印を切り、心を集中する。
いつもはゆるやかに閉じられている戌郎の口が、何かを語るかのように開いた。
ほどなく夜の闇の中からギンが音もなく姿を現した。
どこから敷地内に入ってきたのかもわからぬ。ギンは静かに戌郎の傍らに伏せた。
戌郎は表情を緩めるとギンの頭を撫でた。この若く利発な犬は、一切姿を見せることなく婚礼の行列に随行していたのだ。そうさせたのはむろん戌郎であった。
明日、ギンの姿を見れば姫様はきっと喜んでくださるやろう……
鴇姫の花のような笑顔を思うと、戌郎の心は少し温かくなった。
だがその朝には、新妻を迎えたばかりのこの屋敷に、不穏な知らせが飛び込んできたのである。
やって来たのは日頃懇意にしている天津家家臣、島田一正の使いであった。
人目を避けて秘かに幸隆を訪なったこの使者が語るには、昨夜、天津幸政の近従がふたり、苦しみながら果てたということであった。
奇怪なことに、このふたりの体には醜い斑紋が表れ、陽物は腐り落ちていたという。
名を聞き幸隆は眉を顰めた。それは幸政が常から側に侍らせていた者の名であったが、実のところ幸隆はこのふたりには、かねてより不信を抱いていたのである。
変死した近従は元々無宿の牢人であったのを、幸政が召し抱えた者どもであった。
素性も知れず薄暗い目をしたこれらを嫌ったのは幸隆に限らず、家臣のほとんどは疎ましく思っていたが、それを幸政に献言する者はなかった。なんとなれば幸政自身が闇をその目に飼っていたからである。
あのふたりが……
殺しても死なぬげな近従の面体を思いだし、幸隆は心中でごちたが、使者の次の言葉には思わず声が出た。
「実は……内密に願いますが──殿も床に伏しておられます」
「何……?」
「薬師の見立てでは、まずお命に別状はなかろうとのことですが……呪いか、あるいは毒やも知れぬと……」
使者の苦しげな様子に幸隆は重ねていった。
「なんや、申せ。いわねばならんことがあるのやろうが」
使者はなおもためらっていたが、やがて重い口を開いた。
「我が主が申すには……その……
昨夜は佐々家に於かれましては、雨宮から奥方様を迎えられた由……あの、それで……」
使者はまた口をつぐんだが、ほんの少しの逡巡のあと一息にいった。
「幸隆殿が迎えられた姫君は不吉であると──もしや此度の凶事も姫か幸隆殿の画策ではないかと、かように殿が申されたということで……」
「…………」
幸隆は頬をひきつらせたが、幸政の言葉については何も言わなかった。
ただ
「よう知らせてくれた。一正殿にはくれぐれもよろしゅうお伝えしてくれ」とのみ答えた。
島田一正は佐々兼嗣、すなわち幸隆の義父と供に天津の先代より側近くに仕えた旧臣で、当主幸政と今は佐々家の総領である弟幸隆の相克を知っている。
幸政も島田一正が何かと幸隆に気を配っていたのを承知していたから、これはむろん一正が幸隆の耳に入れることを見越しての讒言であった。
「えらいことになったのう……」
「申し訳もありませぬ」
幸隆は兼嗣に深々と頭を下げた。
佐々家に跡取りのなかったことは確かだが、主君の命とはいえ自分のような厄介者を迎えてくれたこの老人に対し、身の置き所もなかった。
「いやいや、そなたにも嫁御にも罪はない。これは濡れ衣というものや。
とはいえ」
先代は言葉をついだ。
「火の粉を払うのはいささか難儀やも知れぬな……」
「殿を見舞って参ります」
幸隆はそれだけを短くいった。
幸隆は慌ただしく着替えると、鴇姫には主の病床を見舞ってくるとのみ言いおいて天津の館へと出向いて行った。
「…………」
「殿のことも幸隆のことも心配はいらん。ゆったりと待っていなさい」
不安げな鴇姫を先代が慰めた。
「ご挨拶もまだやというのに、お見苦しいところをお見せして申し訳ありません……」
本来なら、このひととの対面は明日のはずであった。恐縮して平身する鴇姫に、先代がいった。
「鴇姫というたな……そなたも知っておるのやな?幸隆と兄である殿とのこと……」
「……いえ……」
鴇姫が小さく答える。
兄上はわしがお気に召さぬのや……
そう幸隆から聞いたことがある。天津の先代が、どうやら最後まで兄と弟どちらに家督を譲るべきか考えあぐねていたらしいことも、雨宮の父が漏らしていた。しかし鴇姫が知っているのはそこまでであった。
幸政が天津当主となり、幸隆が臣下に下ったからには、兄弟の確執も過去のものと思っていた。
しかし佐々の舅の口ぶりでは、どうも今なお禍根を残しているらしい……
幸隆はただ主君である兄の見舞いに行ったのではないのだろうか──
鴇姫は昨夜、夫となったひとが「何があってもわしが必ずそなたを守る」と、いつにない口ぶりでいったのを思い出した。
舅が去った後、不安に震える鴇姫の目に入ったのは、ちぎれんばかりに尾を振るギンの姿であった。
「ギン!」
我知らず大きな声が出た。
「おまえ……いつの間に来とったのや」
手を伸ばし、頭を撫でる。雨宮の家を出たのはつい昨日のことなのに、懐かしさと恋しさがこみ上げてきて鴇姫は涙ぐみそうになった。
振り返ると戌郎の姿があった。
「戌郎……」
先刻までは精一杯気を張っていたが、戌郎の顔を見るともういけなかった。鴇姫の眦に涙が溜まり、やがてひとすじこぼれ落ちた。
「…………」
戌郎は手を差しだそうとしたが、躊躇った。己れが触れていいひとではなかった。
戌郎はギンを遠ざけると、指を立て、笑顔を作り鴇姫の視線を惹いた。
それからその指を口に運び、ピピピ……と軽やかに指笛を鳴らした。
「……!」
鴇姫の表情も明るくなる。小鳥が数羽、やって来た。それは戌郎の十八番で、幼い頃から鴇姫が悄気かえっている時など、戌郎はよくそうやって小鳥を呼んでは姫を慰めたものであった。
鴇姫は戌郎が撒いたふすまを小鳥たちが賑々しくついばむのを愛おしげに見ていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「……戌郎……おまえ、何があったか知らぬか……?」
戌郎は頭を振った。
使者と幸隆の会話は全て聞いたが、それを鴇姫に漏らす訳にはいかぬ。
ゆきたかさまが もどられたら
きっと おはなしが
「……そうやな……」
鴇姫は袂で涙を拭うと戌郎に笑顔でいった。
「すまぬな……おまえにはつい甘えてしもうて、涙など見せて……」
鴇姫は言い止し、また少しうつむいた。
そしていった。
「……もし幸隆様がおまえに何かを命じたら、必ずあの方のために働いておくれ。
わたくしに伺いなどはいりません。幸隆様の命はわたくしの命や……ええな」
「…………」
戌郎がいつものように従順に頷かないのを見て、鴇姫は少し語気を強めた。
「戌郎。返事をいたせ」
戌郎は目を伏せたまま、頭を下げた。