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夜半にひとりの男が村へと帰ってきた。
篝を河原で見つけた後、周囲を探りに行った男だ。男はすでに周辺に人影はなかった、山道に残った蹄の跡からどうやら複数の、おそらくは侍の仕業であろうが、山中軽々と篝を追いつめたところを見てもどうも並の侍ではなさそうだ、といった。
そして、どこの何者かまでは突きとめられなかった……と続けた。
「あんだけの血や、相当の返り血も浴びたやろうに、誰も見てないのか」
男の報告を聞き、その場のひとりが苦虫を噛みつぶしたような表情でいった。
村長の屋敷である。
座敷にいるのは村長をはじめ、村の主だった面々であった。
雨宮知徳は村衆を諸国に放って動勢を探らせており、今日帰還した男達はそうしたうちの一部である。今日の寄り合いはもともと他国の動向を聞くためだったが、一通りの報告のあとは話題はつい男達が帰路に遭遇した、思いがけぬ惨事に向かいがちであった。
河原で於仁丸を張り倒した男──充三が口を開いた。
「それにしてもあの辺はもう天津の領地や。篝はなんであんなところにおったのや」
「…………」
男達が顔を見合わせる。ひとりが重い口調でいった。
「今日は於仁丸が出かけとったからな……おおかた迎えにでも出て、道に迷うたんやろう」
「…………」
充三は暗く厳しい表情になった。
「ほんなら篝が殺されたのは、たまたまということか?」
別のひとりがいったその時、外で叫び声が上がった。喉が破れんばかりの絶叫だ。
「……於仁丸……」
男達のある者は眉をしかめ、ある者は目を伏せた。
長もけわしい表情になり、
「誰かあれの口を塞いでこい。一晩中これではたまらんわ」といった。
充三が立ち上がった。
「ええ加減にせんか……声もすっかりつぶれとるやないか」
村長の屋敷は敷地の外れにある牢の中で、充三は縛られたまま転がっている於仁丸を見下ろしていった。
しかし於仁丸は男の言葉など耳に入ってはいないようだ。身をよじると、また叫びはじめた。
充三は舌打ちした。充三は手に持った轡を於仁丸に噛ませると牢を出、座敷に戻った。
「どうや……あれは」
ひとりが声をかける。充三は頭を振った。
「まあ……あれを見ればな……」
「戦場で身内が殺されたというていちいちおかしゅうなっとったら、命がなんぼあっても足らんやろうが。わしらにとっても命取りや」
「いうてやるな……あれはその戦もまだ知らんのや」
充三は渋い表情をしたが、それ以上は何もいわなかった。
「なんにせよ、篝のことも放っておけん……どうせ篝を殺した者どもの命はなかろうが、万が一にもわしらやお館様に害意ある者の仕業なら、このままにはしておかん」
長の低い声がいった。
夜も更け、男達はそれぞれ帰っていった。
牢では於仁丸がひとり、苦しげに身をよじりながら呻き続けていた。
端正な顔は歪み、涙と涎でどろどろに汚れている。縛られた手足や割られた顎が激しく痛んでいるはずだったが、於仁丸の涙と呻き声はもちろんそれが理由ではなかった。
於仁丸は悪夢の中にいた。
篝が走っている。己れに向かい、何ごとか叫びながら懸命に駈けているが、なぜか一向に近づいては来ない。己れもその場を動こうとせず、手を差しのべることさえしない。
やがて篝はずたずたに引き裂かれちりじりになる。己れはただそれを見ている。
そして一面が紅に染まる──
「ア……ア……ッ!」
於仁丸は汗をにじませ、轡の下でくぐもった悲鳴を漏らした。
夢と現の間で、於仁丸は篝が目の前で失われるのを、なすすべもなくくり返し見つめ続けていた。
夜が明けた。
女達がすすり泣いている。
草場と呼ばれる墓地は、村から少し外れた場所にあった。その名の通り普段は人が訪ねることもなく、草が茂るに任せた一角である。
だが今日は、そこは村人によってきれいに手入れされていた。
篝はお婆の手によって丁寧に清められ、首に巻かれた布は痛々しかったが頬と唇に紅を差し、その貌は本来の美しさを取り戻していた。
身に纏っているのは目にもあやな絞り染めの小袖だ。優しく鮮やかな緋色がこの上なくよく映えているのが一層哀れで、男達も言葉を失った。
「きれいや……篝」
「於仁丸に最後に会いたかったやろうに……」
女達が嗚咽をこらえながら口々にいう。お婆も
「……あの阿呆めが……」と呻くようにつぶやいた。
於仁丸はいまだ牢に繋がれたままであった。