よん。
季節は巡る。
日の元に照らされた彼女は、ずいぶん大人っぽくなっていた。
肩までしかなかった黒髪はうっすら茶色く肩甲骨の下まで伸びていて、制服ではなく私服を着ている。髪についているのは、桜の花びらだろうか。僕が志保を見下ろす首の角度が微妙に違うのは、彼女の身長が少し高くなっているからだ。彼女の私服姿を見るのは、小学生の時以来だろうか。
「お兄ちゃん。ずっといてくれたんだね」
「約束だからね」
志保が微笑む。薄くひかれたリップグロスは、彼女の唇を美しくかたどっている。化粧を覚えたその顔は、僕が今まで見てきたどんな志保とも違って見えた。
ねえ、と志保は口を開いた。
「私、大学生になったよ。お兄ちゃんが行こうとしてた大学、受かったの。学科は違うけど、でも受かったよ」
「そっか、おめでとう」
素直な祝福。志保は照れ笑いして、僕を見上げた。
「身長、抜かせなかったなあ。私、これでも身長伸びたのに」
「嘘つけ」
確かに今抱きしめたら彼女の頭は僕の鎖骨まで来るかもしれないが、足元にその秘密があることを僕はすでに見抜いている。
志保は僕に一歩近づき、手を伸ばす。
「お兄ちゃんが死んじゃった時と同い年になったよ。これで、並んだら釣り合うかな」
その手は僕の腹部をすり抜け、宙を舞った。
僕が死んだのは、高校の卒業式前日だった。
志保が所属していた合唱部は練習が週に二、三回で、その日に書道だとか国語の資料集だとか、とにかく重い荷物を持っていく日が被ると、志保はわざとそれを忘れて僕に持ってこさせていた。
「だって、楽譜ってかさばって重いんだもん。お兄ちゃん男なんだし、それくらいいいでしょ」
というのが言い分だった。
僕はもう通学する必要なんてどこにもないのに、その日も志保が「地図帳忘れたあ」と学校から電話を寄越してきたから、急いで志保の家にお邪魔して地図帳を拝借し、届けに行ったのだ。
同級生が誰もいない中、まだ在校生なのに私服で校舎をうろつくという非日常感に、少し浮かれてしまったという自覚はある。翌日が卒業式だという寂寥感に気をとられてしまってもいた。
「明日卒業式で合唱部が歌うから、お兄ちゃん、ちゃんと見ててね」
黒板に書かれた時間割に社会がないことに気づきつつ、僕は志保の言葉を受け止めて、帰路についた。
学校から家までは、自転車で十分とかからない。でも僕はその日、通学路を歩きたかった。いつもは自転車でさっと通り過ぎるだけの風景を、記憶にとどめたかったのだ。明日は卒業式。きっと、なにもかもが特別に見えてしまうだろう。その後は、駅前の繁華街でクラスメイトとお別れ会をして帰るから、少なくとも学校から家に向かって歩くのはこれで最後になる。志保の隣で歩くことも、もう無い。
その前に、特別ではない平凡な風景を、最後にこの目に。
隣の団地。公園。信号。塾。マンション。個人経営の居酒屋。コンビニ。入学したばかりの頃はこの公園でよく遊んで帰ったな、とか。学校帰りにこの塾に入っていく人もいたな、とか。よくここのコンビニで買い食いしたな、とか。何気ない建物に、それぞれ小さな想い出を持っていて。ああ、僕は六年間通った中学高校を、明日旅立つんだな。そんな実感が沸いた。
そういえば、志保はこれからひとりで大丈夫だろうか。友達はいるだろうけれど、僕がいなくてもちゃんと忘れ物せずに登校できるだろうか。宿題も、急かさないとやらないときがある。僕が大学生になっても、今までどおりやっていけるだろうか。
視界が濡れる。
目元にじわりと液体が滲んできて、慌てて拭った。高校三年生にもなって、しかも男が、真昼間から路上で泣くなんて。歩みは止めずにごしごしと袖で瞼をこすり、目を開けると。
信号の赤が、まず目に入った。耳を劈くブレーキ音。突っ込んでくる、黒。
視界がぶれる。
頭をはじめとして、全身に痛みが走った。声を出す器官が壊れてしまったのか、口からは血しか出なかった。
響く怒声。赤と黒が混ざったような色をした液体が、どこからか流れてくる。鉄の匂い。そうか、これは血か。
視界が揺れる。
見える範囲が狭まっていき、闇が迫ってくる。周囲の声も、音も遠い。サイレンの音。すれ違うときはあんなにうるさいのに、今はこんなに近くても、何も感じない。瞼が動かず瞬きも出来ないのに、眼球は不思議と乾かない。やがて、何も見えなくなった。
最期に考えたのは、志保のこと。彼女は、僕のために泣くだろうか――。
つまり僕は、志保に忘れ物を届けたその帰り、家まであと五分というところで事故に遭って、死んだのだ。
志保の右手が僕の背中から引き抜かれ、左手に包まれる。彼女は無表情で見つめながら、それを開いたり閉じたりした。太陽が反射したのか、その手が一瞬輝く。こんなに近い距離なのに、感触がないのがこんなにも寂しい。
「――志保のせいじゃないよ。僕の不注意だったんだ。いつもの道だからって油断していたんだよ」
「でも、私がわざと忘れ物なんてしなければ――嘘なんてつかなければ、お兄ちゃんは事故に遭わなかったよ」
「そんないつものこと、今更咎めてもしょうがないじゃないか」
そう、たまに嘘の忘れ物申告をしていたことくらい、僕はわかっている。けれど咎めずに、届け続けた。志保に会いたかったから。
触れられないとわかっていながら、僕は志保の髪を撫でる素振りをした。ずっとこうしたかった。やっぱり感触はしないけれど、それでもこうしたかった。僕の可愛い幼馴染。
志保は僕の動作に気づいて、うつむいた。
「卒業式の前に、最後にもう一度学校でお兄ちゃんに会いたかっただけなの。卒業式の日は、合唱部の先輩のところに行かなくちゃいけないから……。ごめんなさい」
「知ってる。お葬式のときに聞いたよ」
あの日、志保は呆然と涙を流していた。頬を伝い顎から垂れるそれを拭うことなく、志保はただ僕の遺影を見つめ続けていた。それを僕は知っている。
帰宅してから沈む両親を見ていられなくて、けれど慰めの言葉もかけられず、ふと志保の部屋を訪れたら驚かれ喜ばれと、大変な騒ぎになった。志保のお母さんが娘を心配して、引っ越しを考え始めたのは、おそらくそれがきっかけだろう。無理もない。何も存在しない空間を指して「お兄ちゃんが来てくれた!」と叫ぶ娘を心配しない母親なんていないはずだ。それから僕らは、志保の部屋でしか会わなくなった。
どうして僕の姿が志保にだけ見えているのかはまったくわからない。誰に試しても、僕の姿を認めてくれる人は、家族にも親戚にも友達にもいなかった。唯一、志保だけだ。
両親の生活は、もともと仲が良くなかったところにかすがいとなっていた僕の死を決定打として、破綻した。志保の一家が隣に住んでいるうちは、志保の精神を気遣って仮面夫婦を続けていたのだが、彼女らが引っ越していった次の日には離婚届が提出され、一週間後には家が売却された。僕に線香を供えてもらえる場所はもはや墓地しかなく、けれど志保との約束を守って僕は、ずっとここに居続けたのだ。
そして志保は、帰ってきた。もう僕の家どころか志保の元自宅すらない、もはや見知らぬ土地へ。
「志保は、今でも本が好き?」
面影のある外見と、少しだけ低くなった声。「うん」と答えた無邪気な笑顔は、昔のまま。
「そっか。大学、何学部?」
「文学部の社会歴史学科民俗学専攻」
「へえ? なにするの?」
「私は世界各地の不老不死伝説について調べたいの。お兄ちゃんの大学、大きくて専門的な学科が多くてよかったよ」
「僕の、じゃないけどね」
オープンキャンパスと受験の時に行ったっきりで、結局在校生の立場としてあの大学に通うことは一度もなかった。志保が代わりに通ってくれるのなら、こんなに嬉しいことはない。
「……というか、まだこだわってたの? 不老不死」
「べつにこだわってるわけじゃないよ。ただ、知りたいだけ。不老不死になった人の最期を」
「そっか」
最期の瞬間が物語として残っているのなら、それは不死じゃないんじゃないかな。とは突っ込まなかった。真剣な眼差しを邪推する気はない。ただやっぱりこの子はどこか抜けている。きっと、調べているうちにいつか自分でその矛盾に気づく時が来るだろう。
志保はふと自分が履いている靴を見て、「大人になったなあ」と呟いた。
「お兄ちゃん、ごめんね。私だけ成長しちゃった。今私が不老不死になったら、私とお兄ちゃん、釣り合った姿のままずっと一緒にいられるのかな」
「あほ」
確かに、中学三年生と大学一年生じゃ、ロリコン扱いされかねなかったけれども。いやしかし、もし生きていたとしても、大学一年生と大卒の社会人一年目の組み合わせはギリギリアウトじゃなかろうか。ううん、難しい。小学校低学年と高学年。小学生と中学生。中学生と高校生。いつも肩書は僕らの邪魔をする。はやく大人になって、お互い社会人になりたかった。それなら、誰も何も言わないから。いまどき二十歳と六十歳の結婚も普通の時代なのに、学生というだけでわずか四才の差はとてつもなく大きくなる。
僕たちが互いを想うには、まだ若くて、年が離れすぎていた。
志保が片足を上げて、踵のヒールを指さす。
「お兄ちゃん、私、これ意外と転ばなかったんだよ。すごいでしょ」
「履いてみたことないからわかんないけど、すごいね」
「てきとーだなあ」
口の端だけで笑う志保は、やはり三年の時を経て大人びた。路上でお腹を抱えて笑うなんてこと、もうしないのだろう。
足を下げて、姿勢を正し、志保はぽつりと言う。
「私、どうしてお兄ちゃんが中学受験したのか、本当の理由知ってるよ」
「なに、いきなり」
「お兄ちゃん、中学校が遠くて文句言ってたの、私覚えてるもん。志保が帰ってきたときに僕も両親もいなかったらどうするんだ、って。心配してくれてたんだよね」
「……」
恥ずかしい。と同時に、そんな些細な発言を覚えてくれていて嬉しく思う。
志保はにこりと笑って、直後、頭を下げた。
「ごめんねお兄ちゃん、ごめんなさい。お兄ちゃんの人生を奪ってごめんなさい」
「志保は悪くないよ。僕はそう言って、傷ついた顔をする志保を見るほうが嫌なんだ」
僕がそう言うと、志保は顔をあげて、横に首を振る。悪いのは私だと。やがて志保は、泣くのを必死に耐えているような、歪んだ表情で僕をまっすぐ見据えた。その表情を、僕は見たくないのに。
「私が悪いのに、お兄ちゃんは毎月私の部屋に来てくれてたよね。道路にお花を供えて帰ってくると、いつもお兄ちゃんが待っていてくれてたの。嬉しかった。幽霊でも、会えて本当に嬉しかった。学校で会えなくて寂しいなんてわがまま言って、ごめんなさい」
「でもこの三年間、会えなくても大丈夫だっただろ?」
「……うん」
それがまるで罪であるかのように、志保は深く傷ついた、申し訳なさげな、悲しい顔をした。気にしなくてもいいのに。もし生きていればとっくにしていたはずの“お兄ちゃん”離れなんだから。
「志保」
「なあに、お兄ちゃん」
「どうして今日は、ここに来てくれたの?」
とっくに忘れていても不思議じゃなかった約束。僕は愚直に守っていたけれど、今を生きる志保は僕の存在そのものを忘れていても不思議じゃない。
志保はふっと微笑んだ。
「お兄ちゃんに訊きたいことと、伝えたいことがあって」
「訊きたいこと?」
「どうして、私に会いに来てくれていたの?」
「志保が心配だったから」
この一言に尽きる。僕の生への未練なんて、それ以外に存在しない。
志保は嬉しいような悲しいような微妙な顔で、笑う。
「そっか。……部屋に帰って、お兄ちゃんがいると、毎回ほっとしてたんだ、私。お兄ちゃんはたとえ体がなくても、いつもどおり私の傍にいてくれてるんだって」
もしかしたら志保が日常を望んだから、僕の姿は彼女に見えたのかもしれない。互いの想いがあっての奇跡なのだと考えたい僕がいた。
気を緩めたら表情に出てしまいそうな感情を抑え、先を促す。
「志保。訊きたいことって、それだけ?」
「うん。あのね、お兄ちゃん。私、お兄ちゃんがもう心配しなくても大丈夫。縛りつけてごめんね。もう、大丈夫だよ。私、頑張れるから」
志保が、朗らかに笑う。
「そうか、――わかった」
個人的には、成長を近くで見届けられなかったのが残念だけれど。……志保が大丈夫だと言うなら、もうここに留まることもない。
もう忘れ物を届ける必要もないのだから。
しばらくの静寂ののち、志保が睨むようにして僕を見上げた。
「お兄ちゃん、あのね!」
「ん?」
「私が不老不死になりたかったのって、お兄ちゃんとずっと一緒にいたかったからなんだよ!」
何故、怒ったように言うのだろう。僕が本当にわかっていないとでも思っていたのか。
「……知ってたよ?」
あんなに傍にいて、僕は志保の嘘を見抜いていたのに、志保は僕の嘘を見抜けていなかったのか。心底可笑しくて、変な笑い声が口から洩れてしまった。志保の顔がかあっと赤くなっていく。
「し、知ってたならなんで前、訊いたのっ」
「だって、もし別の理由だったら僕のほうが自意識過剰で恥ずかしいじゃないか」
「こんの……!」
飄々と言うと、志保は拳を振り上げ、そこで動きを止めた。そして静かにおろす。
「おお、がさつが直った」
からかうと、
「……どうせ殴れないもん」
と、沈んだ呟き声。
僕たちはもうどうあっても触れ合えない。そうわかっていて、でもわかりたくなくて、あえて一定の距離を置いていたあの頃。
出ない涙をすすって、僕は笑顔を見せた。
「でも、とっくに死んだ人とずっと一緒にっていうのは建設的じゃないね。やめときなさい」
「わかってる」
「なんだ、素直だな。反抗期は終わったの?」
「私、もう十八歳なんだけど」
「そういえばそうだったね」
「お兄ちゃん、大好き」
その言葉は、今までで一番唐突に発せられた。
「今までずっと私のこと考えてくれててありがとう」
そのとき、僕は可愛い幼馴染の左手の薬指に、ささやかなシルバーリングがはめられているのを見つけた。さっき光ったのはこれだったんだ。そして悟る。彼女を大切にしてくれている人がいるのだと。
「僕のほうこそ、ありがとう。……志保」
「うん?」
「おめでとう。大切にね」
左手を注視しながら言うと、志保は視線を辿って「ばれた?」と舌を出した。志保を大切に想ってくれている人がいるならば、僕はもういなくなっても大丈夫だ。お兄ちゃん離れを果たした“妹”に、もう心配はいらない。
安堵で満たされ、僕の体は軽くなった。