さん。
我が家のリビングに、珍しく明かりがついていた。
中を伺うと、僕の両親と志保の両親が机を挟んで、なにかをぼそぼそと話しているのが見えた。帰ってきてたんだ、父さん母さん。志保のお父さんも、こんな日が高い時間にいるのは珍しい。お母さんのほうは、最近いるみたいだけど、でも以前は遅くまで帰ってこなかった。
「ええ、年度末に」
「そうですか、はあ」
「お世話になりまして」
――なにも聞いてはいけなかった気がして、断片的に耳に入った会話を打ち消し、僕は自分の部屋に戻った。
志保の部屋の電気は、消えていた。
夜空に花火が咲かなくなった頃、志保が久々に制服を着て、帰ってくるなりベッドに倒れこんだ。
「どうしたの」
「久々のがっこー、つーかーれーたー」
「今までほとんど外出してなかったくせに」
「だから体力落ちて疲れたんですー。みんな日焼けしてるしさー」
ずっと宿題や参考書とにらめっこしていた志保の肌は、夏を超えたとは思えないほど白い。部活で登校していたら少しは焼けただろうに。志保はベッドの上に放置してあるエアコンのリモコンを手探りで掴み、スイッチを押した。「あぢい」と言いながらむっくり起き上がる。久々に太陽に照らされたのがよほど堪えたのか、背中に汗染みが出来ていた。ハイソックスを足で脱いで床に放る様は、とてもじゃないけど「僕に心を許している可愛い幼馴染」とは形容しがたい。
志保はベッドの端に座ると、制服のあちこちを引っ張って風を通し始めた。
「このさ、スカートのウエストのとこが一番蒸れて暑いの。男にはわかるまい」
「年中長ズボンの暑苦しさ、女子にはわかるまい」
「冬、あったかそうでいいよね」
「女子もジャージ履いたりひざかけ持ってきたりしてるだろうが」
「私、あのスカートの下にジャージ履くファッション、美的センスが許さないんだよね」
足でハイソックスを脱ぐ奴の言うことか。まあ、言わないけれども。
「ていうかね、聞いてよ。外部受験組は明日から半年間、別クラスで授業なんだって。うちのとこ、やっぱり普通の中学とは内容とか進み具合全然違うのかなあ」
シーツがすぐ温かくなるのが嫌なのか、もぞもぞと座る位置を変えている。
「そもそも六年間でカリキュラム組んでるからね、科目によっては単元全然違うと思うよ」
「せっかく同じクラスになったのにさ。授業別だと会話も噛み合わないし。先生たちはクラス替えの時にもっと考えてほしいよ」
「新設校だからね、ある程度はしょうがないよ。そもそも外部受験するくらいならもともと中高一貫校になんて入らないだろ。よほどのことがないと。そういうのはやっぱりギリギリに決まるんじゃない?」
「……ぬう。せっかく友達になったのに」
寂しそうに目を伏せて、唇を尖らせる。誰か友達が外部受験でもするのだろうか。
「――お兄ちゃんは、どうしてうち受けたの?」
その声は、雰囲気に反して明るく、唐突だった。僕は答えを考える。
「えーと、……ノリ、かな。ほら、家からだと、あっちの普通に進学できる中学より近いし、高校もわざわざ遠いところから選ばなくて済むじゃん。受かったらラッキー、くらいの気持ちだよ。受験校とはいえ公立だから、学費の面でも反対されなかったし」
「そうなんだ。そういえば訊いたの初めてだ」
「訊かれなかったしな」
ようやく涼しくなってきたのか、志保は無駄に動かなくなった。すぐに帰れる距離のほうが志保を迎えに行きやすいし、とは言わないでおく。なんの仕事をしているのは知らないけれど、志保のお母さんは帰りが不定期で、遅くなるときはとことん遅くなっていた。そんなときの預かり先は我が家で、保護責任者は僕だ。男女の年が離れた幼馴染でここまで仲がいいのも、こういう事情がある所以だろう。仲は良い、ほうのはず。多分。うん。
「で、志保は?」
「んー? お兄ちゃんがちゃんと彼女とか作れるように、近くで見守ってあげようと思って」
「嘘つけ、余計なお世話だ」
そんな理由で追いかけられてたまるか。
「うん、心配してない。お兄ちゃんに彼女なんかできるわけないじゃん」
「おまえな……」
ジト目で志保を見ると、目が合った。中学受験の結果を報告しにきたときと同じ表情をしている。あの、喜びを抑えきれていなかった目尻。何考えてるんだ、この子。
「お兄ちゃん。私ねえ、お兄ちゃんが学校で知らない人のふりとかしないで、普通に話しかけてくれた時、本当に嬉しかったんだよ」
――中学一年生と高校二年生なら、本来ならまったく別の学校でまったく関わりなく生活をし、隣家の幼馴染とはいえ次第に連絡も疎遠になって、やがて顔も見なくなるはずだった。それが、同じ校舎で顔を合わせて、忘れ物を(僕が一方的に)届けるような仲で、事あるごとに一緒に過ごす。この関係は、どう言えばいいのだろう。
僕は志保の言葉に、苦笑いで返した。
「廊下の端から廊下の端に向かって『お兄ちゃーん』って大声で手を振るのはやめてほしかったけどね」
「いまさらそれ言う? 恥ずかしがってるお兄ちゃん、面白かったよ」
「面白がってたのかよ」
不満げに言うと、志保は右手の親指をグッと突き立てて見せてきた。なんでだ。
――実を言うと、校舎内で志保の元気そうな姿を見るたびに僕は安心していた。転んで怪我してないか、変な男子にひっかかっていないか、いじめられていないか。伝えたら確実に気持ち悪がられるから言わないけど、同じ学校に進学してきてくれてよかったと思っている。
志保の傍には僕がいて、僕が守らないといけない。
兄のような、恋人のような、この微妙な感情を、人はなんて呼ぶのだろうか。
窓に日差しよりも枯れ枝がぶつかるようになってきた頃、志保は僕を部屋に入れなくなった。
「ごめん、今会いたくない……」
そう言われたら、なにも返せない。
やがて落ち葉もすっかりなくなり、また新芽が息吹きだしたころ、ようやく志保は僕と会ってくれた。段ボール箱が整然と並べられ、家具のない殺風景な部屋で、涙をこらえることなくぼろぼろこぼしながら。
「あのね、引っ越してべつの高校に進学するの。心新たにやり直したほうがいいって。なんかね、先生にも言われちゃった。お兄ちゃん離れしなさいって。お兄ちゃんに依存しすぎだって」
そうか、外部受験するのは志保のほうだったのか。
「やだって言ったけど、でも、だめだったの。高校受験しようがしまいが、引っ越しはもう決定だから退学には変わりないって。だから、ちゃんと受験したの。高校卒業後の目標もできたよ。だから、だからこそお兄ちゃんに会えなかったの……」
今すぐこの幼馴染を抱きしめたかった。きっと抱きしめたら、頭は胸元くらいまでしかないんだろうな。そんな、今まで一度も考えたことのなかった事を思う。抱きしめられないことをわかっていながら、それでも。
「お兄ちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい、ありがとう、ごめんなさい」
懺悔と感謝をひたすら繰り返す彼女の頬を、僕は拭ってあげることすらできない。
階下から志保の名前を呼ぶ声が聞こえて、志保は肩を震わせた。きっと、もう行かなければならないのだろう。志保は涙と鼻水でべちゃべちゃになった顔で、僕をまっすぐ見た。
「私絶対、ここにまた帰ってくるから。だから、ずっとここで待っててね、お兄ちゃん……!」