に。
「八尾比丘尼伝説って知ってる?」
「そんなことよりテスト勉強しなさい」
「テストなんてないもん」
ぷいっとそっぽを向かれた。教科書より小説、参考書より漫画、ノートよりゲーム。変な知識ばかり蓄えて、この子は大丈夫だろうか。僕が叱っても効果がないことはわかっているけれど、言うだけ言う。
「さっき志保のお母さんも言ってたの聞いてたからな、中等部はそろそろテストだって。だから誤魔化しても無駄だぞ。しかもおまえ、三年生じゃないか」
「成績悪くてもそのまま高等部に進学できるもん。お兄ちゃんだってわかってるでしょ」
「ま、ね」
志保は中学受験した僕のことを追いかけて、わざわざ中高一貫校に進学してきた。友達より年上の幼馴染をとった彼女のことは多分絶対理解出来ないけれど、内心嬉しくもあり、でも本人には一切そんな素振りを見せないようにした。感づかれて喜ばれたら、それこそ恥ずかしい。
ベッドに座って足をぶらつかせながら、志保がぽつりと言った。
「お兄ちゃんと学校で会えなくて、寂しいよ」
沈黙。
こんな風に素直な志保は何年振りだろう。あのときから何度もこの部屋に訪れて、たくさん会話してきたのに。
少し困って、でも僕は事実を述べることにした。
「志保が中等部に入学した頃には僕は高等部二年だったし、校舎の中で使用教室が分かれてるんだから、もともとそんなに顔合わせてもなかっただろ。それに志保は部活に入ってて、僕は帰宅部組。学校内じゃ全然接点なかったじゃないか」
「それでも、たまには会えてたよ。お兄ちゃん、忘れ物届けたりしてくれてたし」
「荷物が多い日ばっかりわざとね。便利屋だった僕がいなくて、不便?」
「そういうこと言ってるんじゃない!」
茶化すと、思いのほか大声が返ってきた。
悲鳴のように、なにかをこらえた、震えた叫び声。
扉の向こうから、志保を心配する声が聞こえる。志保のお母さんだ。
「志保」
名前を呼ぶと、志保はベッドの上で丸まった。顔が僕に見えないよう、枕を抱えて寝転がる。ベッドが軋んだ音を立てた。枕に描かれた猫の顔が悲しそうに歪む。紺色のスカートのひだが広がって、白いシーツに映えた。
「志保、お母さんが心配しているよ」
これしか言葉をかけられない僕が、自分で歯がゆかった。
「いい、ほっといて」
呟くような声で、投げ捨てられた言葉。
僕にはそれを拾って代わりにどうにかすることは出来ない。だから。
「志保、さっき言ってた、八百比丘尼伝説の話、聞かせてよ」
別のものを拾い上げた。
「……ん」
表情を隠したまま、けれど志保は訥々と語り出してくれた。
「人魚の肉、食べたら、不老不死になった話。やおびくにって人の娘が、食べて、不老不死になったの。で、尼になった」
「そうなんだ」
断片的すぎて理解しきれないけれど、なんとなくわかった。最後が飛躍しすぎていてこの説明じゃ話の全貌は見えないけれど。
「それで、その尼さんはどうなったの?」
「……」
枕の顔が、悲しそうから痛そうに変わった。
「お兄ちゃん」
「なに?」
「ごめん、今日はひとりにしてほしい」
「わかった」
僕はベッドに背を向けた。階下に降りて玄関に向かうとき、志保のお母さんが心配そうに部屋の方向を窺っているのが開け放たれたリビングの中に見えた。そりゃ、今まで静かだった部屋で娘が急に叫び出したら不安にもなるだろう。
――志保の部屋の漫画は大体網羅しているから、八百比丘尼伝説の物語を本当は知っている。
いつまでも若く美しい姿を保った娘は、何度結婚しても夫に先立たれ、父にも死なれ、村でも不気味がられたために故郷を出て、尼になり貧しい人を助けながら世の中をまわり、最後はやがて世を儚んで岩窟の奥に閉じこもるのだ。
今も彼女が生きているかどうかは、誰も知らない。
次に志保の部屋を訪れると、珍しく机に向かっていた。パジャマで。何故。
「わかんない。お兄ちゃんやってー」
僕の気配を察したのか、志保は突っ伏していきなり文句を言い出した。
「なにやってるの?」
「夏休みの宿題」
心底気怠そうに、端的な答えを頂戴した。そうか、もうそんな季節か。太陽が嫌に眩しいと思っていたんだ。志保の腕の中を覗き込むと、びっしりと文章で埋め尽くされた箇所と、真っ白な箇所が同時に見受けられた。見覚えのある紙の質感とインクの色合い。多分これ、僕が中学三年生のときにやらされていたのと同じワークだ。
ふむ。
「そのワーク、古典だよね確か。今どこやってるの?」
「竹取物語」
「ああ。なにがわかんないの?」
「全部」
「……。そしたらとりあえず活用形からやろうか」
「ん」
のっそりと上体を起こした志保は、本当に面倒くさそうかつ眠たそうだった。
「だいたい、古典なんて出来て何になるっていうのよ」
「教養だよ、教養。で、本文読めないにしても、話の大体の内容はわかる?」
「日本昔話のほうでもいい? それなら小さい頃に読んだ」
「うん、大体それと内容同じ」
「最後、帝はかぐや姫から不老不死の薬をもらうのに、『かぐや姫のいない世界で不老不死になっても嬉しくない』って富士山で燃やして捨てるんでしょ。それだけは知ってる」
「むしろ小さい頃に読んだかぐや姫には、そこのシーン載ってないよ」
「うん、だからそこだけ、最近知ったの。富士山に登ったら見つかるかな」
最後の一瞬だけ、志保の目は暗く光った。
……また不老不死、か。
彼女は最近、そのワードに固執しすぎている。漫画や小説に描かれている未知の力や生物に関しての議論は前からちょくちょくしていたものの、ここ五か月ほどは不老不死と名のつくものばかりだ。
志保が今日のノルマだと示したページまで一通り終わらせてから、僕は疑問を投げかけた。何故、不老不死にこだわっているのかと。
「……わかんないの?」
宿題を終えた達成感に満ちた表情から一転して、胡乱げな眼差しになった彼女は不思議そうに、そして僕がわからないというのが不愉快そうに呟いた。
本当はわかっている。けれど口に出すと関係が壊れそうで、だから頷くと、志保はため息をついて「じゃあそのままでいい」とだけ言った。ずっと一緒にいるのにどうしてわからない、とでも言いたそうな目で、僕を見据えてくる。けれど同時に、その目の奥が揺れているのが見えた。どう伝えればいいかわからない、とでも言いたげな左右非対称に歪んだ唇。さまざまな感情が混ざり合った複雑な表情を真正面に捉えて、僕は僕でどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
だから、別の質問を出す。
「ところで、なんでパジャマなの」
「いいじゃない、どこにも行かないんだから」
これには明瞭な答えが返ってきた。続けて「お風呂入ったら別のパジャマに着替えるもん」とも。
「部活は?」
「……」
志保が目をそらして、また黙ってしまう。辞めたことはちゃんとわかっている。けれどあえて問う。
「もう一回やらないの?」
「やらない」
「そう」
相槌を打ち、本棚に目をやる。視界に入っている志保はどこを見るでもなく、ただ机の下で拳を握りしめていた。六段ある棚の一番下についている引き出しに、大量の楽譜が仕舞われていることは、隠されていてもなんとなく察している。忘れもしない。僕の代の卒業式の前日に、彼女は所属していた合唱部を辞めてしまった。
「志保」
あのことがあってから、彼女は自分のことをずっと責めさいなんでいる。あの日から、彼女は歌うことどころか、メロディーを口ずさむことさえやめてしまった。
「責任なんて感じなくていいんだよ。志保は悪くないんだから」
「うるさい」
音を立てて椅子から立ち上がり、志保は僕のいる方向なんて一切見ずにベッドまで直行した。足に重心を置くことを忘れてしまったかのように、大きくベッドに倒れこむ。
「お兄ちゃんきらい」
「はいはい」
布に包まれてくぐもった声を笑って受け流しながら、僕は帰る旨を告げた。志保は答えない。僕は「じゃあね」と背を向けた。
部屋から出ていく寸前、
「……ごめんなさい」
嗚咽の混じった涙声を、僕は聞こえなかったふりをした。