いち。
ホールのチョコレートケーキを前に隣あって、僕と志保は舞い上がっていた。
「誕生日おめでとう、志保」
「うん、ありがと。お兄ちゃんも大学合格おめでとう!」
三月一日、幼馴染の志保は十四歳の誕生日を迎え、そして僕は三日後に高校の卒業式を、一か月後に大学の入学式を控えていた。これが浮かれないでいられるだろうか。
抱えるほどの大きさのオレンジ色の包みを志保に渡す。
「ほらこれ、この前出かけたときにほしがってたやつ」
「えっ、ほんと!? ありがとう、お兄ちゃん!」
志保はがさがさと音を立てて、黄色のリボンをほどいた。少しは落ち着けと苦笑いした途端、包装紙が破れて一気に中身があらわになる。
「……せっかく綺麗に包んでもらってきたのに」
わざと拗ねたように言うと、志保は慌てた様子もなく平然と返した。
「ごめんごめん。でもね、がさつなのはもう治らないのっ」
「開き直るんじゃありません」
「だって生まれた時から知ってるでしょ」
「まあねえ。本棚の中身も乱雑だしねえ」
部屋の中を見渡すと、日の当たらない壁際に大きな本棚がこの部屋の主のようにどんと構えている。中には小説と漫画がびっしり詰め込まれていて、かろうじてシリーズごとには並んでいるものの、ジャンルや大きさはばらばらだ。
「私が場所をわかってて、そんでもってちゃんと読めればそれでいいの!」
せめて出版社くらい揃えてほしいと思うのは、僕が細かすぎるだけなのだろうか。でも志保は女の子だし。男女差別だなんだと騒がれるから言わないけど。けれど、プレゼントの猫の顔が描かれた枕を屈託のない笑顔で抱きしめられると、いろいろなことを許せてしまう僕がいた。
「やっぱりかわいいー。ありがとう、お兄ちゃん」
「どういたしまして」
「うひひ」
「その笑い方やめなさい」
「ふひひ?」
「やめんか」
「やだ」
最近、志保は無意味に反抗期だ。でも、今日ばかりは許す。頭を撫でると、照れたように口元をほころばせた。猫の顔もこころなしか嬉しそうに笑っているように見える。
「はっぴばーすでーとぅーみー」
志保が口ずさむ。発音は明らかにひらがなだったけれど、さすが合唱部、綺麗な声と流れるようなメロディーで、心地いい歌声に僕も自然と笑顔になっていた。
「そろそろケーキ食べようか」
志保が歌い終わったのを見計らって、僕は言った。志保のお母さんお手製だ。
「うん、でもこんなに食べきれないと思う」
と言って、そして結局半分の量を志保は平らげた。
「太るよ」
「お母さんの手作りだから大丈夫だもん」
「スカートしまらなくなるよ」
「うるさい!」
叫ばれると同時に、本気の右ストレートを脇腹に食らった。
この日、僕たちは幸せだった。
*
ベッドに座って一息ついたところで、志保は言った。
「吸血鬼って本当に不老不死なのかな」
彼女の言葉は、いつも唐突だ。
「なに、急に」
「だって、本当に不老不死だったら今もいるはずじゃないの? 死なないんだもん。それともどこかに潜んでるのかな」
「さあ」
「それに、不老なのにいろいろな年齢の見た目の吸血鬼が存在しているって、おかしくない? 本当に不老なら、吸血鬼は生まれてからずっとその姿のままじゃない」
「赤ん坊の姿のままってこと? それだと絶対に子孫が出来ないから、一族繁栄なんて夢のまた夢じゃないかな。それにずっと成長しなかったら、悪魔の子とか言って殺される気がする。現代なら実験解剖かな」
「でしょ? ということはやっぱり吸血鬼はフィクションの存在か、たとえいたとしても、不老でも不死でもないと思うの」
本棚に並ぶ吸血鬼を題材にした小説や漫画を眺めながら、志保は語った。
彼女はたまに、突拍子もないことを考える。先月はどこで調べたのか、処女の生き血を浴びて永遠の美しさを求めたエリザーベト・バートリ夫人の話をされた。あの日は確か梅雨入りしたばかりの大雨が降った日で、水滴が窓を叩いていたんだ。「こんな風に血が降ってくるのを浴びてたんじゃないの」とか話したっけ。最終的に出た結論は「永遠の美なんていらない。そんなもの求めたところで何になるの。結局は普通に年とって死ぬんでしょ」だったけれど。
「不老不死っていうのは、人間からはそう見えるだけで、実際年をとってはいると思うよ」
僕が感想を述べると、志保は不満そうに唇を尖らせた。
「それは不老じゃないじゃない」
「だから、“ほぼ”不老不死なんだよ。きっと。たとえば僕らが一年で成長できる分を、彼らは百年かけているのかもしれない。赤ん坊が僕が生まれてから死ぬまで同じ姿だったら、それは不老みたいなものじゃないか。五百年後には五才児と同じ大きさになっているにしても、どうしたって生きている間は成長を見届けられないし」
「生きている間は、ね」志保は意味深な目配せをして、「じゃあ、寿命もあるってこと?」と言った。なにがどうしてこんな空想じみたことを真面目に語っているんだろう、彼女は。
「あるんじゃない? 八千年とか、九千年とか。百年で一才の年を取るなら、そのくらいにはよぼよぼになっているよ」
「長っ……。寿命迎える前に地球滅んじゃいそう」
「じゃあ数百年単位じゃないの。考えてみれば、数千年単位だと人類の歴史ほぼ制覇してるしね」
そしてそれに付き合う僕も大概だ。
「歴史のテスト完璧じゃん」と、志保は真面目ともおふざけとも見て取れる顔で笑った。
「それならまあ、吸血鬼も悪くないかなあ。ねえ、どうしたら吸血鬼ってなれるの?」
「さあ。たとえなったとしても、血を吸わなきゃ生きていけないけれど、それでもいいの?」
「うーん。考えとく」
志保はそう言って立ちあがった。ベッドのシーツは彼女が座っていたそのままの形に歪んでいる。この間まで転んで流血しては、痛みにではなく赤い色に大泣きして、鼻血を出しては気絶していたのに、吸血鬼になんてなれるわけがない。最近のことのようでずいぶん昔のあの頃が懐かしい。
志保が小学一年生の頃、図工の授業で誤ってハサミで指先を切り裂いてしまったことがあった。あの時も志保は貧血を起こして気絶して、家が近所で知り合いという理由で僕が保健室までのお迎えに召喚されたんだった。遊びたい盛りの気持ちを抑えてふらふらの志保を家まで送り届けるのは、相当な重労働だった。こんなことを思い出すなんて、もう年かな。
本棚の前で本をぱらぱらとめくっていた志保が、急に顔をしかめて口元をおさえた。持っていた本が上下さかさまになる。
「うえっ」
「なに、どうしたの急に」
「血を吸ったの想像したら気持ち悪くなった」
「あほ」
やっぱり、この子に吸血鬼は向いてない。しかも、手の中に髪の毛を巻き込んでしまったせいで口に入ったらしく、さらに咳き込んでしまった。ばかだ。彼女は本を棚の端に置いて、おぼつかない足取りのまままたベッドに座り込んだ。さっきへこんでいた場所が浮き上がる。唇から落ちた髪先に唾液が伸びて、制服の肩についた。気づけ。髪を直すために触れようとつい腕を伸ばしかけて、慌ててひっこめた。志保が怪訝そうな顔をして、ああ、と目を伏せる。
「志保、ごはんよー」
階下から志保のお母さんの声が聞こえてきた。もうそんな時間か。この制服の汚れはきっと食事中にでも指摘してもらえるだろう。志保は舌を出して、「今一番食欲ないのに」と言った。先月も同じような会話をした気がする。
それはともかく。
「僕は帰るよ」
告げると、志保は小さく手を振った。
「うん、またね」
「ああ、また」
僕は扉の向こうへ進んだ。
「ただいま」
そう言っても、僕の声を聞いて「おかえり」と返してくれる人は誰もいない。両親は仕事に出かけている。たまに顔を合わせても喧嘩ばかりで僕のことは目もくれず、食事の用意すら稀だ。だから僕は、そんないつもどおりの日常に背を向け、自分の部屋へと帰った。
窓からは志保の家が見える。幼い頃から知っている四歳年下の幼馴染。
僕が中学三年生、志保が小学五年生の時だっただろうか。男の子のほうが遊び相手として嬉しかったと洩らしたら、鳩尾に強烈な蹴りを食らったことがある。女の子である今こんなに活発なら、きっと僕と同性だと体力が付いていかなかっただろうと、異性であることに逆に安心し、感謝することにした。と伝えたら、今度は気持ち悪がられた上に「もっと肉をつけなさい。贅肉も筋肉も、肉とつくものはすべて」と無茶苦茶なことを言われた。女の子の気持ちは昔からわからない。
太っている相手には「デブ」と暴言を吐く癖に、痩せていればそれはそれで「モヤシ」と貶す。どうしろと言うのだ、まったく。
「きっと平均くらいがいいんだろうなあ」
自分のすとんと平らな腹を触りながら、窓の外を見下ろす。
今夜もきっとあのガレージに、車が停まることはないだろう。
我が家を崩壊させた僕の居場所は、志保の部屋にしか存在しない。僕と会話してくれる人さえも。