残酷な世界
「う、あ、あああ…!」
その晩は、忙しかった。
何度も包帯をかえ、薬をたし、熱をもつ傷をひやしつづけなければならなかった。
少女は、意識はまだ戻らないが、傷が痛むのか、ときどき暴れだし、男の治療を阻んだ。
それを拘束するのが奈都の主な役目だった。
「耐えるんだ…どうか…どうか。がんばれ…がんばれ…」
戦う小さな体を押さえつけながら、奈都は祈るように唱え続けた。
ようやく少女が深い眠りについたのは、外が薄明かるくなった頃だった。
『峠は越えたよ』
男の言葉に奈都はほっと息をついた。
『あとは、あの子の回復力に任せるしかない。僕らも少し休もう』
疲れただろう、と、男が大きなカップを渡した。
奈都は中になみなみと注がれる、暖かい液体を見た。
男の様子からして、きっとこれは、飲み物なのだろう。
自分はこの名前も、味も、何で、どうやってできたのかも、知らない。
「異世界、か…」
ふと、呟いた。
ここは、誰も知らない、なにも知らない世界なのだ。
どうしようもない心細さが、奈都に襲いかかる。
「私は…どこに行けば……」
『ねえ君、これからもここにいたら?』
「!」
奈都の心を察したように、男が言った。
『君が良ければ、いつまでだってここにいればいいよ』
『…本気か?私は、自称異世界人だぞ。怪しいだろ』
『君が治療を手伝ってくれると、助かるんだ。ここは狭くて汚いし、危険もあるけど…。でも、それでもいいなら、おいで。僕は君が異世界人だろうが幽霊だろうが、構わないよ』
『…………』
男の優しい言葉が、奈都の胸にじんわりと染み込むような気がした。
『君こそ。僕でいいの?』
『は…?』
『僕だって怪しいだろう?ひとり隠れ住んで、人間を漁ってるんだから。正直、あの森で見つかったとき、逃げ出すかと思ったんだけどな』
『あ……』
『君こそ…僕を、信じてくれるかい?』
『…………』
奈都は拳をぐっと握った。
傷はもう、痛まなかった。
『…、すまないな』
奈都は、微笑んだ。
『これから、世話になるぞ!』
『!はは、こちらこそ!』
奈都は、男を信じることにした。
『私の名前は、奈都だ。なんでも言いつけてくれ』
『奈都、かあ…』
なつ、なつ、と男が何度も奈都の名前を繰り返す。
『奈都、奈都…』
『お、おい…そんなに、やたらに人の名前を呼ぶなよ』
『あ、ごめんね。…なんだか、嬉しくてさ』
男がはにかんだ。
臆面もなく差し出される感情に、こちらが気恥ずかしくなる。
『ねえ、奈都』
『あ?…なんだよ』
『奈都。僕は、イサ』
『なに?』
『僕の名前。イサっていうんだ』
『ふーん…』
なんとなく、呟いてみる。
「イ、サ」
すると、その口の動きをみてわかったのだろう。
奈都の頭の中で、はい、と、実に楽しそうな男の声が聞こえた。
「お姉ちゃん!」
あれから一月半。少女は走り回れるほど回復した。
「お姉ちゃん。私、おなかすいたー」
「おー、そうかそうか」
少女の無邪気な声は、この薄暗い森の淀んだ空気を和らげるようで、奈都は好きだった。
「うーん…飯にはまだ早いし、おやつでも作ってやろうか」
「やったあー!」
奈都は外で薬草を摘んでいるイサの元へと向かった。
『イサ。カムラ油を使っていいか?』
『油?構わないよ。何に使うんだい?』
『ミラがおなかすいたってさ』
少女は、名前をミラ、と名乗った。
父親が居らず、母親は働きづめで、生活を助けるために働いていた。そんな時に、機械の事故で、腕を切断したのだという。
『だから何か軽いものでも作ってやろうかなって思ってさ』
『そうか。…食欲は、元通りだね』
『…、ああ』
少女の腕は、完全には治らなかった。
大きな傷跡が残ってしまったし、指の動きもぎこちない。
術後の熱のせいかもしれない、とイサは言っていた。
イサは彼女の指を動かすために、毎日毎日、薬を作っては試している。
しかし、今のところ効果は、ない。
ミラは、本当に家に帰れるのだろうか。
イサは教えてくれなかった。
「お姉ちゃん、なあに?それ」
「メリゴの根だよ」
奈都はそれを、ナイフで薄くスライスして、熱した油に一枚ずつ入れた。
ミラが不思議そうに鍋のなかを覗き見る。
「うすーいね…紙みたい」
「お菓子みたいなもんさ。すぐできるよ」
何度も使い回された真っ黒な油で揚がったメリゴのチップスは、所々黒い点があり、いびつだった。
しかし皿に盛ると、カラカラといい音がした。
「わあ!おいしい!」
ミラ目の色を変えて次々に口にいれて頬張る。
そんなミラを、奈都は微笑ましく見ていた。
ミラの笑顔は、奈都を暖かい気持ちにさせてくれる。
この世界でも、きっと私はこうして生きていけるんだ。そう、奈都に思わせた。
しかし。
「ありがとう、お姉ちゃん。最期にこんなにおいしいものが食べられるなんて思わなかったよ」
「…は?」
「これ食べたら、ミラ行くね」
「…家に帰るのか?」
「ううん。処理場にだよ」
ミラは言う。
さっきまでとまるで同じ無邪気な顔で。
「は…?」
「これじゃもう、家には帰れないから」
ミラは右手の指を、動かした。
指先だけで、ほとんど動かない五本の指。
「な…なんで…」
ミラはわかっていた。
後遺症が残ってしまったということは、自分はもう、家には帰ることはできない。
自分がこの世界で永遠に弾かれた存在に堕ちたのだと、彼女はちゃんと、理解していた。
「…く…」
奈都は顔を伏せた。
歯を食い縛り、地面の腐った枯れ葉の一枚を睨み付け、言葉を探している。
「お姉ちゃん?」
なんということだろう。
この子は、笑顔の裏側で、自分で自分の死を、覚悟していたのだ。
「…き、今日、は…」
「?」
「今日は、な。ほら、天気が…崩れそう、だから」
辛うじて、絞り出すように。
「だから、今日は、やめておけ」
なんとか、言った。
死にに行くのに、天気などー。
それは二人とも、わかっている。
「…うん。じゃあ、明日にするね」
けれど、そう答えたのは。ミラの、奈都へのせめてもの優しさだったのだろう。
「…ほら、もっと食べろよ」
「うん!ねえお姉ちゃん、これ、とってもおいしいね」
「……だろ。も少し、作ってやるよ」