怖いんだ
奈都は部屋でじっとうずくまっていた。
敗北感、劣等感、虚無感。
それらが奈都の胸を空っぽにした。
少しだけ芽生え始めていた何かが、全て壊されてしまった。
「……初めから、そうだったんだ」
呟いて、目を閉じた。
カチャ、と部屋の扉が開いた。
コーサか、と思った。
けれど、違った。
『…っ!お前……』
扉を開けたのは、イサだった。
『なん、で……!』
『……君に、会いに』
窓から月の光が射し込む。
スフマートに浮かび上がった、二人の顔。
視線がぶつかる。
『……奈都』
『…………』
『ねえ。僕ら、ふたりで逃げてしまおうか』
イサが言う。
『どこでもいい。新しく家を建て直して、そこでまた、ふたりで暮らさないか』
いつか、奈都が言った台詞だ。
今思えば、ひどく荒唐無稽な、夢物語。
そんなこと、叶うはずないとわかっていた。
ただ、イサを手放すのが嫌で言った、子供のような駄々。
『…いらない』
奈都は、拳をぎゅっと握り締めた。
『私は、お前なんか、いらない。…お前は勝手で、自分で考えて、動くから』
臆病で、か弱いものしか、欲しくない。
いつまでもかごのなかで、私だけを待ち望んでくれる。私が見ていないと、生きていられないような。
そんなものじゃなきゃ、いらない。
いつか逃げてしまうものなら、最初から、いらない。
『……だから、もう……』
声を絞り出す。はやく、目の前から、消えてほしい。
『……奈都』
けれど、イサは動かない。
『自分より弱いものしか愛せないなんて、子供のすることだよ。自分を愛せない、子供のすることだ』
奈都の心臓が、きゅっと音を立てた。
『……っ、だから、なん、だよ……』
『…………』
拳を握りしめる。
手のひらに、爪が食い込み白くなった。
『……私は、いつだって、誰からも………』
奈都の脳裏にこびりついた、記憶が甦る。
ハルは体が弱く、ほとんど外で遊ぶことがなかった。だから二人の遊びは、もっぱら、ピアノの前に並んで歌うことだった。
鍵盤を叩き、でたらめに音をならして、好き勝手に歌うのは楽しかった。
「…………」
けれど、すぐにわかった。
姉の作る音と、自分のそれは何かが違う。
音の中に、見える世界が違う。
うすぼんやりと感じていたそれは、やがて現実として、奈都に叩きつけられた。
ハルは外の世界へと連れ出され、光を浴び、歓声を浴びた。
奈都など、到底届かない高みへ、彼女は易々上り詰めていった。
奈都は思った。
敵うはずがない。
ハルは元来もっていたその美しい翼で、自分の力で、羽ばたいていった。
対して自分は、狭い池に取り残された、愚かなアヒルだ。
私の翼を愛してくれるものなど、誰もいない。
皆、美しい白鳥に見とれている。
敗北が、骨身に染みた。
『……奈都、僕は……』
イサが歩み寄る。
抱き締めようと手を伸ばした。が、奈都はそれを、押し返した。
『奈都…』
「……っ、嫌、だ……」
喉から、絞り出すような声で奈都は言った。
『やめて、くれ……これ、以上は……』
私に、触れるのも。
優しく、名前を呼ぶのも。
『やめて…くれ……』
また、勘違いしてしまう。自分の価値を、間違える。
『もう、これ以上……、私の心を、かき回さないでくれ……』
『奈都』
イサは胸に当てられた奈都の手をとった。
『そうじゃない』
「……っ」
『そうじゃ、ないんだよ』
「……っ、やめ……!」
手を寄せ、指を絡ませる。
奈都がびくりと体を竦めた。
『……奈都』
「…………」
カタカタと震える、奈都の指。
細く、華奢で、傷だらけの手。
『お願いだ。奈都』
イサはその指先に、キスを落とした。
『……どうか、僕を受け入れて』
「……っ!」
イサは、奈都の体を優しく押し倒した。
イサはゆっくり、確かめるように奈都に触れた。
何度も何度も見てきた、長く、繊細な指先。
それが動くたび、じわり、じわりと、奈都の体が、熱を帯びていく。
「…はっ、ぁ………」
『…奈都』
唇を重ねながら、じんと痺れた頭のなかに、イサの声が響く。
『奈都』
「………、ぁ………」
『奈都……』
名前を呼ぶ、甘い声。
奈都の胸がどくりと音をたてて、波立つ。
『奈都…』
「あぁ………」
得体の知れない何かが、奈都の体のなかで、暴れまわっている。
「ぃ………あ……」
追い込み、急き立て。
今にも、溢れ出てしまいそうになる。
「……っ、イ、サ……」
奈都は、彼の名前を口にした。
「っは、……、イサ……イサ………」
うわ言のように、名前を呼び続ける。
それは嬌声というより、嗚咽に近く。
「イサっ………」
そうでもしないと、彼に心の内を聞かれてしまいそうだった。
最早、逃げようもないほどに。心はじくじくと、熟れてしまっている。
『奈都……』
「ぅ……ぁあ……」
朦朧とした頭で、イサを見る。
『奈都』
イサは、微笑んでいる。
奈都を見つめ、汗で乱れた髪を撫でた。
『奈都。僕は』
「……ぁ……」
『僕はね』
ああ。いけない。
『君を』
「……、ゃめ………」
『君を……』
その先は。
「……っ!」
怖いんだ。
『愛してる』




