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女神の涙ひとしずく

作者: いちい千冬

 一瞬、雲ひとつないはずの空が、ふと陰ったようだった。

 幾人かが空を見上げる。そして「あ」と声を上げる。指をさす。

 いつの間にか、平原に集結した何十万という群集が、呆然と空を見上げていた。


 ひとりの少女が、平原の戦場に、ゆっくりゆっくりと落ちてきたのだ。



          ☆ ☆ ☆



 その大陸にはふたつ、大きな国があった。


 西のシャルナーサと東のガナン。

 数百年にわたってにらみ合い、牽制し合い、周囲の小国をも巻き込んで戦を繰り返してきた二国は、その日、国境の平原で相対した。

 これを制した国が大陸の覇者となる。預言者の言葉からそう確信した両国は、これまでの小競り合いとは比べ物にならないほどの戦力を注いだ。

 どちらが勝っても負けても、そして決着が付かなかったとしても、双方に尋常ではない被害が出てしまっただろう。


 ――戦が、はじまっていたならば。


 形ばかりの交渉は当然のように決裂。いままさに二国がぶつかろうというそのとき。

 天照らす女神のもとから下界へと、少女が降りてきた。

 貫頭衣のような簡素な服からのぞく華奢な手足は白。ふわふわと風に揺れる髪は陽光にきらきらと輝く黄金。固く閉じられた瞳の色が青であれば、伝わる女神そのままの色彩である。


「あれが“女神の涙”か」

 西国の王が唸り。

「女神の加護が現れた」

 恍惚とした表情で東国の王が呟いた。

 そしてほとんど同時に戦場の端に向かって動き出す。少女が落下すると思われる、その場所に。

 少女の身体は両国のどちらに偏ることもなく、それぞれの本陣からちょうど同じ距離にあった。


――この日この場所で、女神はひとしずくの涙を落とす。

  女神の憂いは涙によって取り払われ、狭き心は広く満たされ、潤う大地は豊穣を約束される――


 この戦について、世界中の名のある預言者たちはまったく同じ言葉を告げた。

 一字一句違えることのない予言が複数の預言者の口から、複数の場所で同時に告げられたのは前代未聞のことだ。

 戦で疲れ果てた大陸についに平和がやってくる。そう、誰もが考えた。

 そして支配者たちは確信した。女神の涙を手に入れた者が女神の選んだ大陸の覇者である、と。




 馬を駆り少女が降りたと思われる場所に到着すると、そこには先客がいた。


「ああ、わざわざご苦労様です、両陛下」

 いまだ意識がないらしい白い衣の少女の傍らには、すでにひとりの男がいる。

 黒い髪に暗紫色の切れ長の瞳。大国の王ふたりを目の前にしても飄々とした笑みを浮かべる男に、東国ガナンの王が呆然と呟いた。

「おまえは、南の――執政官」

「ミラノスの“闇商人”か。なぜここに」

 ガナン王の言葉を受けてシャルナーサの王が吐き捨てるように言った。

「お見知りおきいただいて光栄です、両陛下」

「その手にあるものを寄越せ」

「いや、それは我が手にすべきもの」

 南国ミラノスの執政官が優雅に頭を垂れても、相手はまったく気に留めないようだった。興味と関心と野望の全ては、彼の腕におさまる少女に向かっている。

 西国の王が尊大に言い放てば、東国の王がじろりと横目で彼を牽制する。

「いつも自国の軍の後ろで震えている小物が何を言う」

「頭の中までも筋肉でできた馬鹿に言われたくはないがな」

「はっ、そういう貴様は薄い書物すら人に運ばせる軟弱者ではないか」


 西国シャルナーサの王は武の王、東国ガナンの王は知略の王と呼ばれている。

 どちらもそれなりに尊敬を集めているそれなりの君主なのだが、しかし南国の執政官を前に不毛な言い合いを続ける姿は、なんというか、割って入るのも馬鹿馬鹿しいほど子供じみている。

 南国の若き執政官は、笑うしかなかった。


「“女神の涙”は大陸を統べる器を持つ者が手にするべきだ。執政官どのもそう思わないか」

 そして自分こそがその器なのだとばかりに大国の王は胸を張る。

「いいえ、残念ながら思いません」

 にっこりきっぱりと南国の執政官は言う。

「“女神の涙”とは、両陛下が思うような戦の道具ではないのですよ。見ればわかるでしょう。わたしが保護させていただきます。あなた方ではこの少女が可愛そうだ」

 彼の腕の中、少女は瞼をちらとも動かす気配はなかった。

 その必要がないとでもいうように。


 大国の統率者ふたりは唖然としていっしゅん言葉を失い、次に目の色が変わった。

「やはり…貴様の持つそれが“女神の涙”なのだな!」

「漁夫の利を狙うつもりであったか。薄汚い“闇商人”が。……いや」

 東国ガナンの王は、自分が口にした目の前の男の別名に、考え込むように薄い髭の生えたあごに手をやった。

「ミラノスは商人の国。なにより金が大事な商人ふぜいが大陸の覇権など興味はあるまい。もしやどこぞへ売るつもりでは」

「なんだと!」

 どしゃりと音がした。西国の王が、黄金の甲冑を着込んだ足で乾いた地面を踏みしめたのだ。

「女神の慈悲すら貴様らには金儲けの道具に過ぎないというのか! ふざけるな!!」

「それはこちらのセリフですよ、陛下」

 ふたりの国王に比べればあまりに淡々と、黒髪の青年は言った。

「なにか勘違いをしていらっしゃるようですが。勝手に盛り上がるのもたいがいにしてください」

 よいしょ、と彼が腕の中で眠る小柄な少女を抱えなおすと、野心家たちの目が少女に釘付けになった。あまりにぎらついた視線に、南の若き執政官は溜め息をつく。

「まず、この娘はたしかに“女神の涙”と予言された者だと思います。しかし彼女を手に入れれば大陸を統一できるなんて話はどこにもありません。予言をよく思い出してみるといい」


――女神の憂いは涙によって取り払われ、狭き心は広く満たされ、潤う大地は豊穣を約束される――


 東国の王が、探るように言った。

「慈愛の女神の憂いとは、長年にわたる人と人との争いのことだろう。憂いが取り払われるとは、すなわち戦がなくなるということ。大陸の統一を意味するのではないのか」

「おおむね同感ですが、最後のは飛躍しすぎですね」

 南国の執政官は苦笑じみたものを口元に浮かべた。しかし暗紫色の瞳は氷のような冷ややかさで、ふたりの権力者を見据える。

「別に統一しなくても、あなた方が矛を収めて下されば戦は終わります。そのほうが早い」

 西国の王がせせら笑った。

「東が兵を引けば我等も引くがな」

「そういう西が先に兵を引けばよい」

「そちらが始めたことであろう」

「仕向けたのは西であろうが」

「また屁理屈か」

「そちらは言いがかりばかりだ」

「……見事な応酬です。もしかして気が合うんじゃないですか」

 あきれたように南の執政官が言えば、東国の王は顔をしかめた。

「南の。なぜそなたの指図を受けねばならぬ」

「そもそも、よりによって貴様が戦を収めろなどと、冗談でも笑えぬ。戦によってもっとも利益を受けているのは南の商人どもだろう」

「ええまあ」

 西国の王の嫌味にも、黒髪の執政官はのんびりと頷く。仕草のひとつひとつが鷹揚なのは、腕に眠る少女を気遣ってのことだ。

 これだけ騒いでいるというのに、少女は一向に目を覚ます気配がない。

「当事者にとって戦は失うばかりのものですが、我々は直接関わってませんから。仰る通り、我々は商人。買うと言われれば売りますし、金額もそれ相応にはいただきます」

「“闇商人”がよく言う……!」

「これでも真っ当な商売をしているんですがね。我ながら、どうしてそんなあだ名が付いたんだろう」


 商業国ミラノスの上得意であるふたりが何かを言う前に、南の執政官はさらに続けた。

「物事には限度がある。あなた方はやりすぎですよ。争いというのは物流を滞らせる。人手を取られるので生産も落ちます。この平原だって、軍馬に踏まれなければ良い放牧場所だったのに」


 ただでさえ保存食として需要が高い肉類と乳製品の価格は、平原が戦場になったことでさらに高騰した。保存食を口にする機会が多い戦場に身を置くふたりの王は、商人に「高い」と文句を言う前にそれを知るべきなのだ。


「引き際を見極めるのも、商人として成功するためには必要なことです。あなた方も同じでは?」

「―――若造が」

 苦虫を噛み潰したような西国の王の言葉に、黒髪の青年は「まあ、そう思うでしょうね」とあっさり肩をすくめる。多少の差があるとはいえ、南国の執政官は二国の王よりひと回りは年下だった。


「南の。けっきょく何が言いたい。戯言で我等を操るつもりか。南のミラノスも覇権を狙っているということか」

「狙っていませんよ。そんな面倒くさいもの、頼まれてもいりません」

 うんざりしたように南の執政官は言う。

「けっきょくも何も、さっきから言っているでしょう。双方矛を収めて国へ帰ってください。女神の憂いとは争いのことだと、そう言ったのはあなたですよ東国の王。憂いの元を作るあなた方に女神が恩恵をもたらすと本気で思っているのですか」

 ガナン国の王がさっと顔色を変えた。

「そなた、予言についてなにか知っているのか。まさか――」


 武器や物資を売りつけることはしても、決して自らは戦をしない南の国ミラノス。


 その執政官のひとりである青年がこの戦場にあり、そして誰よりも先に“女神の涙”を手中に収めているという事実。

 長年の宿敵のかつてない強張った表情に、西国シャルナーサの王も察したようだった。

「貴様が、あるいは商人ごときの作った小国が女神に選ばれたというのか……そんな馬鹿な!」

「……あなた方、ほんとうにそれしか頭にないんですね」


 ひとの話はちゃんと聞くものですよ。

 諦めたように呟いてから、南国の執政官は暗紫色の瞳を細めひんやりと微笑んだ。

 西国の王が腰の得物に手をかけ、東国の王が背後の兵士に合図を送るべく利き手を上げようとしていたのだ。少女が青年の腕に抱かれた状態で一斉に攻撃すれば、少女もただでは済まないだろう。

「他の人の手に渡るくらいなら消してしまえと?」


 あるいは“女神の涙”ならば傷つかないとでも思っているのか。


 どちらにしろ少女を生身の人間とみなしてはいないのだろう。

 壊れそうなほど儚く柔らかく、ほんのりと温もりを持ったこの少女が、物であるはずがないのに。


「ああ、実に分かりやすい、実にひねりのない単純思考ですね」

「その小ざかしい口をすぐに塞いでくれるわ」

 シャルナーサ王が剣を抜き放ち、ガナン王が利き腕を持ち上げる。

 彼らの背後に控える彼らの兵士たちもまた、急速に凶暴な気配を膨らませていく。


 次の瞬間。


 雲ひとつない昼間の空が、いっしゅん闇の色に染まった。


 ざらり、となにかが崩れる音がする。ささやかな音は、しかし武器を持つ兵士たちの困惑と畏怖の声にあっという間にかき消されてしまう。


「な、なにが―――」

 驚愕の表情で西国の王は自分の手のひらを見つめた。つい先ほどまで、剣を握りしめていた手である。

 その手のひらに愛用の長剣はない。

 空を闇が支配した一瞬の後、剣は砂となって王の手の中で崩れ落ちたのだ。


 はっとして東国の王が腰の得物に手を伸ばすが、抜かずにいたそれさえも鞘ごと跡形もなくなっている。

 王の剣だけではない。平原に集結した全ての武器・兵器、盾や防御柵でさえもが瞬く間に砂と化した。


 平原を渡る風のほうがまだ大きいだろう、そんなわずかな音のみを立てて。


「――女神の憂いは女神の涙によって取り払われた」


 騒然となった場に、静かな、しかし不思議とよく通る声が響いた。

 あまりに淡々とした声は、混乱した人々にはどこか厳かにも聞こえる。

「武器だけで、良かったですね?」

 薄い唇に浮かぶ、薄い笑み。


 東西の大国の王は、最初から武器ひとつ持たずにぽつりと戦場に現れたミラノスの執政官とその腕に眠る――いまだに眠る少女を凝視しながら、無意識に一歩、二歩と後ずさった。

 不可思議な出来事を目の当たりにした驚きと恐怖、そしてわずかな野心をその目に宿して。

 南国の執政官は少女をさらに少し引き寄せた。ぎらついた視線から彼女を守るように。

「そなた、知っていたのか」

 東国の王が呟いた。

「予言がなにを意味するのか。最初から知っていたというのか。なぜだ。ならば後の文言は――」


「双方、この場から引いてください」


 大国の王の言葉が聞こえていないかのように、南国の執政官は告げた。

「もっとも、武器を失くした今では戦のしようもないでしょうが」

 それとも殴り合い蹴飛ばし合いますか。どこかのやんちゃな子供のように。

 黒髪の青年の口から、くすりと笑みがこぼれる。

 二国の王はそれぞれにぐっと黙り込んだ。彼の言葉通り、背後に引き連れてきた兵士たちは武器を失ってひたすら混乱し怯えていたからだ。いまの彼らに命令に従えるような冷静さはない。

「無理でしょうね。人を傷つけるのに、人は道具を使うことに慣れてしまっている。直接人の命を奪う感触に慣れていない。命令を下す立場のあなた方は、とくに実感などないはずだ」

「それを売りつけてきたのは貴様ら武器商人であろうが!」

 “闇商人”の異名を取る南国の商人は飄々と頷く。

「ですから我らミラノスがあなた方に忠告するのです。これ以上の戦は女神の望まれることろではない、と」

「金の亡者が正義の使者の真似事か。笑わせるな!」

 怒りのためか手にしていた愛用の剣の存在がない不安からか、西国の王は震える拳を強く握りしめる。

「ええ。それこそ失笑ものですよ」

 ききわけのない子供に言い聞かせるように、ゆっくりと彼はうなずく。

「正義なんて不経済なものは嫌いです。我々商人は金の亡者ですから。あなた方はやりすぎだとさっきも言ったでしょう。これ以上の戦は損なんですよ、我々にとっても、誰にとっても」

 本当に人の言うこと聞いてないですね。

 半ばあきれたように黒髪の青年は呟いた。

 まあ、国の長に少しでも周囲の人の声に耳を傾ける気があれば、ここまで戦が大きくなることもなかったのだろうが。


「大陸の二大国シャルナーサとガナン。昔から大陸の覇権を狙って火花を散らしていたのは、大陸に住む者なら誰でも知っています。その二国の王を前にしても“女神の涙”は目を開けない。この意味はお分かりですか?」

 言葉もない周囲に対して“女神の涙”を腕に抱いた青年は続けた。

「実は、わたしもよく分からないんですよ。シャルナーサ王、予言に関してわたしはわたしなりの解釈をしているだけです。それがあなた方とは違っただけで」


 しかし、と青年は笑う。

「どちらにしろ、あなた方は女神の加護を得られないと思いませんか?」

「なにを……」

「そちらの解釈でいけば、“女神の涙”を手にしているわたしが大陸の覇者ということになる。まったく迷惑な話ですが。そしてわたしの解釈は、あなた方がこの馬鹿げた戦を終わらせることこそ女神はお望みだということ。あなた方の行為は、女神の意思に反する」

 丁寧な口調は、重苦しく平原に響いた。


「先ほども言ったでしょう。武器だけで済んでよかったですね、と」


 底冷えのするような瞳に見据えられ、ふたりの国王は何も言えなくなった。

 唐突に、この南国の執政官とその腕に眠る――眠っているだけの少女が恐ろしくなる。

 なぜ目を開けようとしないのか。意識がないまま、自分ではない他国の人間などに身体を預けているのか。歯がゆく思っていたというのに、いまはその事に安堵すら覚えている。


 ―――女神の憂いは涙によって取り払われる。


 予言は、平和を約束するような優しい文言で綴られている。

 だが“女神の涙”が――女神と同じ黄金の髪を持つ少女が、彼らを助けるとは限らない。それどころか断罪、そして粛清される可能性もあるのだ。

 武器のみを最初に破壊されたのは、警告かもしれない。

 次に砂のように崩れて消えるのが、人でない保証はどこにもない。

 相手は女神なのだ。この世界を創り、守り、見つめる絶対的な存在。

「さあ」

 口調だけは恭しく、黒髪の青年は東西二国の王に告げた。

「両陛下。ご決断を」



          ☆ ☆ ☆



 彼が戦場へ出かけたのは、ほとんど興味本位だった。

 予言の“女神の涙”とはいったい何なのか。手にするのは誰なのか。誰かが手に入れることができる代物なのか。

 少数ながら一騎当千と呼ばれる精鋭を引き連れていたのはあくまで自衛手段で、東西どちらかに手を貸そうと思っていたわけでもない。

 背後に隠していたその小隊の武器までも、女神は容赦なく粉砕してくださったわけだが。


 まさか自分の頭上にそれが降ってこようとは思ってもみなかった。


 ふわりと空から降りてきた、確かな温もり。

 それは冷え切った心にはあまりに熱くて、優しくて。

 人と軍馬と人の作った武器で埋め尽くされた平原は、それほどに寒々しかった。

 寒々しいことに、気付かされた。


 彼は気が付けば小さな温もりを抱きしめていた。

 手放すことなど、すでに考えられなかった。




 一年前まで執政官のひとりであった青年は、大陸中の国々を巻き込んだ東国と西国の戦の後、すぐに地位を返上し、南国ミラノスの端にある港町に移り住んだ。

 “女神の涙”を伴って。

 それは彼女の安全のためでもあり、自分の身の安全のためでもあり、また仕方なく務めていた執政官の地位がいよいよ邪魔になったからでもあった。

 

 あの日、空から降ってきた少女は、戦場を後にしてからしばらくして目を開けた。

 その色は女神の青ではなく、夜の色。

 金色に輝いていた髪も、いつの間にか同じ色に変化していた。

 これで娘用の普段着を着せてしまえば、彼女の姿を間近で見た二大国の王でさえ“女神の涙”と気付きはしないだろう。最近では娘を狙って屋敷を襲う賊や刺客の類もめっきり減ってきた。

 現れたときと同様、ふっと姿を消したとでも思ってでもいるのかもしれない。

 それでも侵略目的の武器は作った端から砂に変わってしまうので、好戦的な国々も大人しくならざるを得ないようだ。


 “女神の涙”は、普通の少女だった。

 自分が女神の慈悲であるという自覚はなく、戦場で全ての武器を砂に変えてしまった記憶ももちろんなく、さらには自らに関する記憶もまるでないようだった。

 断言できないのは、さいしょは言葉さえも通じなかったからだ。

 何かを話している。しかしそれはこの世界のどの言語にも当てはまらない。

 あるいは、記憶のないことが女神のささやかな配慮なのかもしれなかった。彼女が故郷を思って悲しむことのないように。


 青年は、少女に言葉を教えた。

 生活する上で必要な知識と作法、さらにはこの世界のことも。

 まるで幼子にそうするように。丁寧に、時間をかけて。

 現在少女は簡単な会話であれば問題なく行うことができるまでになった。


 若くして南国の執政官を務めるほど、青年は周囲に認められた商人だった。

 他国の外交官が閉口するほどの交渉上手で、その言葉使いの巧妙さと駆け引きの絶妙さと抜け目のなさは“闇商人”とあだ名されるほどだ。

 だが、“女神の涙”である少女にはまるで効果がない。

 そもそも言葉が通じないのだ。効くはずがない。

 言葉で武装していた彼にとってそれはひどく心もとなく、だが不思議と安心する事柄だった。


 年不相応にあどけなく、しかし実に勤勉な少女を相手にしているとき、青年の表情はひどく穏やかで優しげだった。

 青年をよく知る者たちが、そろってぽかんと口を開けゴシゴシと目をこするほど、それは珍しい――いやあり得ない光景だった。

 きっと明日槍が降るに違いない。いや、もう降ったのかもしれない。女神の慈悲で地表に届く前に跡形も無く壊されただけで。




 咲き誇る白い花々の中から楽しげな笑い声が響いてくる。

 同じ声が自分の名前を呼んでいる。

 庭を眺めていた青年は、ふと苦笑を浮かべた。

 

 この世界に何の興味もなかった。

 平和であろうとなかろうと、自分が生きようと死のうと、どうでも良かった。

 なんの意味も見出せなかった。


 いまもそれは変わらない。

 

 だがたったひとつ。

 守りたいと思えるものに出会ってしまった。

 

 それが良いことなのか、あるいは悪いことなのかはわからない。

 

 少なくとも、ひどく満ち足りた気分ではあった。


 女神に感謝しても良いと、思える程度には。

 


まとまりのない文章でスミマセン。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 幸せな未来しか(私には)想像できない展開。 [気になる点] 想像して楽しむタイプの読者じゃないと、ツッコミどころしかないと感じるかも(笑)?! [一言]  驚いてます。 ラノベ定番の異世界…
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