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「おお~深來ちゃんが来たぞ~! おはよう~!」
「ハハッ、今日もカワい~ね~! アハハハハ」
都内にある、とある優等学校。、私立開央学園高等部。この国の私立高校の中でも、なかなかのお金持ちが集まった、比較的偏差値の高い、有名進学校である。
梅雨の雨が静かに音を立てる、どんよりとした空の下。
きちんと整備された校舎の廊下では、一時間目の授業を終えた5~6人の男子生徒達が、廊下でおしゃべりを始めていた。
「そういえば、俺、みらいちゃんに『好きな男いるの?』って聞いてみた」
この学校の制服の、グレーのズボンとジャケットを着た、金髪の生徒が言った。顔つきから、どうも外国の血が混ざっているようである。
「マジ~? うわ、なんて言ったの? お前のことスキって?」
「――嫌、あいつ、その後なんて言ったと思う?」
「何~?」
「『わ、私、芸能人とか、興味、無いんで……』だってよ! 意味わかんなくね?」
「は、流石みらいちゃん! やっぱ頭オカシイわ~」
「アハハハハハハハ」
彼らはリーダーらしき金髪に青の瞳の男を中心に、冷たく嘲笑した。
「……?」
ふと、教室の扉に寄りかかっていた黒髪の一人が、廊下の階段に続く方に視線を向けた。
「わ、来た来た~! 今日も遅刻だぜ?」
「噂をすれば影、いいタイミングじゃん」
とたん、彼らは陰のあるニヤニヤした笑顔で、その方向を見た。
その視線と声の先から教室に向かってくるのは、汚れ、黒ずんだ制服を着た、ダサい三つ編みの女子だった。
赤い眼鏡をかけうつむいたまま、そわそわと挙動不審に歩く。
「おはよ~! みらいちゃん! 今日も、カワイーね~」
金髪の生徒が、翳った笑みで白い手を女子の肩に置く。
「……!」
女子はそれに一瞬体をビクつかせると、慌てて肩を手から離す。
「アハハハハ」
男子生徒たちの汚い嘲笑に彼女は怯え、逃げるように教室に入った。
でも、そこに待っているのは、クラス全員の冷たい視線。
それが、いつもの朝の風景。
―――だが、今日は違った。
「黙れ、雑魚」
冷ややかな殺気を帯びた声とともに、黒い髪がサラッと靡く。
「!!!!!!」
金髪の男は、手を掴んだ驚くほど強い力に、目を丸くする。
次の瞬間、すでに彼らは地に転がっていた。
「ちっとも面白くないから? そうだ、お詫びに、金、いただくから」
痛みにうめく彼らの、かすんだ目に映るのは、いつもの三つ編みの少女ではない。
―――黒髪の、鋭い目つきの猛獣だった。
「……ま、まさか、LIE……!?」
少女は不敵に微笑み、教室に飛び込んだ。
教室が、悲鳴であふれるのは、そのすぐ先のこと。
―――楽に、なりたい。苦しい。悲しい。寂しい。……辛い。
いつになったら、この痛みから、開放されるのか。
運命の悪魔に、見逃してもらえるのか。
―――それとも、勝つしかないのか……?
何も、わからない。
コレが、私なんて。
―――LIEって、こんな情けない奴だったっけ……?
誰か、助けてよ。
その日も、彼女が微かに想像したような、大事件が学校に起こることはなかった。
彼女は、今日も、クラスと学年中の遊戯の対象となり、あげるとキリがない程の、幼稚で過酷で陰質で、残忍ないじめに、ひたすら耐えるしかなかった。
そして、疲れ切った淀んだ表情で、俯いて家への帰路につく。
―――その時は、突然訪れた。
「あれ、みらいちゃんじゃね? おーい! みらい!」
午後四時、急いで校門を出た矢先、のろのろと歩く女子高生の背中を、若い男の笑った声が追いかけた。
(……っ)
少女はそれを聞き、一瞬戸惑いがちに目を細めると、進む速度を急に早めた。
たどたどしく不安定に繰り出されていた足は、ぎこちなさを残したまま速度を増し、些かならない違和感を醸していた。
「ッチッ、おい! お前のせいでみらいちゃん、逃げちゃっただろ! ……そうだ、家まで尾行してみね?」
少女と同じ校章を付けた金髪の男子高校生が、先ほど叫んだ茶髪の仲間をニヤニヤしながら睨みつけた。そしていいことを思いついたと言わんばかりに、陰った笑顔で笑う。
「いいね! やろう、気づかれないようにね」
彼ら二人と一緒にいた、巻き髪に淡い化粧をした女子高生が、茶髪と同様にそれに同意した。三人はターゲットの同級生を視線だけで追いながら、道の端を素早く進んでいく。
一方、少女は人の多い商店街へと歩みを進めた。
車の通行は殆どないものの、多種多様の店が並ぶ道は、ただでさえごった返している。三人は内心、「よくも面倒くさい道を通ったな!」とイラついていたが、最早少し気をそらせば標的を見失ってしまいそうな状況で、遠くに見える制服姿を追うことに集中していた。
一方、少女は後方からつける三人組の姿に、気が付いていた。
商店街は本来の帰宅ルートとは大逸れたものであったが、それは三人を撒けるとよんだからだった。
しかしどうやら、三人はわるふざけだったのが、相当真剣になってしまったらしい。それにしても、結構な人通りの中よくもまあ見失わないなぁと、思わず舌を巻きたくなる。
(走ろう、かな……?)
耐えかねた少女は、思わず走って振り切る道を選択した。
「あ、みらいちゃん、走り出したよ!」
「チッ、むかつく……、この状況じゃあ、人が邪魔で走れねえし」
三人はすぐさまそれに反応したが、人の列が邪魔になってなかなか走る、なんてことはできない。相手も同じ人ごみの中を走っていたわけだが、少しばかり気をせかしていた三人は、そのことに気が付かなかった。
「あれ、あっ、見失っちゃったよ……?」
「ハァ、疲れたな」
「その程度でか? でも、俺も見逃した。悔しいな。みらい」
「またさ、今度おっかけてみようよ? でさ、今日はせっかく商店街来たんだからさ、名物クレープでも食べて遊ぼうよ。いいでしょう?」
「……取り敢えず、ここまで来たんだ。それも悪くない。キミの希望だったらな」
「そうだね~、俺も、クレープ食いてえ。腹ガチ減ったんだけど」
突如角を曲がって視界の奥から消えた少女の姿を追うのは諦め、結局三人は、クレープ片手に商店街で遊ぶことにした。
(撒いた……? いや、曲がったところを見られたかもしれない……)
少女は、後ろを気にしながら、まだ、ぎこちなく、走っていた。
撒けたのならいいのだが、三人が「おとり」であるということもある。こっちが撒いたと油断し一息ついたところで、別に追っていた奴らが絡んできたりするかもしれないし……、油断はできない。
少女の視線は一見怯えているように見えたが、実は隙なく後方を観察していた。
やがて、割と細い住宅地の路地に入り込む。流石にただの高校生は、ここまで深追いしてこないだろう。それに人気もないし、ここまできたらもう安全だ、少女はようやく、後ろを振り向きながら走るのを、止めようとした。
―――その時、白いシャツが、視界にうつり込んだ。
「っ……!?」
「キャアッ!」
少女が、小さな悲鳴をあげた。わき腹に勢いよく何かがぶつかり、勢いよくバランスを崩す。
突然の事で、なまった身体は動かなかった。代わりに目だけ、道に立つ家が傾くのを抜かりなくとらえた。
―――倒れる!
だが、その直前、背後から腰を締め付けられた。
傾いた世界はそこで動きを止め、ゆっくりとまっすぐに引き戻された。
「あ……」
どうやら、誰かにぶつかったらしい。そして、その相手が助けてくれたようだ。力からして男であるのは間違いない。
「だ、だいじょうぶ、ですか……?」
少女を腕の中に抑えたまま、白いシャツの男は言った。
「はい……、……、……!?」
青年は、眼鏡の下、不安げな優しい眼で、少女の瞳を覗き込んだ。
だがその瞬間、少女の瞳孔が最大限に広がった。
悪寒のような、恐怖に近い感覚が、背中から手足の先まで一気に広がった。鳥肌が立っていた。
―――怖かった。
「……? ……。……、どうか、しましたか? どこか、痛いんですか?」
少女の表情が明らかに硬化したことに、青年は少し押し黙り、また不安げにまばたきを繰り返した。
少女の顔を見つめるのは、黒い巻き毛に黒縁眼鏡をかけた、整った顔立ちの本当に色白の青年だった。
白いシャツの胸のポケットには、桜をモチーフにした金色のピンが刺さっていた。
この地区の学生誰もが知るそのエンブレムに、思わず尋ねる。
「さ、桜里……?」
「あ、ああ、いや、うん。それで君は、開央の生徒さん……だよね?」
青年が、いかにも自信なさげな声で言った。
「あ、は、はい……大丈夫です……す、すみませんでした、失礼します!」
だが、少女は明らかに震えた声で認めると、前髪を片手でいじりながら、慌てて青年の腕を振りほどいた。そのまま背後を振り返らず、住宅街を全力でひたすら駆け抜けた。
その場に一人残された青年は、暫く、遠ざかる後姿をキョトンとしたような顔で見つめていた。
―――なんだろう、この違和感は? 何故、あれほど慌てて逃げた?
微かに眉を細め、視線を下に落とした。
「……?」
すると、青いポケットサイズの手帳のようなものが、地面に開いたまま落ちているのに、気が付いた。
「学生、手帳……? 今の子の物……?」
一瞬周囲を見回すと、青年はそれを、屈んで手に取った。
パラ、と左手でページをめくると、なにやら落書きらしいものや、破った跡などが数多く見受けられた。だがひとまずそれは流し、「私立開央高等学校 生徒手帳」と書かれた表紙の、裏をめくってみた。
「……小林 未來、私立開央高等学校2年C組12番……」
小さな声で、呟いてみる。
「未來……。みらい……? み、らい……!?」
だがその名を繰り返すうち、青年の目つきは、はた目から見てもわかるぐらいに鋭くなった。
ハッ、と息をのみ、その名と貼り付けられた陰気な証明写真をまじまじと見る。
記憶の中から、フードの少女が小さく告げた別れの言葉が、浮かび上がった。
「まさか……コレは返す前に、上守に調べてもらった方が、よさそうだな」
青年は、自分のズボンのポケットに、少女―――未來の学生証を突っ込んだ。
その表情は、今までの臆病そうなものとは、まるで別人のものだった。




