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妹の代わりに嫁げと言われたので、とりあえず妹も連れて行くことにした。

作者: 十字路
掲載日:2026/09/07

 両親が事故で亡くなった時、リディア・オルブライトは十八歳だった。妹のリリアは十四歳。伯爵家の娘としては、二人ともそろそろ結婚について考え始めてもおかしくない年齢だったが、どちらにもまだ婚約者すらいなかった。


 父が、娘たちの結婚を急いでいなかったからだ。


 特にリリアは、幼い頃から身体が弱かった。季節の変わり目には熱を出し、冬になると一月近く寝込むこともある。少し無理をすれば咳が長引き、華やかな夜会へ一度出ただけで、その翌日はほとんど一日寝台から起き上がれなくなることも珍しくなかった。


 だから父も母も、急いで嫁がせる必要はないと言っていた。身体がもう少し丈夫になってから、本人が安心して暮らせると思える相手を見つけ、それからゆっくり決めればいい、と。


 リディアも、それでいいと思っていた。


 だからこそ、両親が突然亡くなった時には当然深く悲しんだが、いつまでも泣いているわけにはいかなかった。


「リディア。困ったことがあれば、何でも私たちに相談しなさい。」


「女二人では伯爵家を維持するのも大変だろう。領地のことなら我々が見てやれる。」


「リリアも身体が弱い。お前一人で何もかも抱える必要はないんだ。」


 葬儀が終わるより先に、親族が湧いた。


 叔父、大叔父、従兄、遠縁。中にはリディアが名前すらまともに覚えていない人間までいたが、誰もが心配そうな顔をして、いかにも自分たちは善意だけで駆けつけたのだという様子で口々に二人を気遣った。


 リディアには、全員ハイエナに見えた。


 別に、それ自体を責めるつもりはない。人間とはそういうものだろうと思う。


 伯爵位があり、領地があり、屋敷があり、財産がある。そのすべてを持っていた当主夫妻が突然亡くなり、残されたのは若い娘が二人きり。しかも一人は病弱ときている。


 食いつきたくなる気持ちくらいは理解できる。


 しかし、理解できるからといって、食わせるつもりは全くなかった。


「姉様……。」


 葬儀を終えた夜、リリアは泣き腫らした目でリディアの袖を握った。


「私たち、これからどうなるの?」


「何も変わらないわ。」


「でも……。」


「お父様とお母様がいなくなった。それだけよ。家はある。領地もある。使用人もいる。収入もある。それに、あなたもいるし、私もいる。」


 リディアはそう言って、妹の柔らかな髪を撫でた。


「だから大丈夫よ。」


「……本当に?」


「ええ。もちろん。」


 正直、どうなるかなど分からなかった。


 けれど、それで構わない。


 大丈夫でなければ、大丈夫にする。


 それだけの話だ。


 泣き疲れた妹を寝台へ寝かせ、薄い掛布を肩まで掛けてから、リディアは静かに立ち上がった。窓の外では朝から降り続いていた雨が、葬儀の終わった後の庭園を濡らしている。


 泣くことは、いつでもできる。


 今は、それ以外を、やる。


     ◇


 それから五年、リディアは実際にオルブライト伯爵家を守った。


 父の残した帳簿を隅々まで調べ、領地経営を学び、使用人たちの配置を見直し、主要な取引先には自ら挨拶へ赴いた。親切そうな顔をして「しばらく私が領地の管理を代行してやろう」と申し出てきた叔父には、職務範囲と報酬、責任の所在を明記した契約書を作成するよう求めた。途端に、その話は消えた。


 この国では、未婚の女性が家督を預かる場合、成人後も男性親族を名目上の後見人として置く慣例がある。叔父の肩書きを外すことはできなかったが、だからといって実権まで渡すつもりは毛頭なかった。


 更に遠縁の再従兄が「女二人では心細いだろう。僕がこの屋敷へ移ってきても――」と笑った時にも、最後まで聞かずに使用人を呼んだ。


「お客様がお帰りよ。」


「いや、まだ話は終わって――」


「終わったわ。」


 そうして五年も経つ頃には、親族たちもようやく理解した。


 姉は駄目だ。


 御しきれない。


 一方、妹のリリアは十九歳になっていた。相変わらず丈夫とは言い難かったが、幼い頃に比べれば随分よくなり、春から秋にかけてなら外出もできる。体調のいい日であれば、小規模な茶会へ参加する程度のこともできた。


 そして、非常に美しく育った。


 淡い金髪に澄んだ青い瞳、華奢な身体つきに柔らかな声。人当たりもよく、使用人にも領民にも好かれている。


 黙って相手を見ているだけで、「自分は何か失敗しただろうか」と余計な不安を抱かせる姉とは、随分違った。


 しかし、リディアはそんな妹を見るたび、以前から抱いていた危機感をますます強くしていた。


 自分がいる間はいい。


 だが、もし自分に何かあったら。


 今は近づく機会を窺うだけで済ませている叔父たちは、その時こそリリアを利用するだろう。


 中でも後見人を務める叔父には、リリアと年齢の近い息子がいる。叔父はその息子を度々屋敷へ連れて来るうえ、リリアの様子をしきりに尋ねてくる。そのくせ、よりにもよって当の息子には、すでに何人もの女性との色恋沙汰があると報告を受けていた。


 父子が何を考えているかなど、想像するまでもない。


 自分に何か起こる前に、せめて妹だけは安全な場所へ逃がしておかなければならない。


 つまり、結婚させる。


 もちろん、誰でもいいわけではない。むしろ、誰でもいいはずがなかった。


 リディアは家格や資産だけでなく、領地経営の安定性、親族関係、家風、当主夫妻の人格、将来夫となる嫡男の人柄、女性関係、借金、賭博、酒癖、暴力沙汰、使用人の定着率、領民からの評判に至るまで、調べられることは徹底的に調べた。


 普段は領地の事情も家計のことも妹へきちんと共有するリディアだったが、この件だけは伏せた。


 言えば嫌がるに決まっているからだ。


 姉が結婚する前に妹の自分が結婚するなんて。


 自分がいなくなれば姉様が一人になる。


 どうせ、そんなことを言う。


 だから早い段階で知らせる必要はない。まず自分で候補を選び、実際に会わせてもいいと思える相手を数人まで絞る。その後リリアへ話し、実際に会ってもらい、それでも本人が嫌だと言えば断ればいい。


 無理に結婚させるつもりなど、もちろんなかった。


 妹を幸せにするための結婚なのだから、妹が嫌がる相手と結婚させては本末転倒である。


 そうして半年ほどかけて資料を集めた結果、第一候補として浮上したのがグランヴェル侯爵家だった。


 王都から南へ馬車で四日。気候は比較的温暖で、森林が多く、空気もいい。財政は安定し、領地経営も堅実。当主夫妻の評判も申し分ない。


 そして長男のアレクシス・グランヴェルは二十三歳。女性関係に問題はなく、賭博も借金もなし。酒は嗜む程度で、暴力沙汰もない。使用人への横暴も聞かず、領民からの評判も良好。性格は温厚で、唯一の懸念は「少々人が良すぎる」という証言が複数あったことくらいだった。


 去年まで西方の国へ留学していたらしく、そのため婚約者の席も空いている。


 これは素晴らしい。


 天命に違いない。


 人が良すぎる分には何とかなる。


 この男なら、リリアを任せてもいい。


 あとは自然な形で両家に縁を作り、二人を会わせられればいい。


 そう思っていた矢先。


 リディアが本格的に動き始めるより先に、意外なところから話が来た。


     ◇


「リディア。お前に縁談が来ている。」


 後見人を務める叔父に呼び出され、そう告げられた時、リディアは丁度妹にどのように婚約の話を切り出そうか、農地開拓に関する進捗報告書を確認しながら考えを巡らせていた。


 またいつもの戯言かと、手元の書類から顔を上げないまま内心嘆息しつつ答える。


「お断りします。」


「まだ相手を言っていない。」


「結婚する予定がありませんので。」


「相手はグランヴェル侯爵家だ。」


 そこで初めて、リディアの手が止まった。


「…………何と?」


「長男のアレクシス殿だ。」


 リディアは無言で叔父を見た。


 アレクシス・グランヴェル。


 第一候補だ。


 妹の。


「先方は当初、リリアとの縁談も検討したそうだ。」


 それは知っていた。


 もちろんオルブライト伯爵家から正式な打診を出したわけではない。ただ、グランヴェル侯爵家と取引のある商会を通じて、「オルブライト伯爵家の次女には婚約者がいない」「そろそろ家でも縁談を考えているようだ」という程度の情報が、自然に先方の耳へ入るようにはしておいた。


 向こうが興味を持ったのであれば、目論見通りである。


「だが、リリアは身体が弱い。侯爵夫人ともなれば務めも多いし、いずれ子も産まねばならん。あの子には荷が重いだろう。」


「……。」


「しかし爵位は向こうが上だ。せっかくの縁談をこちらの都合で断るのも角が立つ。ということで、姉であるお前が代わりに嫁げ。」


 やはり、とリディアは思った。


 叔父の魂胆は明白だった。


 邪魔なのは自分だ。


 この五年で、オルブライト伯爵家の実権はほとんどリディアが握った。領地の役人も使用人も取引先も、すでに彼女を実質的な当主として扱っている。


 ならば、嫁がせてしまえばいい。


 残るのはリリアだけ。身体が弱く、姉ほど世間慣れしておらず、人を疑うことにも慣れていない。その後で叔父の息子を近づけ、結婚まで持ち込めば、伯爵家も領地も財産も手に入る。


 なるほど。


 とても分かりやすい。


「お前の代わりに私が話を進めておいてやった。なに、リリアのことは心配するな。お前の従弟もいる。」


 その息子が一番信用ならないのだが。


 それは置いておく。


 リディアは配られたカードを、自分の手札とともに頭の中で並べた。


 まあ。


 何とかなりそうだ。


 ならなくても、なるようにすればいい。


 五年間ずっと同じだった。


 目標を決める。


 走りながら軌道修正する。


 ゴールへ手が届き次第、走りながら次の目標を立てる。


「分かりました。」


 リディアがあまりにも素直に答えたため、逆に叔父が目を見開いた。


「……何?」


「嫁ぎましょう。」


「そ、そうか!」


 先ほどまで殊勝そうな顔をしていた叔父の表情が、ぱっと明るくなった。


 本当に分かりやすい。


 やはりこの男に領地経営は向いていない。こんな者が当主になればそれこそ領民が可哀想だ。


「それがいい! お前ももう二十三だ。いつまでも妹の面倒ばかり見ていないで、自分の幸せを考えるべきだ。グランヴェル侯爵家なら申し分ないし、リリアのことも我々に任せれば――」


「ソウデスネ。」


 リディアはこめかみに青筋を浮かべながら、それでも表面上は微笑を保って頷いた。


 それだけはない。


 絶対にな。


     ◇


「姉様、本当に結婚するの……?」


 その夜になって初めて話を聞かされたリリアは、驚きのあまり手にしていたカップを落としかけた。


「ええ。」


「どうして何も言ってくれなかったの!」


「今日決まったからよ。」


「でも……叔父様が強制的に決めてきた結婚なのでしょう? その……姉様が好きな人なの?」


「いいえ。まったく。」


「……え?」


「会ったこともないわね。」


 リリアの動きが完全に止まった。


「待って。私、今とても怖い話を聞いている気がするわ。」


「そうかしら?」


「そうよ!」


 リディアは首を傾げた。


 貴族の結婚である。恋愛結婚ではない方が多いし、会ったことのない相手との婚約だって珍しくない。


「姉様、断れないの?」


 どう答えるのが正解だろうか。


「断るのは、あまり良い選択肢ではないわね。」


 リリアの顔が青ざめた。


「伯爵家と私のために、また姉様が我慢するの……?」


 大きな青い瞳に、見る間に透明な膜が張られていく。


「そ、そうよ。そんなに危険な嫁ぎ先なら……わ、私が代わりに行くわ。」


 鋭い。いや、鋭くない。


「でも、すでに健康上の問題を理由に、叔父様があなたとの縁談を見送ってしまったのよ。」


 しかも勝手に。


「で、でも、だからって姉様が……。」


「相手先は危険ではないわ。むしろ、とても良い家だと思う。」


「会ったこともないのでしょう?」


 会ったことはない。


 だが数ヶ月かけて徹底的に調べている。


 この場では口が裂けても言えないが。


「それに、とても都合が良かったの。」


「何の?」


「色々よ。」


 リリアがますます不安そうな顔をした。


 リディアは一瞬どこまで話すべきか考え、結局やめた。中途半端に知れば、妹は自分のせいで姉が望まぬ結婚をするのだと思い込むに違いない。


 そんな心配をさせる必要はない。


 そこまで考えたところで、重要なことを伝え忘れていたのに気付いた。


「リリア。」


「何?」


「あなたも付いてくるのよ。」


「……はい?」


 今度こそ、リリアは茶器を落とした。幸い中身はすでに空で、床には絨毯が敷かれていたため、割れずに済んだ。


 リディアは転がったカップを拾い、机の上へ戻した。


「落ちたわよ。」


「……姉様。付いていくって、どこへ?」


「侯爵領は温暖なの。」


「……うん?」


「療養にちょうどいいわ。」


 リリアは口を少し開けたまま黙った。


 数秒してようやく意味を理解したらしく、片手で額を押さえる。


「……待って、姉様。結婚するのは姉様なのよね?」


「そうよ。」


「そこへ私も行くの?」


「そうよ。」


「普通、姉の嫁ぎ先に妹は付いていかないと思う。」


「療養だからね。」


「療養って言えば何でも通ると思ってない?」


 通る。いや、通す。


     ◇


「というわけで、妹も連れて行きます。」


 数ヶ月後の出立の日、リディアがそう宣言すると、叔父は分かりやすく固まった。


「……何?」


「療養です。」


「待ちなさい。嫁ぐのはお前だ。」


「存じています。」


「では何故、リリアまで行く!」


「グランヴェル領は温暖で、森林も多く、彼女の療養に適していますので。」


「だからといって、先方へ妹まで連れて行くなど――」


「主治医の診断書です。」


 一枚。


「それから、グランヴェル侯爵家からの滞在許可書。」


 二枚。


「こちらは長距離移動に問題がないという医師の所見です。」


 三枚。


 叔父は手元の紙を見て、リディアを見て、もう一度紙へ視線を落とした。


「……いつの間に。」


「昨日までに。」


「リディア!」


「私たちが伯爵領を離れている間の管理についても、家令と法務代理人、会計官に相談済みです。重要決裁は私の元へ届けるよう手配してありますので、どうかお構いなく。」


「ど、どういう――」


「では、馬車が待っていますので。」


 隣にいたリリアが申し訳なさそうに頭を下げた。


「叔父様、突然このようなことになってしまって、すみません。」


「いや、リリア。お前は残って――」


「療養です。当面一年、向こうで様子を見ます。」


「いや、お前には聞いていない!」


「行きましょう、リリア。」


「え、ええ……。」


 叔父が背後で何か言っていたが、リディアは妹の手を引き、そのまま馬車へ乗り込んだ。


 扉が閉まり、やがて馬車が動き出す。


「姉様。」


「何?」


「叔父様、ものすごく怒っていたわ。」


「そうね。」


「大丈夫なの?」


「大丈夫よ。」


 問題ない。


 大丈夫でなければ、大丈夫にするだけだ。いつも通り。


 リディアは窓の外へ流れていく屋敷を眺めた。


 これでいい。


 自分だけが嫁げば、叔父の思惑通りになる。しかしリリアまで連れていけば、叔父の手元には誰も残らない。


 少なくとも第一段階は、予定通りだった。


     ◇


 実際に訪れてみると、グランヴェル侯爵家は、事前に集めた資料から受けた印象以上に良い家だった。


 使用人たちの表情は明るく、屋敷は隅々まで清潔に保たれている。領地へ入ってから見かけた人々の様子にも荒んだところがない。


 そして何より。


 アレクシス・グランヴェル本人が、想像以上に良かった。


 良かった、では済まない。


 最高だった。


 注、妹の配偶者として。


「長旅でお疲れでしょう。」


 柔らかな栗色の髪に、穏やかな緑の瞳。背は高いが威圧感はなく、声にも話し方にも柔らかさがある。


「リリア嬢はお身体があまり丈夫ではないと伺っています。南側の客室をご用意しました。日当たりが良く庭にも近いので、少しでも過ごしやすければいいのですが。」


 リリアの顔が、ぱっと明るくなった。


「ありがとうございます。」


「体調の良い日には庭を歩かれるといいでしょう。湖までは少し距離がありますが、途中に休める東屋もあります。」


「湖があるのですか?」


「ええ。今の季節なら水鳥も多いですよ。」


「まあ。」


 リリアが嬉しそうに笑うと、アレクシスも自然に笑った。


 少し離れたところで腕を組み、二人の様子を見ていたリディアは、内心大きく頷いた。


 非常にいい。


 自分の事前調査に間違いはなかった。


 いや。


 調査以上かもしれない。


 これこそ天命か。


 当のリリア本人は何も知らない。


 姉が半年も前から自分の結婚相手候補を密かに調べていたことも、目の前にいるアレクシスがその第一候補だったことも。


 さらに、その男がリディアの夫になってしまった現在においても、妹の自分へ横流しするための計画を着々と進めようとしていることも。


     ◇


 結婚式は急な縁談ということもあり、比較的簡素なものになった。


 そして、その夜。


「リディア。」


 夫婦の寝室で向かい合ったアレクシスは、少し困ったような顔をしていた。


「今回の婚姻が、あなた自身の希望によるものではなかったことは理解しているつもりです。」


「はい。そうです。まったく望んでおりませんでした。」


 リディアは素直に答えた。


 アレクシスの顔が、ごく僅かに傷ついたように見えたので、そこだけは人間として少し申し訳なく思う。


「ですから、無理に夫婦としての関係を求めるつもりはありません。あなたが私を夫として受け入れてくださるまで、私は待つつもりです。」


 思いがけない提案に、リディアは瞬きをした。


 もし今夜関係を求められれば、月のものを理由にするか、事前に用意していた偽の診断書を出す予定だった。


 しかし、これは好都合だ。


「ありがとうございます。正直、とても助かります。」


「……そうですか。」


 アレクシスは何とも言えない顔をした。


 気の毒ではある。


 だが、リディアの中の評価はますます上がった。


 この男、やはり素晴らしい。


 優しい。


 相手の事情を慮ることができる。


 無理強いもしない。


 どう考えても、妹の配偶者に相応しい。


 なおこの国では、夫婦関係を一度も結ばず、双方の同意をもって一定期間内に申請した婚姻については、宗務院の審査を経て「婚姻未成立」として無効にできる。


 リディアは当然、それも調べていた。


 抜かりはない。


     ◇


 一月も経つ頃には、リリアの体調は目に見えて良くなっていた。


「姉様! 今日、湖の少し手前まで歩けたの。」


 ある朝、庭から戻ってきたリリアは、頬を上気させて嬉しそうに報告した。


「本当に?」


「ええ。アレクシス様が途中で何度も休ませてくださって。湖の辺りには白い鳥がたくさんいるんですって。今度はそこまで行ってみたいわ。」


「ぜひ行ってきなさい。」


「姉様も一緒に行きましょう?」


「私はいいわ。アレクシス様と二人で行ってきなさい。」


「どうして?」


「仕事があるもの。」


 半分本当で、半分嘘だった。


 こちらへ来てから、侯爵家の仕事はまだ一つも受け取っていない。現侯爵夫妻も健在であり、まずはこの土地へ慣れてからゆっくり始めればいいと言われている。


 一方、伯爵家からの書類はすべてこちらへ送ってもらい、リディアが処理していた。叔父や他の親族の動きも、各所から報告を送らせて監視している。


「でも、アレクシス様は姉様の夫じゃない……。」


「気にしないで。」


 どうか本当に気にしないでほしい。


 そして、二人で行けばいい。


 むしろどんどん行ってくれ。


 リディアは妹の顔を眺めながら、こちらへ来てからの変化を一つずつ確認した。頬には以前より血色があり、食事量も増えた。夜もよく眠れているらしい。何より、アレクシスの話をする時、明らかに楽しそうだった。


 リディアは内心で盛大に拳を握った。


 計画通りだ。


 このまま白い結婚を維持する。


 適当な時期に婚姻未成立の手続きを取り、その後アレクシスとリリアを結婚させる。


 そうすれば、リリアは信頼できる侯爵家の庇護下へ入る。叔父も容易には手を出せない。自分は伯爵領へ戻り、これまで通り家を守ればいい。


 完璧だった。


 やはり自分の計画に抜かりはない。


 さすが私。偉い。素晴らしい。天才。策士。


「鬼才……いや、傑物……。」


「何が傑物なんですか?」


 突然背後から声を掛けられ、リディアは振り返った。


「……いつからいたの?」


「あなたが小声で『完璧』と呟いたところからです。」


 そこに立っていたのは、アルフォンス・グランヴェル。アレクシスの四歳下の弟で、現在十九歳。


 兄と同じ栗色の髪と緑の瞳を持つものの、柔らかな印象の兄とは違い、弟の目元は切れ長で、表情がなければ冷たく見える。性格も兄ほど穏やかではなく、優秀ではあるが何かと言い方に棘が感じられた。


 リディアは初対面の時から、この男だけには妙に探るような視線を向けられている気がしていた。


「何をしているんです?」


「見ているの。」


「何を。」


 リディアは木々の向こうを指した。


 庭の小道を、アレクシスとリリアが並んで歩いている。リリアが何かを話し、それを聞いたアレクシスが楽しそうに笑っていた。


「リディア夫人。」


「何か?」


「あなたの夫が、妹さんと随分良い雰囲気になっていますが。」


「ええ。そうでしょう。」


 リディアは腕を組み、満足して頷いた。


「計画通り。」


 アルフォンスはしばらく何も言わなかった。


 やがて、心の底から理解不能だという顔で尋ねた。


「……気でも触れましたか。」


「違うわよ!」


「では何故、自分の夫と妹が親しくしているところを、木陰から嬉しそうに眺めているんです。」


「変態的に言わないでちょうだい。」


「事実でしょう。」


「ち、ちが……いや、違わないのか?」


「そこは完全否定してください。」


 そこで、はっと気付いた。


 リディアは隣に立った青年を睨む。


「……そもそも、あなたには関係ないでしょうが。」


「大いにあります。あれは私の兄で、あなたはその妻です。そして、ここは私の家です。」


「……確かに。一理ある。」


「一理ある、で終わっては困ります。兄にはあなたと良好な夫婦関係を築いていただき、いずれ後継者を――」


「それはこちらが困るわね。」


「何故です!?」


 急に声が大きくなったので、リディアは反射的にアルフォンスの口を手で塞いだ。


 向こうでリリアがこちらを振り返る。


 まずい。


 リディアはアルフォンスの腕を掴み、そのまま木陰の奥へ引きずり込んだ。


「静かに。二人に気付かれるでしょうが!」


 人差し指を唇の前へ立てて睨みつけてから、ようやく手を離す。


 アルフォンスの頬が赤かった。


「な、なんて人だ……!」


「文句があるなら散れ。」


「一体何を企んでいるんです!」


「…………何も。」


「嘘をつけ。」


 鋭い。


 非常に鋭い。


 そして、とても面倒そうだ。


     ◇


 翌日の昼食前にも、早速アルフォンスは現れた。


 伯爵家の四半期雑収入を再計算していたリディアは、集中を切られたことに若干青筋を立てつつ、ちらりと横目で整った顔を見た。


「リディア夫人。今日こそ昼食は兄と取ってください。」


「……ではリリアも呼びましょう。」


「呼びません。」


「何故?」


「あ、な、た、が、妻、だ、か、ら、です。」


「細かいわね。」


「どこが! 最大級に大きな問題でしょうが!」


「食事は人数が多いほど楽しいのよ。性根がひねくれた方には少し難しかったかしら。」


「……昨日から、いきなり僕の扱いが雑になりましたね。」


 リディアは自分の脳内を確認した。


 ああ。


「知らないの? 大体、夫の兄弟は嫁いできた妻にとって敵なのよ。」


「意味が分かりません。」


「浅学につき、散れ!」


「その『散れ』は何なんですか。」


「義姉よ! まず敬いなさい!」


「……敬う要素が一つもありませんが。」


「作れ!」


「無茶を言うな!」


 結局その日の昼食にはアルフォンスまで加わった。


 非常に邪魔だった。


 それから数日後、アレクシスが街へ視察へ出ることになり、体調の良いリリアも誘われた。


 リディアは朝から妹の髪を、いつも以上に丁寧に整えていた。金糸のような淡く柔らかな長髪は芸術品のように美しい。


 皆、称えよ。


 リディアの頭の中で、妹への讃美歌が大音量で流れ始めた。


「姉様、どうして今日はこんなに念入りなの?」


「街へ行くのでしょう。」


「ええ。アレクシス様が誘ってくださったの。姉様も一緒に行くのよね?」


「私は――」


「行きます。」


 背後から聞こえた声に、リディアは振り返った。


 やはりアルフォンスだった。


 つい舌打ちが漏れた。


「……何故あなたがいるのかしら。」


「兄に頼まれました。あなたにも来てもらうようにと。」


 リディアは盛大に咳き込んだ。


「ごほっ、ごほっ……。た、大変。急に寒気が。風邪の引き始めかもしれないわ。今日は安静に――」


「先ほどまで元気だったでしょうが。」


「では疫病神的な何かのせいね。結論、今日は療養します。」


「それは僕が疫病神だということでしょうか。」


「……。」


 無言で睨んだ。


「姉様が具合悪いなら、私が残って看病を……。」


「大丈夫。それだと本末転倒だから。」


「でも……。」


「そこの暇人に看病させるから。」


「暇人にするのはやめてください! 誰のせいで仕事を抜けてここへ来ていると……!」


 リリアだけが、困惑したように二人を交互に見た。


「姉様とアルフォンス様、随分仲良くなったのね……?」


「違う!」


 二人の声だけは、綺麗に揃った。


 そして一時間後。


 何なら今から屋敷の周りを全力疾走できる程度には元気なリディアは、しかし何故か自室の寝台で毛布に巻かれていた。


「あの……ここまでやる意味はあるのかしら。」


「あなたが仮病を使った以上、病人らしく寝ていただきます。」


 もちろん本気で出ようと思えば出られる。叫べば使用人も来るし、毛布程度なら力任せに抜け出せる。


 しかし、ここで騒げばせっかく街へ向かったリリアが心配して戻ってくる可能性がある。


 それだけは困る。


 結果、リディアは大人しく簀巻きになっていた。


 寝台脇の椅子へ座ったアルフォンスが、目を細める。


「さて。吐いてもらいましょうか。あなたの魂胆を。」


「ございません。」


「嘘をつけ! そもそも何故、嫁ぎ先に妹を連れてきた!」


 リディアは息を吐いた。


 一部くらいなら開示してもいいだろう。


「五年前に両親が揃って他界しました。当家の伯爵領は財政規模を考えても実情は侯爵家相当。貴族派の主要家門の一つで、親族間の派閥争いも激しい。」


「……。」


「妹を残しておけば、恐らく不幸なことにしかならないわ。」


「だからといって、何故兄へ近づける必要があるんです。」


「私に何かあった時には、アレクシス様に妹を守っていただきたいと思っている。」


 アルフォンスは眉を寄せ、しばらく黙った。


「あなたにとって、夫と妹と、どちらが大切なんです?」


「もちろんリリアよ。」


 脊髄反射で答えてから、少しだけしまったと思った。


 表情には出ない。


 というより、現在は腕すら出せない。


「僕にとっても、あなたより兄の方が優先すべき対象です。」


「そりゃそうでしょうね。こんな布団人間にしておいて、それ以外の回答が出たら逆に怖いわ。」


「……事情は分かりました。でも納得はしません。」


「……。」


「兄の平穏な夫婦生活のためにも、あなたを監視します。」


「……ブラコンが。」


「お前が言うな!」


「暇人が。」


「誰のせいだ! 誰の!」


 なお、数時間後に頬を上気させて戻ってきたリリアからは、アレクシスと巡った街の楽しい思い出を無事聞くことができた。


 その時もまだ、リディアは簀巻きだった。


 リディアは二度とアルフォンス相手に仮病を使わないと、固く心に誓った。


     ◇


 それからさらに数週間が経った頃。


「夫婦の寝室を分けているそうですね。」


 廊下を歩いていたところで、アルフォンスに呼び止められた。


 リディアは足を止めると、まず右を見て、次に左を見た。幸い、近くに使用人の姿はない。


「……何故知っているの。」


「兄から相談されました。」


「何故、夫婦の寝室事情を弟に相談するのよ!」


「兄が『妻に嫌われているようだ』と落ち込んでいるからでしょうが。」


 リディアは口を噤んだ。


 最近はアルフォンスばかりと顔を合わせているせいで、若干忘れかけていたのだが、アレクシスは普通の人間である。


 新婚早々、妻から「関係を持つつもりはない」と暗に示され、実際に寝室まで分けられ、その後も当の妻は自分より妹と一緒にいるよう仕向けてくる。


 考えてみれば、悩まない方がおかしい。


 いや。


 何故、兄はあれほどまともなのに、弟はこんなものに仕上がったのだろう。


「……今、とても失礼なことを考えていませんでしたか。」


「いえ。同じ両親から生まれても、ここまで違うものが出来上がるのだな、と。」


「お前が言うな。」


「あなた、最近かなり失礼よ。」


「あなたには言われたくありません。僕は最初からずっと被害者です。」


「何の?」


「あなたの。」


「それは気の毒に。」


「他人事みたいに言うな!」


 アルフォンスについてはどうでもいいとしても、アレクシスを必要以上に悩ませておくのは本意ではなかった。


 かといって、今さら夫婦らしく寝室を共にするわけにもいかない。この婚姻を未成立として終わらせるには、夫婦関係を結ばないことが大前提なのだ。


 いざという時のために用意しておいた偽の診断書でも出すべきだろうか。


 リディアが真剣に考えていると、アルフォンスが呆れたように息を吐いた。


「……兄は、容姿にも性格にも特に問題のない男でしょう。むしろ女性からはかなり好かれる方だと思いますが。」


「そうでしょうね。」


「なら、何故そこまで頑なに避けるんです?」


「だからといって、誰もが相手と寝所を共にしたいと思うとは限らないでしょう。」


「ね、寝所……!」


 アルフォンスの頬が、一瞬にして赤くなった。


 おお。


 表情筋が大仕事をしている。


 普段ほとんど変化しないだけに、実に分かりやすい。リディアは思わずまじまじとその顔を眺めた。


「……何です。」


「いえ。あなたもそういう話では赤くなるのね。」


「十九の男に何を言っているんですか!」


「十九の男だからでしょう。」


「あなた本当に恥じらいとかないんですか!?」


「必要?」


「少しくらい持ってください!」


 面倒な男である。


 しかし確かに、アレクシスからすれば不思議ではあるのだろう。


 リディアは自分の身体をちらりと見下ろした。妹のように華奢でも可憐でもなく、言葉遣いも柔らかくない。黙っていれば怖いと言われ、笑えば何か企んでいるのではないかと疑われる。可愛げという意味では、恐らく壊滅的だ。


「それにしても、アレクシス様も不思議ね。こんな愛想も可愛げもない女を、わざわざ妻として求めたいものかしら。」


「……は?」


「だって、リリアなら分かるでしょう。優しいし、可愛いし、綺麗だし、見ているだけで心が――」


「いや、待ってください。」


 珍しく強めに遮られた。


「何よ。」


「何故そこで、あなた自身の見た目まで低く評価しているんです?」


「低く?」


「あなた、見た目だけなら抜群に良いでしょう。」


 リディアは瞬きをした。


「……は?」


「性格はあれですけど。」


「あれとは何よ。」


「性格です。」


「だから、その性格のどこがあれなのよ。」


「分かりませんか?全部です。」


「これは……喧嘩を売られている?」


「まず褒めたでしょうが!」


「褒めた?」


 そこまで言って、ようやくリディアは少し前の言葉を反芻した。


 ――見た目だけなら抜群に良い。


 そんなことを言われたのは、初めてだった。


 社交の場で容姿を褒められたことくらいはある。しかし、それは挨拶と同じだ。「お美しい」「お綺麗だ」と言われても、リディア自身も「ありがとうございます」と返して終わる。


 妹のリリアについてなら、心から美しいと褒める声を何度も聞いてきた。


 自分については、ない。


 少なくとも、これほど遠慮なくものを言う人間から、そんな風に言われたことは一度もなかった。


「……審美眼までおかしいのね。」


「何故そうなるんです。」


「リリアの方が綺麗でしょう。」


「方向が違うだけでしょう。それに、少なくとも僕は――」


 アルフォンスの言葉が、不自然なところで止まった。


「何?」


「……何でもありません。」


「途中で止めないでよ。」


「何でもありませんから。」


「言いなさい。」


「嫌です。」


「何なのよ!」


 問い詰めても、アルフォンスは珍しく目を逸らしたままだった。


 ただ、耳が先ほど以上に赤くなっている。


 変な男。


 そう思ったのに。


 何故かリディア自身の頬まで、少し熱い。


 腹立たしいので気のせいということにした。


「とにかく。」


 アルフォンスは咳払いをすると、無理やり話を戻した。


「兄をあまり悩ませないでください。せめて食事くらいは二人で取る。たまには一緒に出掛ける。それくらいは妻としてしてもいいでしょう。」


「嫌よ。」


「何故!?」


「リリアとの時間が減るでしょうが。」


「またそこへ戻るのか!」


「当然でしょう。」


「あなたは本当に……!」


 アルフォンスは何か言いかけ、結局諦めたように額を押さえた。


 そして、しばらくしてから低く呟く。


「……やはり放っておけない。」


「何か言った?」


「何も。」


「聞こえたわよ。」


「気のせいです。」


「……そう。では、撤退!」


 これは断じて敗北ではない。戦略的撤退である。


 先ほどから胸の様子も若干おかしい気がするし、最近働きすぎかもしれない。部屋で早く休もう。


 リディアはさっさと歩き出した。


 背後から大きな溜息が聞こえたが、振り返らなかった。


 ただ。


 その日の夜、鏡の前で髪を梳かしている時、不意に昼間の言葉を思い出した。


 ――見た目だけなら抜群に良いでしょう。


「……あいつ、やはり目が悪いのでは。」


 そう呟いてみたものの。


 ほんの少しだけ頬が熱を帯びていることには、気付かない振りをした。


     ◇


 それからもアルフォンスは、本当に消えなかった。


 一月、二月、三月と経っても、朝食の席、庭、図書室、馬車、食堂と、気付けばどこにでもいる。リディアがアレクシスとリリアを二人きりにしようとすれば現れて阻止し、自分だけ適当な用事を作って逃げようとすれば、その嘘を見抜いて兄の元へ送り返そうとする。


 余計なことしかしない。


 非常に邪魔だった。


 ただし、その頃にはリディアも薄々認め始めていた。


 この男は、邪魔なだけではない。


 妙なことに、時々かなり役に立つ。


     ◇


 ある夜、リリアの咳が急に増えた。


 リディアはすぐ妹の寝室へ向かい、額へ手を当てた。高熱ではない。呼吸も極端に苦しそうではなかったが、いつもより顔色が悪く、咳が途切れない。


「医師を呼ぶわ。」


「姉様、大丈夫よ。もう夜も遅いし、ご迷惑になるわ……。」


「駄目よ。何かあったらどうするの。」


「でも――」


「すぐ戻るから。待ってて。」


 部屋を出たところで、近くの書斎から出てきたアルフォンスと鉢合わせた。


 リディアの顔を見るなり、彼の表情が変わる。


「何がありました?」


「リリアの咳が増えたの。」


「医師を呼びます。」


 迷いはなかった。


 すぐに使用人を呼んで馬を出させ、医師を迎えに行かせる。同時に薬草の準備をさせ、暖炉の火を調整し、室内へ空気が籠もりすぎないよう指示を飛ばす。


「……慣れているのね。」


「冬場は領内でも呼吸器の病が増えますから。診断は医師にしかできませんが、来るまでにできることくらいは分かります。」


 医師が到着するまで、アルフォンスも残った。水を替え、必要なものがあれば使用人へ指示し、診察が終わってリリアが薬を飲み、ようやく眠りにつくまで、リディアの横を離れなかった。


 廊下へ出てから、リディアは何気なく言った。


「あなた、意外といい人なのね。」


「意外は余計です。」


「リリアを心配してくれたの?」


 アルフォンスは一瞬浮かびかけていた笑みをすっと消した。


「……いえ。兄嫁が今にも倒れそうなほど狼狽えていたので、仕方なく手を貸しました。」


「なるほど。敵に塩を送ってくれてありがとう。でも邪魔。」


「あなたがまともな妻になれば、僕は明日にでも消えますよ。」


「それは無理。」


「そうですか。残念です。」


 何なのだろう、この男は。


 さらに四ヶ月目に、伯爵領から妙な知らせが届いた際のことである。


 なんとあの叔父が、領地の一部を担保に借り入れをしようとしているらしい。リディアはすぐに実家から届いた帳簿と手元の資料を照合し始めた。


「何を調べているんです?」


「関係ないでしょう。」


「……関係あるかどうかは聞いてから決めます。」


 リディアは手を止めずに答えた。


「……叔父が動いているの。領地の一部を担保に勝手に借り入れをしようとしているらしいわ。」


 アルフォンスの顔から、いつもの呆れたような表情が消えた。


「権限は?」


「ないわ。」


「なら止められますね。」


「書面上はね。けれど裏で協力している人間がいるらしいの。」


 アルフォンスは少し考え、机上の資料へ目を落とした。


「王都に伝手があります。金融関係の動きを調べさせましょう。」


 リディアは思わず顔を上げた。


「……何故助けるの?」


「あなたの家のことでしょう。」


「そうだけど。」


「なら、理由としては十分です。」


 あまりに簡単に言われ、返す言葉を失った。


「……叔父のこと、聞かないの?」


「聞いたら、誤魔化さずに答えるんですか。」


「……答えないかもしれないわね。」


「なら、聞くだけ無駄でしょう。」


 それだけだった。


 リディアは、その日初めてこの男をかなり見直した。


     ◇


 五ヶ月が過ぎる頃には、リリアの体調はさらに良くなっていた。


 今では湖まで歩いて往復しても寝込まない。食事量も増え、夜もよく眠れる。そしてアレクシスと一緒にいる時間も、自然と長くなっていた。


 ある日、庭の東屋でリリアが楽しそうに笑っていた。


 風が出てきたのだろう。アレクシスが自分の外套を脱ぎ、その肩へそっと掛ける。リリアは頬を赤くし、アレクシスも少し照れたように笑った。


 離れた木陰から眺めていたリディアは、満足して小さく頷いた。


「……いいわ。」


「どこが。」


 いつの間にか隣にいたアルフォンスが、即座に否定した。


「……ストーカーか?」


「違う!」


「暇人?」


「もう僕がその言葉を嫌いなの、分かっているでしょうが!」


「うるさい。気付かれるから黙って見てなさい。」


「何故僕まで……。」


 それでも、アルフォンスは隣へ立ったままだった。


 二人でしばらく東屋を眺める。


 アレクシスとリリアの間には無理がない。一緒にいる時の空気が穏やかで、話しているだけで互いに楽しそうだった。


 これでいい、とリディアは思った。


「……あなた、本当に嬉しそうですね。」


「ええ。」


「自分の夫なのに?」


「だから何?」


「普通は、妹と親しくしていたら嫌なものではありませんか。」


「何故?」


 アルフォンスはしばらくリディアの顔を見つめ、それから本気で疲れたように額を押さえた。


「僕は時々、本気であなたが分からない。」


「私もあなたが分からないわ。」


「僕は普通の人間です。」


「嘘つけ。普通の人間は義姉を半年近く監視しないわ。」


「あなたが普通ではないからです。」


「ち、ちが……いや、違わないか?」


「そこは全力で否定してください。頼むから。」


     ◇


 そして半年。


 リリアは、明らかに恋をしていた。


 本人は何も言わない。


 けれど、アレクシスの名前が出た時だけ少し表情が変わる。自然と視線が彼を追い、本人が部屋へ入ってくれば、ほんの少し嬉しそうになる。


 実に分かりやすかった。


「リリア。」


「何、姉様?」


「アレクシス様のこと、好き?」


 一瞬で、リリアの顔が赤くなった。


「な、何を急に聞くの!」


「好きなのね。」


「姉様!」


「分かったわ。」


「待って! 何が分かったの!」


 十分だった。


 次はアレクシスである。


「リリアのことをどう思います?」


 その日の午後、書斎を訪ねて尋ねると、アレクシスは手にしていた本を落としかけた。


「……随分急だね。」


「大切なことなので。」


「君は本当に、時々ものすごく直接的だ。」


「時間は有限ですから。リリアに対して、女性として惹かれていますか?」


 アレクシスは黙った。


 やがて、僅かに目元を染め、少し困ったような笑みを浮かべる。


「君は、それを私に聞いてどうするつもりなんだい?」


「必要なことですから。」


「何に?」


「今後の計画に。」


「……また計画?」


「はい。」


 アレクシスはしばらくリディアを見つめ、観念したように息を吐いた。


「……正直に言えば、かなり惹かれていると思う。」


 よし。


 リディアは心の中で静かに拳を握った。


     ◇


 やはり、目標は立てる時が一番の山場だ。


 後は走っていくだけ。


 さすが私。素晴らしい。優秀。天才。策士。


「鬼才……いや、傑物……。」


「また例の呪文ですか。」


 夕方、庭のベンチへ腰掛けていると、もう聞き慣れた声がした。


「今日は何を言われてもいい。なぜなら勝者は私だから。」


「何を勝手に終わらせているんですか。」


「だって、終わったもの。」


 いつもなら即座に言い返すはずのアルフォンスが、ふと黙った。


 斜陽が、晩秋の山々を赤く染めている。冷たさを含んだ風が木々を揺らし、色づいた葉が雨のような音を立てながら庭へ舞った。


 もうすぐ冬が来る。


 その頃、恐らく自分はもうここにはいない。


 この騒がしくて、妙に温かかった半年も終わる。


「近いうちに、アレクシス様へ話すつもり。」


「……何を。」


「私との婚姻無効について。そして、リリアとの婚約について。」


 その瞬間、アルフォンスの顔から表情が消えた。


「……本気ですか?」


「最初からそのつもりだったからね。」


「……兄と離縁して、リリア嬢と結婚させるために、わざわざ兄と結婚したと?」


「正確には、私が嫁ぐことになったので、状況を利用したのよ。」


「……狂っていますね。」


「その通り。」


 アルフォンスはしばらく何も言わなかった。


「……僕はこの半年、一体何をしていたんでしょう。」


「邪魔。」


「そういう意味ではありません。」


 深く額を押さえてから、アルフォンスはリディアの隣へ腰を下ろした。


「兄との婚姻が無効になった後、あなたはどうするんです?」


「もちろん、伯爵領へ戻るわ。」


「リリアさんは?」


「リリアはここに残して、一人で戻るつもりよ。リリアはアレクシス様と結婚するなら、それが一番安全だもの。」


 アルフォンスが眉を寄せた。


「……では伯爵領へ戻った後、あなたはどうするんです。」


「伯爵家を守る。」


「その後は?」


「領地を経営する。」


「その後。」


「死ぬ。」


「極端なんですよ!」


 突然声を上げられ、リディアは眉をひそめた。


「人間は最終的には死ぬでしょうが。」


「決してそういう話ではない。僕は、あなた自身の幸せについて聞いているんです。」


 リディアは少し考えた。


 自分自身の幸せ。


 改めて問われると、これまで真剣に考えたことがなかった。


「……リリアが幸せなら、それでいいわ。」


 アルフォンスは何も言わなかった。


 やがて、長い息を吐いた。


「本当に、あなたは妹さんのことしか考えていないんですね。」


「当然でしょう。」


「当然ではありません。」


「私には当然なのよ。」


 アルフォンスは小さく嘆息し、僅かに俯いた後、何かを決心したようにリディアに向き直った。


「では、兄との婚姻が無効になった後、僕と結婚してください。」


 リディアは数度瞬きをした。


「……何故?」


 今度はアルフォンスの眉間に、深い皺が刻まれた。


「何故って……ここまで毎日毎日あなたを追い回して、それでもまだ分からないんですか?」


「だから、アレクシス様と私を仲良くさせるためでしょう?」


「途中から違いました。」


「いつから?」


「……それは正直、僕が知りたい。」


 よく意味が分からない。


「でも、あなたはずっと私とアレクシス様を――」


「最初は!そうでした!」


 珍しく強く遮られた。


「……最初は、兄の妻が自分の妹と兄をくっつけようとしているという意味不明な状況を、何とか正常へ戻そうとしていただけです。でも、あなたは何を言っても聞かない。妹さんのためなら何でもするくせに、自分のことは何も考えない。危なっかしいし、目を離せないし、見ていると腹が立つ。」


「随分な言われようね。結局何が言いたいのよ。」


「だから、愛していると言っている!」


 アルフォンスはいつもの鋭い目で、まっすぐリディアを見つめている。


 リディアは驚いて目を瞬かせた。


「だから!兄との婚姻が終わるなら、僕と結婚してください。」


「……嫌よ。」


「即答!?」


「私は伯爵領へ戻るもの。」


「なら僕も行きます。」


 斜陽の光には決して収まらない赤さが青年の目元に浮かんでいることに、リディアはそこでやっと気付いた。


「……でも、私はこれまでずっと一人でやってきたわ。きっと、私にあなたは必要ない……。」


「たとえあなたが僕を必要としていなくても。」


 アルフォンスは、そこで少しだけ声を落とした。


「僕があなたを必要としているんです。」


 強い光と熱を帯びた瞳が、リディアを見据えていた。


「僕に、あなたを守らせてください。これからも、傍で。」


 リディアは黙った。


 その理屈は、少々困る。


 これまで考えてきたのは、家を守る為に、妹を守る為に、何をしなければならないか。それだけだった。


 自分が誰かに必要とされたり、守られる可能性など、ついぞ考えたことがなかった。


「……これは何と……まったく計画にないぞ。」


「でしょうね。」


「非常に困るわ。」


「是非困ってください。」


 アルフォンスが笑った。


 表情筋が、今までで一番仕事をしている。


 リディアはじっとその顔を眺めた。


 何をするにも邪魔をして、口を出して、勝手に助けて、気付けば随分近くにいた男。


 それなのに今初めて、その顔をまともに見たような気がした。


 何故か胸の辺りが少し落ち着かない。いや、かなり落ち着かない。


「……あなた、本当に邪魔ね。」


「そうでしょうね。」


「私の計画が狂うわ。」


「光栄の至りです。」


     ◇


 翌日。


 リディアはアレクシス、リリア、アルフォンスの三人を応接室へ集めた。


「さてさて。」


「……そんな始め方をされると、なんだかとても嫌な予感がするのだけど。」


 アレクシスは少し戸惑うような表情を浮かべて、リディアを見遣った。


「皆さま、重要なお話があります。」


 そこでリディアは、一度大きく咳払いした。


「まず、アレクシス様。私との婚姻を無効にしてください。」


「……それは、どういう意図かな?」


 アレクシスの顔に一気に困惑の表情が浮かぶ。


 リリアも固まる。


 アルフォンスだけが、片手で額を押さえて、僅かな吐息を漏らした。


「兄上、すみません、覚悟してください。ここからもっと酷くなります。」


「勝手に予告しないで。」


「事実でしょうが。」


 リディアは構わず続けた。


「幸い、私たちは一度も夫婦関係を結んでいません。双方が同意すれば、宗務院へ婚姻未成立の申請ができます。受理されれば法的にも婚姻歴そのものが解消され、互いに再婚上の制限は残りません。」


「……意図を尋ねても?」


「もちろん、リリアと結婚いただくためです。」


 沈黙。


 長い沈黙。


 リリアの顔が、見る見る赤くなっていく。


 アレクシスも目元を赤くし、静かに俯いた。


 アルフォンスは腕を組み、眉を顰めたまま天井を見上げた。


「……リディア、君の挙動は最初からずっとおかしかった。一体君は私をどのように思っていたんだい?」


 アレクシスは沈黙を破って、吐息と共に呟く。


「妹の配偶者第一候補です。」


「……最初から?」


「はい。私は最初からアレクシス様をリリアの婚姻相手候補として調べておりました。」


 驚いたようにこちらを見る青年に、リディアは冷静に続ける。


「家格、資産、負債、女性関係、酒癖、賭博歴、暴力沙汰、使用人定着率、領民からの評判まで。すべて調べさせていただきました。」


 アレクシスの顔が徐々に引き攣っていく。


「……怖いよ。」


「ご安心ください。すべて合格でございました。」


「何に!?」


「……兄上、本当にすみません。この人ちょっと頭おかしいんです。」


「ち、ちが……いや、違わないか?」


「だからそこは全力で否定しろと言っている!もう何回目だよこれ!」


 アレクシスがまた戸惑うように弟を見た。


「何故、お前が一番慣れているんだ?」


「……僕が一番知りたいです。」


「ね、姉様!」


 そこでようやくリリアが声を上げた。


「わ、私、そんな話、何も聞いてない!」


「今話しているじゃない。」


「そういう意味ではないでしょう!」


 リディアは珍しく妹に叱られた。彼女の美しい瞳が微かに揺れている。


「姉様は本当に最初から、そのために……?」


「あなたをここへ連れてきた目的の一つではあるわね。」


「一つ?」


「療養も本気よ。」


「そうじゃなくて!」


 リリアの瞳に涙が浮かんだ。


「私をここへ置いて、姉様は一人で帰るつもりなの?」


「ええ。あなたはここにいれば、アレクシス様が守ってくださるわ。」


「そんなの嫌よ!」


 妹の強められた言葉に、リディアは少し驚いた。


「でも、あなたはアレクシス様のことが好きでしょう?」


「好きよ!」


 勢いのまま言い切ってから、リリアの顔が真っ赤になった。


 ついでにアレクシスまで耳を赤くした。


 アルフォンスは静かに目を逸らした。


「……でも、それと姉様が一人になることは別でしょう。姉様を一人にしてまで、私は幸せになりたいわけじゃない。」


「私は一人でも困らないわ。むしろ、あなたがここに居てくれたら、安心して戦える。」


「私が困るの!」


 リディアは黙った。


 それは少し、想定外だった。


 僅かな沈黙の後、戸惑いながらも、今度はアレクシスが口を開く。


「……リディア。私も正直に言えば、リリア嬢に惹かれている。」


 青年の言葉に、リリアがさっと頬を染め俯いた。


「ずっと一緒に過ごすうちに、いつの間にか彼女を一人の女性として好きになってしまった。それは紛れもない事実だ。だからこそ、君に申し訳ないと苦しく思っていた。」


「何故です。」


「いや、何故って……妻の妹だからだよ。」


「むしろ計画通りですが?」


「……その『計画通り』っていうのやめてくれないかな。」


 アレクシスは額を押さえた。


「ただし、だからといって、君が自分を犠牲にしていいとは思わない。私とリリア嬢のことは、私たちで考える。君が全部決めることではない。」


「……。」


「そして、それはどうやら、リリア嬢も同じ意見らしい。」


「そうよ、姉様。」


 二方向から言われた。


 リディアは少し困った。


「ふむ。では……私の計画に何か問題があったと?」


「全部でしょうが。この頓珍漢。」


 アルフォンスが即答した。


「黙れブラコン。」


「今それを言う!?というかお前が言うなこのシスコン!」


 アレクシスが思わず吹き出した。


 リリアも涙を拭いながら、小さく笑う。


 少し考えてから、リディアは息を吐いた。


「仕方ないわね、分かったわ。アレクシス様とリリアのことは、二人で決めて。」


「最初からそう言えば良かったでしょうが。」


「……うるさい。」


「それから。」


 アルフォンスが続けた。


「この人は僕が引き取りますので、どうかお二人ともご心配なく。」


「ちょっと待て。」


 リディアは即座に突っ込んだ。


 アレクシスが今度こそ盛大に咳き込む。リリアは目を丸くして二人を見た。


「兄上との婚姻が正式に無効になったら、僕がリディアと結婚します。」


「アルフォンスさんが!?」


「いや、断ったんだけど。おかしいわね。」


「断った!?何故!?」


「リリア。あまり興奮するのは体調に良くないわ。」


 応接室が急に騒がしくなった。


 アレクシスは弟を見て、リディアを見て、妙に納得したように頷いた。


「……なるほど。最近、アルフォンスが物凄い勢いで仕事を整理していたが、こういうことか。いつ申し込んだんだ?婿入りになるのか?」


「父上には既に了解を取りました。」


「勝手に話を進めないでいただけませんか。」


 リディアは目を細めてアルフォンスを睨んだ。青年は僅かに口端を上げて、リディアを見遣る。


「僕ぐらいでないと、あなたの追っかけは難しいでしょう?」


 計画会議のはずだった。


 いつものように自分が指示を出し、最短で結論へ運ぶはずだった。


 しかし何故か途中から、自分が議題になっている上に想定外の方向に話が流れている。


 これは、納得がいかない。


 非常に。


 リディアはこめかみに青筋を浮かべて、アルフォンスの澄ました顔を再度睨んだ。


     ◇


 それから一月後。


 宗務院の審査を経て、リディアとアレクシスの婚姻は正式に「未成立」と認定された。


 二人の婚姻歴は法的に解消され、互いに再婚上の制約も残らない。


 アレクシスとリリアは、すぐに結婚を決めたわけではなかった。


 二人で話し合い、まず正式に婚約し、リリアの体調を見ながら半年ほど様子を見ることにした。リディアとしては「もう結婚してもいいのでは」と思ったのだが、妹本人に、


「姉様は黙っていて。」


 と叱られた。


 成長したものだ。


 若干寂しい。いや、とてつもなく寂しい。


 一方で、そんな妹の自立に対する感傷に浸る暇もなく、リディア自身はすぐに伯爵領へ戻ることになった。


 叔父の動きも放置できない。領地の一部を担保にしようとしていた件についても、アルフォンスの協力で関係者の特定まで進んでいるが、まだ処理が完了しているわけではない。


 一応、当初の目的は果たしたとはいえる。


 リリアを安全な場所へ残す。自分は家へ帰る。


 完璧。


 ――のはずだったのに。


「……何故あなたがいるのかしら?」


 伯爵家へ向かう馬車の中。


 リディアの隣には、当然のような顔をしたアルフォンスが座っていた。


「言ったでしょう。僕も行きます。」


「断ったでしょうが。」


「嫌です。もう両親にも話を通しましたし。」


「本人の了解も取らずに、本当に勝手ね。」


「お前が言うな!」


 その時、石を踏んだのか、馬車が大きく揺れる。


 横を向いた状態での揺れに、耐えきれず体勢を崩したリディアの体を、隣に座る青年が支えた。


 思わず上向いた視線の先、切れ長の深い緑の瞳が、じっとリディアを見詰めていた。


「……な、何よ。」


「次は兄ではなく、僕を見てくださいね。」


 言葉と共に降りてきた唇を、なぜかリディアは避けることができなかった。


 何度か柔らかく食まれた後に、濡れた感触が唇を割りかけたところで、はっとなり青年を押し返す。


「……ちょっと、言葉に照れていた初心な十九歳はどこへ行ったのよ。」


「また逃げられては堪りませんから。」


 アルフォンスが楽しそうに笑った。


 妹を安全な場所に逃がして帰るつもりが、なぜ元夫の弟を連れて来ることになったのだろう。


「……やはり、どう考えても計算が合わない。解せぬ。」


「では勝負は僕の勝ちということで。結婚後はちゃんと寝室を同じにしてくださいね。」


「だから勝手に決めないでって!結婚するなんて言ってないわ!」


 アルフォンスが一瞬きょとんとした顔をした後、いつものように少し意地の悪い顔でにやりと笑う。


 その顔まで、整っている。


 腹立たしいことに、かなり。


「では、伯爵領でもう一度口説きますかね。」


 手を取られ、手の甲に口付けを落とされる。


「あなた、急に迫ってくるわね。」


「やっとあなたが人妻でなくなりましたので。」


「邪魔!散れ!」


 言葉ではなんとか拒否したものの、やはり頬の熱をどうにも逃がしきれないリディアは、早々に敗北するかもしれない自分の未来を思い口を噤んだ。


 それを見たアルフォンスがまた頬を緩めて小さく笑う。


 なお、その直後に敢行された二度目の口付けについては、当面の間、秘匿事項とする。

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