靴型を棚へ戻して帰った女の靴だけ、踵が平らに減ります
右の膝が、長衣の下でわずかに逃げた。
グラツィアは客を椅子へ戻さず、もう一度だけ店の端まで歩かせた。右足を置く音は軽く、左足の踵は板床を長く擦る。戻ってきた客の前へ一足ぶんの靴型を立てると、右の型だけが指半分ほど外へ傾いた。
「この方は右をかばっておいでですね。ひと擦り足せば三文。直しを一度減らせば、安いものです」
「前にも、そんなことを言われたかしら」
客は足元を見た。グラツィアは答えず、靴型の踵へ炭筆で細い印を足した。前の一足を作ったときより、左へ預ける重みが増えている。
背中の側で、オトマール・ケルナーの声がした。
「型なんぞ、寸法どおりに削れば履ける」
客へ向けるときの声だった。店先までよく通り、値札に書かれていないものまで上等に聞こえさせる声である。
「ネルヴァは細かいところまで気にしますからな。もちろん、うちの靴なら寸法を外すことはございません。今度からは若い者にも任せられます」
「まあ。では、早くなるのね」
「ええ、早く、分かりやすくなります」
オトマールは笑って、注文札の納期を二日縮めた。客はその数字にうなずき、グラツィアの手元をもう見なかった。
オトマールの勘定では、グラツィアが型へ費やす半刻をイサークに渡せば、一日にもう一足ぶん進み、十一年分だけ高くなった工賃も削れる。評判を店へ運んできたのは革の仕入れと自分の客あしらいであり、型合わせは注文札の途中にある小さな一欄だった。
「親方、右は前と同じ寸法でよろしいですか」
グラツィアは炭筆を持ったまま訊いた。
「同じでいい。数字が変わっていないなら、いじらんでいい」
彼女は印の外側をひと擦りした。木の粉は爪の先ほどで、三文にもならない量だった。
昼の鐘が鳴ると、グラツィアは作業台の脇に立ったまま、朝から置いてあったパンを二口かじった。脂の固まった薄い肉が、噛むたびにパンの間からずれた。
そのあいだも靴型は床に立っていた。左はまっすぐ、右はまだ、わずかに外へ傾いていた。
* * *
「ここです。この欄を先に埋めるから、書き写すのに時間がかかるんですよ」
翌朝、イサーク・ベッケは手控えを開き、〈立ち姿〉と書かれた欄へ人差し指を置いた。客の肩の高さ、杖を持つ手、止まったときに爪先が向く方角まで、グラツィアの細い字が詰まっている。
「寸法は隣です」
「それは分かっています。ですから、こっちは要らないでしょう」
イサークの指が横へ滑り、立ち姿の欄をまるごと塞いだ。
「立ち姿など要りません。足長、足囲、甲の高さ。型を探すなら、この三つで足ります。直す箇所があるなら、最後に一行で書いてください」
グラツィアは返事をせず、手控えの端についた革粉を親指で払った。紙の上では、客は三つの数字に収まっていた。
昼までに棚が空けられ、靴型は客ごとの並びから寸法順へ移された。名前を書いた札は裏返され、同じ長さ、同じ足囲の型が一列に押し込まれる。朝に削った上客の一足も、似た寸法の型の間へ運ばれた。
「こりゃ探しやすい」
「今までの半分で済むぞ」
店の職人たちは新しい棚を見上げ、一人が両手を打った。乾いた一音につられて、二、三人が作業台を指で叩く。オトマールは棚板の端に振った数字を、上から下まで指で追った。
「誰が休んでも困らん店になる。これが仕事の形だ」
グラツィアは一足ぶんの型を列から抜き、左右の札を革紐で結び直した。上客の型に合わせた靴に使う革や金具は、三つの卸から別々に届く。仕上げを追えなくなれば、次の一足で同じ癖を拾えない。
彼女は納めに来ていた卸の者を戸口で止めた。
「お願いがございます。上客の型に合わせた品は、ほかの注文と混ぜずに控えを残してください。三軒とも、同じように」
「店の控えでは足りないのかい」
「型の札が替わりましたので」
それだけ伝え、グラツィアは荷札を返した。卸の者は棚と彼女の横顔を見比べ、荷車へ戻っていった。
自分の仕事場を持たないかと最初に言われたのは、その前年の春だった。二度目は冬で、どちらも卸の仕事を束ねる話だったが、グラツィアは店の客の足を途中で替えるわけにはいかないと断った。客の名を呼べば、古い靴の減り方まで棚から出せた頃のことである。
午後、イサークは新しい手控えを作った。立ち姿の欄が消えたぶん、紙は指二本ぶん細くなった。
「これなら誰にでも読めます」
グラツィアは紙を受け取らなかった。木の粉の溜まった箱を持ち上げ、いつもの重さになる前に外へ運んだ。
* * *
暮れの鐘のあと、作業台の上には手の付いたの靴型が一足ぶん残った。右の踵には炭筆の線があり、左には指で撫でた跡が白く浮いている。
グラツィアは乾いた布を広げた。爪先から甲、底、踵の順に木粉を拭い、革紐の結び目を締める。十一年、一日の終わりにしてきた手順は、棚の順番が替わっても同じだった。
型を抱えて、寸法の数字をたどった。元の場所には別の客の型が入っていたので、それを半歩ずらし、手の付いたの一足を棚へ戻す。右の型は奥、左の型は手前。翌朝すぐ取れる向きにそろえた。
鉋の刃から木片を外し、油布をかけた。錐は穴の大きさごとに並べ、炭筆は削った先を折らないよう小箱へ寝かせる。どれも店の道具だった。
「そこまででいいですよ。続きは僕がやります」
イサークは新しい手控えを掲げた。グラツィアは彼の脇を通り、洗い桶で両手をすすいだ。指の節に入り込んだ木粉だけが、水を替えても薄く残った。
上着を着て、椅子の下から自分の靴を出した。左の踵は右より薄い。店の中では作業台と棚の間を左回りに歩くことが多く、十一年ぶん、そちらだけ先に減っていた。
「ネルヴァ、戸締まりはいい。今日は帰れ」
勘定台で銭を数えていたオトマールが言った。
グラツィアは鍵に触れなかった。店の者にも、道具にも言葉を残さず、戸口をまたいだ。外から扉が戻り、上の小鈴が一度鳴った。
「朝になれば来るさ。手順を替えたくらいで、いつまでも意地を張る年でもない」
オトマールは銭を十枚ずつ重ねた。戸口の方を見た職人も、翌日の革を裁つために顔を戻した。
翌朝、グラツィアの前掛けだけが釘に掛かっていなかった。
三日目にオトマールは工賃を一日ぶん差し引いた。一週間目には、空いた作業台へイサークの道具を広げた。棚へ戻された一足ぶんの型は、次の注文が来るまで同じ位置に立っていた。
* * *
ひと月目には、何も起きなかった。
イサークの削った型から新しい靴ができ、客の足はきちんと中へ入った。爪先は当たらず、甲革にも皺は寄らない。受け取りに来た客は店内を数歩歩き、代金を置いて帰った。
二月目も、三月目も、注文札は増えた。型を探す時間は短くなり、立ち姿を書かないぶん採寸も早い。オトマールは寸法順の棚を撫で、空いた作業台にもう一人座らせた。
雪が消える頃、グラツィアは卸の倉で仕上げを手伝っていた。金具を数え、革底の束を検め、一枚ごとの工賃を三文、五文と頭の中で積んだ。仕事場を借りる話は、まだ口にしなかった。
昼には包みを膝へ置く場所がなく、荷箱の横に立ってパンを食べた。通りの雪解け水を避けて歩く人を見ると、手が止まる。右肩から荷を提げる男は左へ沈み、裾を持ち上げた女は片方の歩幅だけが短かった。
「革の数が違ったかい」
卸の者に訊かれると、グラツィアは束を数え直した。
「いいえ。二十四枚ございます」
季節が進み、王都の路地から泥が消えた。新しい靴は表革の艶を保ったまま、毎日、石畳を歩いた。
まだ誰も、踵の裏を見なかった。
* * *
最初の一足が戻ったのは、半年目の初めだった。
「三月でこれよ。踵だけ替えれば済むのかしら」
上客の夫人が、包みから靴を出した。右足の踵は角が残っているのに、左は外側が斜めに削れ、縫い糸の近くまで薄くなっていた。
イサークは左右を持ち上げ、底を目の高さへそろえた。
「石を踏まれたのでは」
「毎日、同じ道を歩いているわ。前の靴は一年履いたけれど、こんなふうにはならなかった」
オトマールは勘定台から出て、靴の中へ手を入れた。中敷きの沈み方を指で確かめ、注文札を呼びつける。
「寸法を見ろ。前と違うところがあるはずだ」
イサークは足長を測った。次に足囲、甲の高さを測り、定規を置き直してもう一度読む。
「同じです」
「なら、型だ。刃を間違えたんだろう」
「控えの数字どおりです。型も、この列から出しました」
イサークが示した先には、同じ長さの型が十足以上並んでいた。オトマールは棚の数字を上から下へ指で追い、該当する一足を抜いた。札に客の名はあっても、右の膝が逃げることも、左へ重みを預けることも残っていなかった。
手控えを開くと、細く作り直した紙の端がすぐに現れた。イサークの指が塞いだ欄は、今度は初めからどこにもなかった。
三日後、杖を右手に持つ男が靴を持ち込んだ。左の踵だけが丸く欠け、底革まで土が染みている。その翌週には、裾を片手で持ち上げて歩く女が来た。彼女の靴も左だけが減り、右の踵には職人の打った釘がきれいに残っていた。
「これも寸法は合っています」
イサークは三足目を測ったあと、左右の靴を重ねた。左の踵が下へ沈み、右だけが浮く。彼は重ねた靴をほどかず、そのまま作業台へ置いた。
直し待ちの棚には、左を上にした靴が増えた。半年前に手を打った職人たちは、そこを通るたび、革包丁の刃や床の木屑へ目を落とした。
直しの工賃は新しい注文の儲けを食った。一足直すあいだに受けられたはずの注文が延び、納期を聞いた客は別の日にすると帰る。オトマールは勘定台の銭を十枚ずつ積めなくなり、五枚ずつ並べた。
「前の型を出せ。ネルヴァが触ったものなら残っているだろう」
棚から出てきたのは、手の付いたで戻された上客の一足だった。炭筆の線は薄く残っているが、なぜそこを削るのかは書かれていない。右の型を床へ立てると、わずかに外へ傾いた。
オトマールは爪先でまっすぐにしようとした。型は一度起き、また同じ側へ傾いた。
* * *
卸三軒が同じ卓を囲んだのは、その一足がきっかけだった。
一軒目は半年前の表革の札を持ち、二軒目は踵金具の控えを持ってきた。三軒目の包みには、前の年に納めた底革で作られた古い靴が入っていた。グラツィアが混ぜないよう頼んでおいた札は、どれも同じ客の名へつながった。
古い靴は一年を越えて履かれていた。左右の踵は同じ高さまで減り、縫い目もまだ底の内側に収まっている。その隣へ新しい靴を置くと、左だけが卓へ傾いた。
ダリオ・フォッサは古い型を抱えてきた。作業着の袖についた木粉を払わず、型と靴を卓の端へ並べる。底を一度撫でたあとも、顔は上げなかった。
「お前が削った型だけ、半年経っても踵が平らだった」
グラツィアは左だけ減った靴を見た。天井へ目を上げたのは一度だった。梁の間に溜まった粉が、窓から入る光の中で動いていた。
いつもなら、直し一度で何文、革底一枚で何文と数えた。卓の上には古い靴が一足、新しい靴が一足、型が一足ある。数字はそこまで並んで、次が出なかった。
卸の者が、三枚の控えを重ねた。
「うちでは革の違いだと思っていた。だが、三軒とも同じだ。あんたが残した言伝がなければ、前の仕上がりと結びつかなかった」
「参事会にも、直しの相談が届いております」
同席していた参事会の者が、小さな鍵を卓へ置いた。
「市場の裏手に、作業台を二つ置ける部屋があります。卸三軒が最初の注文を持ち込みますので、そこで靴型の合わせを引き受けていただきたい」
グラツィアは鍵に触れず、重ねられた靴を見ていた。
「なぜ、あの店に十一年も残ったのです」
問われると、彼女は古い靴を左右に分けた。平らな踵が、卓の上で同じ音を立てる。
「わたくしは、履く人の側しか見ておりません」
参事会の者は契約書を差し出した。部屋代、石炭代、道具の代金、卸から受ける一足ごとの工賃が記されている。グラツィアは上から下まで読み、最後の欄へ自分の名を書いた。
鍵を受け取るとき、指についた黒いインクが真鍮へ一筋移った。
* * *
新しい仕事場の戸口には、名前だけを彫った板が掛かった。
作業台は二つ。壁の棚には客の名ごとに靴型が並び、その下へ立ち姿を書いた札が結ばれている。長さの順には見えないが、グラツィアは一度も探し間違えなかった。
夕方、オトマールが戸を開けた。上着の釦を一つ掛け違え、帽子を両手で持っている。入口で名の板を見上げてから、作業台まで三歩入った。
「少し、話がある」
グラツィアは削っていた靴型を布の上へ置いた。
「お掛けになりますか、ケルナーさん」
オトマールは椅子を見たが、座らなかった。
「店へ戻ってくれ。工賃は前より出す。棚も、必要なら元へ戻す」
グラツィアは鉋の刃についた木屑を親指で外した。床に立つオトマールの靴は、右の爪先だけが戸口へ向いている。
「イサークには数字どおりやらせた。間違った寸法は一つもなかった。それでも直しが減らん。客は待たせるなと言うし、職人は型を見ても手が止まる」
帽子の縁が、彼の指の間で細く折れた。
「型なんぞ、寸法どおりに削れば履ける」
二度目の言葉は、戸口まで届かなかった。
「あの日は、そう言った。だから、その……おまえがしていたところを、また任せたい」
グラツィアは返事をせず、手の付いたの靴型を床へ立てた。右の踵へ指を添えて離す。型は外へ傾き、底の端だけを床へ残して止まった。
次に、客が歩くときの向きへ型を半回転させた。今度は傾きが小さくなり、爪先まで静かに床へついた。
オトマールはそれを見下ろした。寸法を測る定規へ手を伸ばしかけ、途中で引く。
「十一年前から、これを見ていたのか」
グラツィアは型を作業台へ戻した。
「あの晩も。腹を冷まして帰ったんじゃなく、あの棚へ……」
帽子の縁が、もう一度だけ折れた。彼は続きに使う言葉を出さず、戸口へ下がった。
「工賃なら、まだ話せる」
グラツィアは鉋を持ち直した。刃が木へ入り、薄い木の粉が一枚、布の上に落ちた。
オトマールは帽子をかぶらないまま外へ出た。小鈴が一度鳴り、扉が戻る。グラツィアは顔を上げず、炭筆の線まで削って手を止めた。
閉店後、彼女は床を掃き、出来上がった型の底へ自分の名を刻んだ。棚の一番手前に置くと、左右は同じ高さで並んだ。
仕事場の奥には、小さな卓と椅子が一脚あった。グラツィアは腰を下ろし、蓋つきの鍋から豆と蕪のスープをよそった。湯気で指先が濡れ、ちぎったパンを浸すと、固い皮がゆっくり沈んだ。
椅子の下には、彼女の靴がそろえてある。右も左も、踵は同じだけ平らに減っていた。
湯気の向こうで、自分の名を刻んだ靴型が待っていた。今夜のパンは、まだ温かかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




