泡沫の人魚姫
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──久しぶりに夢を見た。あの時の夢を。
春の陽気が心地よい、桜の咲く日に女の子を拾った。
風に揺られて両の袖が舞う。いつも通りの学校の帰りに、彼女はいた。
背は......体を丸めているから正確にはわからないが、120cmといったところだろう。小学校低学年ぐらいの女の子が段ボールの中で毛布にくるまれて眠っていた。
こんな雲一つない昼下がりに夢でも見たのかと、頬をつねる。けれど微かに聞こえてくる寝息と、肌を撫でる風が現実を告げていた。
このままこの子を放置して帰るのはあまりに寝覚めが悪いから、ひとまず家に連れて帰ろうとしたのだけど...腕のない僕には結構な重労働だった。
季節はまだ初春。春風もまだ涼しい時期だというのに、額には汗が浮かんできて、シャツが背に張り付く。
やっとのことで自分の部屋まで運び終えたところで、状況を把握する。
「......いやぁ 日常風景、じゃないよなぁ......運び込んだはいいものの...これからどうしようか。っていうか小さい女の子を必死に家に運び込む光景って端から見たら完全に事案というかなんというか......とりあえずベッドにでも寝かせるか...ってこの子服着てないじゃん! 真昼間に毛布一枚段ボールの中で寝てる女の子ってどういう状況だよ......とりあえず服着せないと。小さい頃の妹の服まだあったかな...っと、あったあった。これを......ん?なんかこの子妙にざらざらしてるな...塩? まあいいや・・・目のやり場に困るなこれ...」
いつまでも狭い段ボールの中で寝かせておくわけにもいかないので、ベッドに寝かせようとした矢先、思わぬ事実が判明した。慌てて妹の部屋から小さい頃の服を引っ張ってきてこの子に着せる。
自分で服を着るのは流石に手慣れたものだったが、人に服を着せるというのは中々に大変な作業であった。
なんとか服を着せてベッドの上に寝かせると、床に座って壁にもたれながら休憩する。
「なんか一気にどっと疲れたな...とりあえず仕事休むって上司に言わないと...」
こんな状況で家を空ける訳にも行かないので、気は進まないが上司に休みの連絡を入れる。
急に休むなんて社会人としての自覚が~などと説教をする上司を適当に躱しながら電話を切ると、もぞもぞと布団が動いて問題の女の子が瞼をこすりながら目を覚ました。
「おじちゃん!」
そんな第一声とともに彼女はベッドから飛び出て俺の方に突っ込んできた。
咄嗟の出来事に、ミサイルの様に飛び込んできた彼女を受け止めきれず共に床に倒れこむ。
思い切り尻餅をついて背中に走る痛みに少しうめく。
彼女は俺を下敷きにして無事だったみたいで、楽しそうに上で飛び跳ねている。
彼女が上で跳ねて伸し掛かる度に肺から空気が押し出され、呼吸もままならないのでなんとか落ち着かせてベッドに座らせる。
......それほど鍛えてもいない社会人の上で飛び跳ねるのはダメージが大きいのでやめていただきたい。
...切実に。
気を取り直してまだ楽しそうにベッドの上で小さく跳ねている彼女にいくつか質問することにする。
「えぇ...っと名前とかわかる?親...パパママとか、住んでたところとか」
「んっとね!わかんない!おじちゃんだあれ?海で泳いでてね!気づいたらここにいたの!」
そう来たか。これは困った。非常に困った。こんな小さい子供が行動できる範囲なんてさほど広くはないだろう。自分か親の名前でもわかれば、役所に行って聞けば解決するし、住所がわかれば送り届けられるだろうと思っていた。
だが、どれもわからないとなると...俺の力ではどうしようもない。
いや...しかし......
「海...海か......」
そう、俺の家は海岸線にある。特に、俺の部屋の窓からは海と砂浜が一望できる。朝から夜にかけて景色を変える海は、何年たっても色褪せないお気に入りの景色だ。しかし、とするとやはり、この近くに住んでいるのだろうか。案外、両親もすぐ見つかるかもしれない。
「そう!海で泳ぐの大好き!でもプールはきらーい。あ!海だ!海行きたーい!」
そんなことを考えているうちに口から漏れ出た言葉に彼女は、パッと顔を輝かせて後ろを振り返る。
そして大好きなヒーローのおもちゃを発見した子供の様に、そう言って彼女は窓の側へと駆け寄った。
彼女は窓の縁に手を掛けながらキラキラとした目で海を眺めている。
俺はというと、そんな彼女の行動と、思わぬ手掛かりに少々呆気に取られていた。目覚めてからずっとテンションの高い彼女であったが、その時は一段と、明るくなったように見えた。
目も眩むほどに。
幸い、明日から休日であるし、その辺のことも少しずつ調べていこう。できれば両親を見つけ出して早く家に帰らしてやろう。
そう考えながら、一日を後にした。
数日調べて分かったことがある。まず、彼女は記憶喪失だろうということ。
自身のことは覚えているがその他周辺環境については全く抜け落ちていること。
そして戸籍がないということだった。
驚いた。と同時にこれは困った。小学校に入れるための書類を整理しているときに気づいたのだが、戸籍がなければ入学させることはできない。
名前もわからないために役所に行って探すことも現実的じゃない。
彼女の年頃だろう年代の子供たちの名前も見せてみたが彼女がピンとくるものはなくおそらく戸籍自体が存在してないだろうと思った。
不思議と、そんな確信があった。
そんな彼女は今は暢気にソフトクリームを食べている。美味しそうならよかったよ、ホント。
にしてもいつまでも「ねぇ」とか、「ちょっとちょっと」とかで済ませるわけにもいかないので名前を付けてあげた。
...なんだったっけなあの子の名前。......そうだ、渚月だ。浜崎渚月。
俺がいくつか考えた彼女の名前候補から彼女が選んだ。苗字はいつの間にか俺のになっていた。表札から見て覚えでもしたのだろうか。
拾った子供に自分の苗字をつけるという通報待ったなしの状況はいかんともしがたいが......彼女が嬉しそうなので良しとする。
少し整理しよう。
浜崎渚月。歳は医者の話によると8歳前後。身長128cm体重32kg右利き。
好きなことは海で泳ぐことで嫌いなことはプールに入ること。
好きなものはあおさで嫌いなものは薔薇。
得意なことは走ること...と一応泳ぐことか。
りんごだけがアレルギーで、その他持病等はなし。
渚月の好き嫌いについては彼女の並外れた嗅覚に由来していると思われる。昨日隣の部屋から俺の作っていた料理を当てていた。
病院の身体検査でも先生がびっくりするぐらい高いスコアを出していた。
...そういえばケーキを買って帰った時リビングから走ってきたことがあったっけ。夕飯を当てる時も外したことはなかったな。
勉強については算数の公式や九九などは全く覚えていなかったがいざ問題を解かせてみると不思議と正解していた。
「その他の全ては不明、か...」
得た情報をノートに書き留めながらそう思案する。渚月は昼の明るさと反対に小さく寝息を立てながら穏やかに寝ている。
もしこのまま親が見つからなかったり記憶が戻らなければどこまで...俺たちはどこまで一緒に暮らしていくんだろうか。
「今はまだ保留か」
見えない先の話を頭から追いやってノートを閉じ、床に就く。
窓からは海面に反射した月明かりが辺りを煌々と照らしていた。
その日は夢を見た。あたり一面波のない穏やかな海に浮かんでいる夢だった。その時の俺には腕があって、ふと気付くと水中には渚月が泳いでいた。一糸まとわぬ姿で妖精が空でも飛んでいるみたいに、自由に海を泳いでいる。俺も渚月に手を引かれて水中に入って......大きな魚の口に二人で飲み込まれたところで目が覚めた。
渚月を拾って数か月が経ち、シャツが汗で張り付く真夏の頃、渚月が海に行きたいと言い出した。
いや、前から言ってはいたのだが、どうにもそれは難しいことだった。
何せ俺は腕がないから泳ぐことなどできない。一時的とはいえ保護者である以上、渚月に何かあってから泳げないので助けられませんじゃ何のためにいるのかわからない。
その上、渚月は泳げなかった。あれだけ海が好きだと言っていた渚月が泳げないというのは信じがたいものであったが、現実に水泳教室に連れて行ったときには5m進んだかどうかといったところで溺れていた。
どうにも塩素の臭いで鼻が利かなくなることが原因みたいだが、海ならば泳げるという保証も無い以上、一時的にしろ保護者として渚月を海に連れていくことはできない。
教室の先生の協力も仰ぎながら不貞腐れる渚月を何とかして説得する。
...とはいえ恨めしげに海を見つめる渚月ずっとこのままにしておくのも心が痛む。
満足に泳げるとまではいかないが、しばらくは俺の膝がつかる程度の水深までならばということで遊ばせることにしていた。
渚月もしばらくはそれで我慢してくれていたが、やはり物足りない物があるようで、どうしても海で泳ぎたいと言ってきた。
「む~どうしてもだめー?」
「だめだな。俺も泳げないし渚月も泳げなかったじゃないか。どうしても泳がないとだめなのか?」
「だめ! それにあれはプールだったからだもん!絶対大丈夫だから!ね~お願い~」
「そうはいってもな...俺が泳げるようになったらまた話は変わってくるんだが...」
「! じゃあ泳げるようになって!私もプールで泳げるようになるから!」
そうきたか。言われてみて確かにとはっとする。今まで自分が泳げるように努力しようなんて思いもしなかった。泳ぐ、というのは当然に腕があって水をかける人だけの特権だと思っていた。
だが、パラリンピックの選手なんかは自分よりももっと重いハンデを背負いながら脅威的な速度で泳ぐことができる。もしかしたら自分にも、そこまでとはいかずともただ泳ぐだけならできるようになるのかもしれない。
そう思うと途端にやる気が漲ってきた。ひとまず今週末に水泳教室に行く約束をして、晩御飯にする。
海に行けるようになったことがそんなに嬉しかったのか、見る度に渚月は嬉しそうにはしゃいでいる。
週末になって、早速泳ぎの練習をする。先生も腕のない生徒に教えるのは難しいようで苦心した様子だ。
近代とは素晴らしいもので、腕を使わない泳ぎ方もインターネットにはたくさんある。大会に出る選手の様に泳げるならよかったが、それは逸りすぎというものだろう。
底を蹴って水面に浮かぶ。これの繰り返し。こんなんでも体制が崩れると先生の助力なしに水面に浮きあがるというのは難しいもので、簡単そうに見えても実際にやってみると案外難しい。
渚月の方はいっそのこと臭いを嗅がない方がやりやすいだろうとのことで鼻栓をして泳いでいる。
今までの感覚とまるっきり違うらしく、苦戦しつつも手を引かれながら泳いでいる。
その日はカレーにした。渚月の好みに合うようにスパイスから手作りした特別製だ。子供にも合うよう、辛味は抑えてある。
帰ってからも興奮冷めやらぬ様子で、海に行ったらあれがしたいこれがしたいと楽しそうに話している。夜も更け、すっかり寝付いた渚月を寝室に寝かしつけて眠りにつく。
半月ほど経って、ようやくある程度泳げるようになってきた。外は冬で東北では雪も降り始めたそうだ。
プールも暖かくなって、帰るときには物凄く眠くなる。
先生の紹介で知り合ったパラリンピックの選手の話によると、腕がない分ある人と勝手が大きく違っているから、ある程度泳げるまでに物凄く時間がかかるが、水の抵抗がその分なく、イルカの様に泳いだ時にスイスイと進むのだそうだ。
「プールなんかじゃ床や壁を蹴ればいいが、海ってなるとそうもいかねぇな。そういう時はな、回転を利用するんだ」
「回転を?」
「そ。足をこう...畳んで丸くなると体が回転する。そうやっていい感じの時に足を延ばすと...こうやって体勢を保ったまま前に進める。そしたら速度が落ちないうちに足で水を押して進むんだ」
「・・・」
「ははっムズイだろ?」
「はい...」
「気にすんなしばらくやってたらできるようになるさ。気長にやろうぜ」
「それに、一度泳げるようになりゃあとは楽なもんだぜ?」
「そうですか...?」
「あぁ。それに泳ぐときの感覚といったらたまんねぇもんだ」
その人はこの感覚は腕のあるやつにゃ味わえねーな、なんて笑っていた。その時はまだ泳ぎを習い始めて二月ほどだったからよくわからなかったけど、今ならそれがわかる気がする。
水が全身を包んで、一蹴りでそれが後ろに流れていく感覚。全てを置き去りにして、体一つで前に進む快感。
「これは...癖になりそうだ」
泳ぐことの楽しさが、少しわかって気がすると渚月に話すと、「やっぱりそうでしょ~?」なんて得意に笑っていた。
来年の夏に、海に行くことになった。場所は近くの海岸の、端の方に波が大岩を削り取ってできた、天然のプールのようなところがある。中が大きく抉れていて、波がとても穏やかになっている。
人も少なくて、事故の危険性も限りなく低いだろう。
渚月も始めたころと比べてとても上手に泳げるようになってきている。それでもやっぱり、プール上がりに微かに残った臭いは苦手なのだそうだ。
「そういえばもう1年じゃない?」
言われてふと気づいた。そういえばそうだっただろうか。それに渚月の誕生日というものも祝ったことがなかったことを思い出す。
「そうか...あれからもう1年経つのか。この1年は新しいことばかりだったから、あっという間だったな」
「そう~?もうちょとで泳げるって思うと首がぐ~ってなりそうだよ~」
「そういうのは『首を長くして待つ』っていうんだよ。
今思えば、渚月の誕生日祝ったことなかったよな?すまんすっかり忘れていた。何か、欲しいものとかないか?」
「あ~そういえば!でも...渚月もたんじょーびわかんなかったからドンマイってやつだよ!
欲しい物...か......あ!名前!渚月、おじちゃんの苗字は知ってるけど名前聞いたことない!おじちゃんの名前教えて?」
「名前くらいいつでも教えるが...それ以外になんかないのか?」
「いーの!渚月の名前くれたし他にもいーっぱい!だから、名前教えて?」
「勇勢だよ。浜崎勇勢。これから普通の人以上に苦労があるだろう俺にそれでも頑張ってほしいってつけてくれた名前なんだ。」
「勇勢おじちゃん!いい名前!...フッフッフ......渚月には負けるけどね...」
「勇勢おじちゃんはなんか昭和のジジイみたいだからやめてくれ...それだけ気に入ってくれたならよかったよ」
「そういえば、どうしておじちゃんは渚月と一緒にいてくれるの?」
そんな質問も、このくらいの頃だったろうか。今までそんなこと考えたことなかった。
「どうして...どうしてか......まぁ放置しても寝覚めが悪かったからだろうな。それに...」
「それに?」
「一緒にいて楽しいから、かな。俺も俺で渚月がいて、助かってるんだよ」
「そう?それなら...なんか照れますな...」
「はは...」
子供ながらに世話を焼いてもらっていると思っているのだろうか。初めはもちろん驚いたし今も振り回されてばかりだが、不思議と迷惑に思うことはない。なんでもなかったいつもの日常が、一日一日が全部特別で彩られていくみたいだ。俺自身も力がみなぎってくる。
夜にはケーキを買ってきて、渚月の誕生日を祝った。香草をふんだんに使った鶏もも肉のステーキとフルーツタルトを食べた。
鶏肉を口に入れた時のハーブの香りには我ながら溜息の出るほどであったし、キウイやパインの酸味と粉砂糖の甘味がいい具合に交ざっていてすごくおいしかった。
おなか一杯に食べてすぐ、渚月は眠ってしまった。渚月をベッドに寝かせて自分も床に就く。結局親だという人が現れることはなかったしいよいよ、この先も育てる覚悟をしなきゃいけないかもしれない。
海に行けるようになったら、もっと忙しくなるんだろうな。
ようやく...といったところだろうか。また、夏がやってきた。あれから練習も続け、教室の先生にも二人とも、余程の急流でもない限り心配はないだろうとお墨付きをもらった。
渚月の方も25mプールを往復する程度であれば問題ないほどにもなった。水着などのプール用品も準備万端である。
「~♪、、~~♪~。♪~~」
「そんなにはしゃぐと怪我するぞ」
「わかってるって~やっとなんだから、い~~~っぱい!楽しまないと損!でしょ?」
渚月がいつにも増して興奮収まらぬ様子で、はしゃいでスキップしながら歩いている。
注意はするものの俺自身、人生初めての出来事に感情が昂っているのか、声も若干上ずっている。
砂浜について海の近くに来ると、まず初めにシートだったりパラソルだったりのビーチグッズ一式を展開する。そうしてじゃあ海に入ろうかと渚月に声をかけようとして......もう飛び込んでいることに気が付いた。
本来なら注意しなくちゃならない事だが、あれだけ楽しみにしていた海だ。特別に見逃すことにした。
「おじちゃんも早く!入ろ!」
「あぁ、今行くよ」
渚月に誘われてしばらく海を泳いでいると海というのは想像していたよりプールと勝手が違うのだということに気が付く。
穏やかだとは言っても波というのは中々に大きなものであるし、岩場といっても縁以外は足のつかない所であるのでスリルがある。
初めての海に、もしこのまま沈んでいったら...ということを想像して身を震わせる。
実感以上に年甲斐もなく、はしゃいでいるのだろうと、どこか他人事のように思う。
渚月がいつか言っていた「海であれば大丈夫」というのも強ち嘘ではないようで、端から見れば空でも自由に飛んでいるかのようだ。
......あぁ、自由だ。こんな感覚今まで知らなかった。肌に触れる海の冷たさが、水面に飛び出した時の景色の煌めきが、そして...そして何より、ふと向こうを向いたときの渚月のあまりに楽しそうな表情が、眩しいほどに、俺の目には光って見えた。
こんな時間が、永遠に続いたらいいのに。
一通り泳いだ後、昼食を食べる。サンドイッチは渚月の好みというわけではないのだが、今の渚月にはどうだっていいことのようで、終始うれしそうだった。
「あ!おじちゃんはいこれ」
「ん?なんだこれは......貝殻の...ネックレスか?」
「そ!拾ってきたからあげる!」
「綺麗だな...ありがとう」
そう言って差し出してきた手は色とりどりの貝殻で作られたネックレスが握られていた。
......こういうものも悪くはないな。
次第に気温が上がってきて、ますます海に入った時が心地よい。いつも泳ぎを教わっている時間を超えても、体が疲労を感じない。
よりもっと、もっと泳ぎたいとすら感じる。不思議な感覚だ。今なら...何者にもなれそうな気がする。
「渚月の言っていた...海の良さが、わかる気がするよ」
「でしょ~海、最高~!おじちゃんも、すっっっごく嬉しそう!」
「そうか...そうか」
言われて自分の顔を確認してみると、なるほど。面白いぐらいに腑抜けている。だがまあ、こういうのもいいものだ。
しかし、楽しい時というのは疾く過ぎ去るもので。4時を回り、帰る時間になった。
「そろそろ、帰ろうか」
「えー!もうそんな時間? もうちょっとだけ…だめ?この時のために頑張ってきたんだからさ〜お願ーい」
「……あとちょっとだけだぞ」
「やったー!ありがとう!」
それが渚月の押しが強かったからなのか、はたまた俺自身、この楽しさに魅せられてなのか、それはわからない。
ただ、この機会を逃さないわけにはいかなかった。
もう2度と、訪れない機会でもないのに。
延長線に入った所でまた、渚月の腕を引きながらゆったりと泳いでいく。
海月のような浮遊感と、気温が下がってより感じる海の冷たさが、えも言えぬ心地よさを染み出している。
ふと気付けば、すっかり日が落ちて星が瞬いている。海面に反射した星と空に浮かぶ月が視界一杯に広がり、幻想的な風景を映し出している。
「ねぇおじちゃん、楽しい?」
「あぁとてもな。こんなこと知らなかった」
「それなら...よかった!」
泳いでいると、渚月がそう聞いてきた。当然だと、同意とともに笑って見せると渚月も、顔をクシャっとして笑い返してきた。
あと少しと言ってから随分と時間が経ち、日も落ちてしばらくたった頃、流石に寒くなってきて渚月も疲れてきたようで、後一回、普通の場所で泳いでみようということになった。
30mほど先に寝転がれる程度の、小さな足場が浮かべられている。そこに行って往復して今日は帰ろう、そういうことになった。
渚月はまだ小さい子供だ。こんなにも長い時間泳いだから相応に疲れが見える。だが、それ以上に楽しそうだ。水面から顔を上げるたびにその満面の笑みが見える。これなら俺も、頑張った甲斐があるというものだろう。
練習の甲斐あって、足場に着くのにそう労することはなかった。海の上で足場に腰を掛け、寝転びながら星の名前を教えたり、水を掛け合ったりする。
しばらくそんなことを楽しんだ後、足場から再度潜って海岸に戻ろうかというところでそれは起きた。遂に、起きてしまった。
「うぐっ!!これは......」
「! おじちゃん!」
足を攣った......!
はしゃぎすぎた!
渚月も体勢が崩れている。…くそっ!波が強すぎる...!今まで気が付かなかった...ここの波はこんなにも強かったのか......岸まで遠すぎる!水深も...何mあるかわからない。ここで溺れたら確実に助からない。
それは必然だったのか偶然だったのか。とうとう足が限界に達し絶叫を上げた。いや、とうに限界は迎えていたのだ。初めての経験に、初めての楽しさに気を取られて自分の限界に気が付かなかった。
当たり前だ。練習していたとはいえ海で泳ぐのは初めてなのだ。興奮して体にも必要以上に力が入っていた。こんなときに今更、遅すぎる後悔をする。
こっちのパニックにつられて渚月もいつも通りに泳げなくなっている。
......いや違う。俺を連れて戻ろうとしてくれているんだ。
無理だ...まだ小学校低学年程度の渚月が成人男性を連れて泳ぐのは。このままでは二人とも溺れる。そう思った俺は微かに残っている力を振り絞って渚月を岸に背負い投げた。
「おじちゃん!」
驚いた表情で渚月は俺を見ている。何か言っているようだが水の音がうるさくて聞こえない。いいんだ。これでいいんだ。また、お前を道に迷わせることになる。それだけが心残りだ。
渚月が無事に足が付く所まで避難できたのを見て安心したのか、体中から力が抜けて、海の底へと沈んでいく。だが、悲しいことに渚月はそれを許しちゃくれなかった。薄れゆく視界の中、渚月が泳いでくるのが見えた。あの時岸に戻ったのは助走をつけて飛び込むためなんだとその時気づいた。
戻れ! と精一杯ジェスチャーをするが、渚月は頑なに首を縦に振らなかった。俺の傍まできて、渚月が俺の腕を引いた。
その時だった。渚月が俺の腕を引くと同時に大きな波が起こった。
周囲の水ごと体が水面まで押し上げられ、勢いそのままに宙を舞う。届きもしない伸ばした腕が空を切る。水飛沫が視界を埋め尽くす中、その奥にいる渚月と目があった。
月明かりを反射して、真珠の様に光る水飛沫の中、渚月の顔はひと際強く目に映った。それは普段の渚月のいつも通りの笑顔。眩しいほどの笑顔だ。けれど全く違う。いつも通りに見える笑顔に僅かに影が、満足したような、諦めたような笑顔が語りかけてきた。
渚月が口を開く。周囲の音がうるさくてなにも聞こえない。けれど唇は、その形ははっきりと見えた。長い言葉はいらないとばかりに刹那の間に言葉は紡がれ、言葉を終えた渚月は静かに目を閉じて海底に消えていき......渚月を呼ぶ声も、渚月の姿も、水が幕を落として消えた。
海面に出て大きく持ち上がった体は一瞬の浮遊感とともに海岸に打ち上げられる。思いもよらないことが起こって脳の処理が追い付かない。けれど直ぐにはっとして激痛を訴える足を無理やり動かして渚月を探す。
水が邪魔だ。蹴とばしても水を消すことなんてできやしない。這いずって顔を水中につけても、ここからじゃ遠すぎて全く見えない。
渚月はどこまで沈んでいった。あのあたりから急に水深が深くなっていた。底まで行っていたら10mや20m程度ではないだろう。それでも死ぬ気で渚月を探そうとして、そんな努力も虚しく、当然と言わんばかりに、渚月を見つけることはできなかった。
それからのことはよく覚えていない。気が付いたら家で寝ていて、学校に遅刻しないために起こしに来た親が部屋に入ってきた。どこか夢見心地のように準備をして学校に行く。
あれは...いやあの時はなんだのだろうか。僕はまだ幼い少女を養える年齢でもないし、もちろん仕事なんてアルバイト以外でできるわけがない。あれから泳ごうともしてみたけれどそれもできっこなかった。
あの時の記憶も曖昧だ。腕なんてあるはずはないというのに、渚月の腕を引く感覚が、最後のあの時、空を切った虚しさだけが残っている。全く現実味のない夢の様な話だ。だけど......だけど、朝起きた時、手に握っていたこれは...あのとき渚月が作ってくれた貝殻のネックレスは確かにあるんだ。幻なんかじゃなく確かに、僕の手に握られていた。
夢でも見たのだと親や友達は言う。それでも、あの時過ごした思い出はこのネックレスが覚えている。
......久しぶりにこの夢を見た。今はもう、夢のときの俺の歳も超えて、部下もたくさんいる。それまで、高校を卒業して以来、こんな夢見なかったのに。
あの時、もっと早く切り上げていれば、いや、そもそも海に連れていかなければ今も渚月と、あの夢の様な時間を過ごすことができたのだろうか。
......いや、これは言い訳だ。きっとあの日を何度繰り返しても、渚月が泳ぐのを少しだって邪魔することはできないだろう。だって、海が渚月で、あの日々が俺なんだから。
あの時目が覚めた時に握っていたネックレスは今でも俺の手元にある。ありえない日常が、確かにあったという証拠が今もある。あの時出会った渚月は、あの日々は一体何だったのだろうか。
あの時、俺のない手を引いて輝く新しい世界を見せてくれた人魚姫は夜の海で───
───泡になって消えた。




