ピアノの調べ
──放課後、教室から出ると、そこでカオリが待っていた。
「今日、私の家でご飯食べてかない?」
「そりゃまぁ構わないけど、いきなり女子の部屋ってハードル高くないか?」
「高くないない。どうせ一人なんだし」
コウイチとカオリは帰りに食材の買い出しにスーパーに入った。
「何作るんだ?」
「オーソドックスにカレーだよ。えっと・・・カレー用に加工された野菜パックがあったと思うけど・・・」
カオリはコウイチを放っぽり出して野菜コーナーを歩いていく。
「あれ?鷹宮君?」
振り返るとユイの姿が。
「君も自炊派だったとはね」
「いや、作るのは彼女で」
「私はお邪魔かな。じゃあね」
ユイの背中を見送ってから、コウイチは少し遅れてカオリの後を追った。
「さぁ、入って入って」
カオリに手を引っ張られながらコウイチは部屋に入った。
「お邪魔しま〜す」
玄関で靴を揃え、部屋に上がる。小さなテーブルの前に座り、コウイチは部屋を見回した。一人暮らしにしては物が多いが、散らかってはいない。生活感が感じられる。壁に掛けられたカレンダー、開けっぱなしの雑誌。どれも特別な物じゃない。
「後は煮込むのを待つだけっと」
鍋に蓋をしたカオリは部屋で座っているコウイチの横にピタリと座った。しばらく見つめ合っていたのだが、照れくささを感じたのか、コウイチは目を逸らした。それが偶然にもカオリの胸に行ってしまった。
「そんなに胸が気になるの?」
「え?」
「さっきから目線が上行ったりした行ったりしてるじゃない。まぁ〜コウ君も男の子だし、気になるのもしょーがないけど」
カオリはコウイチの手を掴んだ。
「いいよ・・・コウ君なら・・・」
カオリの手に引っ張られて、少しずつ近付いていく瞬間、鼻を突く匂いがした。
「・・・何か焦げてないか?」
「え?」
「いっけない、焦げてる!煙!煙!」
どうやったらカレーで焦げるんだか。鍋を見たカオリは振り向いて苦笑いした。
「・・・今日、ウーバーイーツでもいい?」
──ここはどこだろう?地面に霧が掛かっている以外分からない。俺は白いピアノの前に座っていた。と、隣に白い服を着た女子が座った。
「お久し振りです」
そう言うと彼女はピアノを弾き始めた。どこかで聞いた事がある曲。心が安らいでいく様な、そんな感覚。
「・・・何だこの夢?」
だけどどこか優しくて柔らかい空気・・・そんな変わった夢だった。
──翌日
「コウ君、今日、私先に帰るね」
「どっか行くの?」
「へへっ、内緒」
とだけ言い残してカオリは廊下を走り去っていった。
自分も家に帰ろうと教室を出た時、ふと、どこかからピアノの音が聞こえてきた。最初は小さく、柔らかい音から始まったが、次の瞬間、急に空気が震えるような深い低音へと沈み、また静かに浮かび上がる。まるで波の底と水面を往復する様な激しいうねり。
何だろう・・・この懐かしい感じは・・・。自然と階段を登って、気が付いたら音楽室の前に立っていた。そこで風で揺れるカーテンを背後に、グランドピアノを誰かが弾いている。ユイだ。曲を弾き終わると彼女はこちらに気付いた。
「その曲は・・・」
「ベートーヴェンのテンペスト、第三楽章だよ。君がいつも聞いてた曲」
「俺が・・・?」
「本当に何も覚えてないんだね・・・。もしかして若返った時に記憶領域消しちゃった?」
「何の事だよ?」
彼女は椅子から立ち上がった。
「知らないなら教えなーい」
すれ違いざま、彼女はこう呟いた。
「それがあなたの為だから」
若返った?若返りって何だ?あいつは俺の何を知ってるんだ?コウイチにはユイの言葉の意味を分からないでいた。
次の日の朝、目が覚めた時に胸のざわつきが少し残っていた。理由は分からなかったが、それが昨日の続きだという事だけはなぜか分かった。
「コウ君、今日私お弁当作ってきたんだ。一緒に食べない?」
「え?だってお前・・・」
つい先日カレーで大失敗を犯した人間のする事じゃない。
「いいからいいから」
カオリはコウイチの手を無理やり掴んで食堂に入った。
「じゃーん」
蓋を開けて驚いた。ウインナー、卵焼き、肉じゃが、ミニトマト。とても二〜三日で上達したとは思えない。カオリは"早く感想聞かせろ"とばかりにコウイチの顔を凝視している。
「じゃあまずミニトマトを・・・」
ミニトマトに箸を伸ばした瞬間、カオリに手を叩かれた。
「失礼ね!他のおかずから食べなさいよ!」
ふと顔を上げると向こうの席が目に入った。女友達に囲まれたユイが、会話をしながら昼飯を食べている。
「固まってないで、早く食べて食べて」
じゃあ、とコウイチは一番リスキーな卵焼きに箸を伸ばした。ゆっくりと噛んで、殻が混ざってないか確かめる。
「どう?」
「うん・・・美味い」
「でしょでしょ!私卵焼きにこだわったんすよ〜」
箸で掴んだままの卵焼きにもう一度目を向ける。卵焼きってカレーより簡単に作れるのか?じゃあ他のおかずはどうなんだ?コウイチが肉じゃがに手を伸ばそうと顔を見上げた時、いつの間にかユイの姿は食堂から消えていた。
「ふぅ・・・ご馳走様。洗って返すよ」
「いいよ、そんな事しなくって」
コウイチから弁当箱を受け取ったカオリは袋に入れて立ち上がった。しかし、とコウイチはもう一度考え込んだ。カレーを焦がしたのが一昨日だというのに、なぜ今日になって腕が上達したのか。頑張って練習したとしても、指に絆創膏を一枚も巻いていない。気のせいか、と自分で納得してはみた物の、胸の奥に残った違和感は消えなかった。




