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駅のベンチと小さなハト

作者: TATSUYAKEM

五月の、少し肌寒い朝。午前7時、駅前のベンチはまだ、まどろみの中にあった。60歳になる男は、いつもこのベンチに座り、ポケットから取り出したパンの耳を千切っていた。彼の前に群がるハトたちは、男の手元をじっと見つめている。彼の日課は、このハトたちに餌をやることだった。


群れの中に、ひときわ小さなハトがいた。他のハトに比べて臆病で、いつも群れの隅にいる。だが、男が餌を投げると、その小さなハトはちょこちょこと近寄ってきて、男の足元でパンをついばむのだ。男はいつしか、その小さなハトに特別な感情を抱くようになっていた。


「おい、チビ。お前も食べろ」


男が優しく声をかけると、チビ、と彼が名付けたそのハトは、嬉しそうに首を傾げる。チビは、他のハトが近づくと、男の膝元に隠れるように寄ってくるほど、彼になついていた。


駅前の通りは、徐々に人通りが多くなる。会社へと向かうサラリーマンたちが、足早に行き交う。彼らの視線は、男とハトの間に注がれることはない。皆、自分の世界に没頭している。


その日も、男はチビに餌をやっていた。パンが残り少なくなった時、チビが突然、男の目の前で羽ばたいた。そして、駅前広場の片隅にある、細い路地へと飛んでいく。


「おい、チビ!」


男は思わず立ち上がり、チビの後を追った。路地は薄暗く、生ゴミの匂いが漂う。こんな場所に、ハトがいるはずがない。だが、チビは迷うことなく、路地の奥へと進んでいく。男もまた、何かに導かれるように、その小さな背中を追った。


路地を抜けると、そこは男の見慣れた街とは全く異なる景色が広がっていた。


チビが消えた路地の先には、古びた地下への階段が続いていた。湿った空気が鼻をつく。一段一段、踏みしめるたびにギィと軋む音が、薄暗い空間に響き渡る。男は、まるで何かに誘われるかのように、その古びた階段を下りていった。


やがて、光は完全に失われ、漆黒の闇に包まれる。何も見えない。しかし、男は不思議と不安を感じなかった。むしろ、心の奥底に沈んでいた何かが、ゆっくりと浮上してくるような感覚に襲われた。


暗闇の中に、ぼんやりと人影が浮かび上がっては消えていく。


最初に現れたのは、学生時代の友人たちだった。いつもつるんでいた悪友の笑い声が聞こえるようだ。次に、かつて恋焦がれた女性の面影が、はにかむように微笑んだ。共に過ごした甘い記憶が、胸の奥をじんわりと温める。そして、苦しい時に手を差し伸べてくれた恩人たちの顔が、次々と現れては消えていく。彼らの言葉や眼差しが、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。


それは、まるで走馬灯のようでありながら、決して悲しいものではなかった。むしろ、男の人生を彩ってきた大切な記憶の断片が、闇の中で輝きを放っているようだった。忘れていたはずの感情が、喜びや感謝、そして少しの切なさとともに、男の心を満たしていく。


暗闇の中、男はただ立ち尽くしていた。しかし、決して孤独ではなかった。そこにいるのは、彼の人生を形作ってきた多くの人々の面影。そして、彼らがくれた温かい感情が、確かにそこにあった。男は、心地よい感覚に身を委ね、ただ静かにその闇の中に佇んでいた。


暗闇の奥から、静かな声が響いた。「あなたは、もう一度、はじめから、同じように人生を生きたいですか?」


男は、その問いに、すぐに答えることができなかった。彼の脳裏には、過ぎ去った60年の歳月が、走馬灯のように駆け巡っていた。成功も失敗も、喜びも悲しみも、出会いも別れも。全てが、彼を形作るかけがえのない経験だった。後悔がないと言えば嘘になる。もっとこうしていれば、と、何度も思った。


しかし、その声は、男の心の奥底に眠っていた純粋な願いを揺り起こした。暗闇の中で、チビの小さな姿が浮かんだ。毎朝ベンチで餌をやる、ささやかな喜び。あの小さな命が、どれほど彼の日々を彩っていたことか。


そして、男は、確信を持って答えた。


「はい。まったく同じ人生でいいです」


彼の声は、闇に吸い込まれることなく、はっきりと響き渡った。


「生きたいです。何度でも、同じ人生を生きたい」


その言葉が、男の口から発せられた瞬間、暗闇に一筋の光が差し込んだ。それは、まばゆいばかりの光ではなく、温かく、柔らかな光だった。光は徐々に広がり、男の周囲を包み込む。そして、光の中から、再びチビの姿が現れた。チビは、男の足元にそっと降り立ち、愛おしそうに男の指先に頭を擦り付けた。


男は、その小さな温かさに、胸が震えるのを感じた。これが、彼が探し求めていたものだった。特別な何かではなく、日々のささやかな喜びの中にこそ、人生の真実がある。チビの存在が、それを彼に教えてくれた。


光がさらに強まり、男は目を閉じた。次に目を開けた時、彼は再び駅前のベンチに座っていた。午前7時。通勤のサラリーマンが足早に行き交う中、男の膝元には、いつものようにチビがパンの耳をついばんでいる。


男は、チビの頭を優しく撫でた。そして、心の中でそっと呟いた。


「ありがとう」


彼の人生は、何も変わっていなかった。だが、男の心は、確かに変わっていた。これまでの人生を、そしてこれからの人生を、心から愛おしいと思える、そんな朝だった。



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