「調査官。実はこちらに滞在中の——
「調査官。実はこちらに滞在中の住処なのですが、ある篤志家が自分の家の一室を使ってほしいと言っておられるんです」
「それはありがたい」調査官はパッパラルドの性格と問題は十分わかったので、彼と一緒に司祭館に住まなければいけないのかと気を揉んでいた。
「車でお送りしますよ」
司祭の運転するチッキテッドゥは市街地から南へ出て、農道をしばらく走った。針金で区切られた牧草地に去勢された羊が群れていて、それを散弾銃を肩にかけた男が馬にまたがって、見張っていた。麦畑では小作人たちが一列に並んで麦を刈っていたが、そこにも二連式銃を鞍袋に入れて、足の短い馬にまたがった男がいて、小作人たちを見張っていた。男は小作人たちと変わらない地の荒い服にハンチングをかぶっていて、弾薬ベルトを肩から斜めにかけていた。目つきが悪く、前科者のように見えた。
「彼らは?」
「ドン・ニコロが使っているガヴェロットですよ」
「ガヴェロット?」
「農地の監視人です。ああやっておかないと、小作人はさぼるし、狼が羊をさらっていってしまいます」
「生きるために必要と?」
「その通りです」
牧草地を抜けて、川にかかる橋を渡るころに、パッパラルドはドン・ニコロのことは知っているかたずねてきた。
「苗字はアッリーゴなんですが」
「いえ。初めてきく名です」
「素晴らしい人物ですよ。このあたりの地所のほとんどを持っていて、とても信心深い方です。以前、無神論者の共和国人たちがわたしの教会の前で違法な集会を開いて、神と国王陛下に対する口にできないような罵言をまきちらし、わたしの教会に入ろうとする信者たちを次々と追い返してしまったことがありました。そのとき、ドン・ニコロは彼のガヴェロットを遣わしてくれて、おかげで無神論者たちを追い出し、わたしは日曜の儀式を信徒の皆さんに施せたのです」
「彼らは撃ったんですか?」
「どちらが?」
「ガヴェロットですよ」
「もちろん撃ちましたよ」
ジャスミンの生垣がつらなって、それに沿って進むと、鋳鉄の門があらわれた。猟銃を持ったふたりの若者が門扉を開けると、パッパラルドは彼らに十字を切った。砂利を軋ませて前庭を進むと、別荘風の屋敷が見えた。司祭はテラスにいる史学の教授のような風采の男を、ドン・ニコロですよ、と教えた。
ドン・ニコロは調査官に気がつくと、立ち上がり、階段を下りてきた。
「司祭さま。ごきげんよう」
縁なしの眼鏡に上品で古風な口髭をたくわえていたが、声はそれに不釣り合いなほどかすれて、低かった。
「調査官さんですね」
ドン・ニコロはごく自然に手を差し出したので、調査官はその手にキスをした。ドン・ニコロは司教や枢機卿と同様に尊敬されることに慣れていた。そして、調査官は尊敬することに慣れていた。
「それでは。ドン・ニコロ。わたしはこれで」パッパラルドは車に戻った。「信徒たちの動揺に対応しなければいけません」
「殺人事件はそんなに町を騒がせていますか」
「不信心者でも殺人は殺人です。ありもしない話をわたしに話したがるものが多いのです」
「カナメッロ大尉の職分な気もしますがね」
「それですが、ドン・ニコロ。大尉は異端者たちにテントを売った男のことで頭がいっぱいなのですよ。それに匿名の手紙にうんざりしています」
「殺人事件があると、みな、ものの道理に通じた人間になりたがりますからね」
「まったくもって、その通りですよ。ドン・ニコロ。まったくもって」
パッパラルドが帰ると、ドン・ニコロは早速、調査官を部屋に案内させた。グイドという名の若いガヴェロットが彼の面倒を見ることになっていたが、彼は屋敷のなかを歩くときでさえ、散弾銃を手放さず、ドン・ニコロもそれをとがめる様子はなかった。
「ここがお客の泊まる部屋ですよ、司祭さま」グイドが言った。
「わたしは司祭ではないんですよ」
「でも、教会のえらい人なら、みんな司祭さまじゃあねえですか。少なくとも、お客さんは教会の小使いには見えませんや」
「調査官は厳密な聖職者ではないのです」
「難しいことはわしには分かりませんや、パードレ」
部屋は控えめに言っても、素晴らしい部屋で乾いた熱風の季節も肌寒さを感じさせる季節でも快適に過ごせるよう窓が開いていて、バルコニーには棕櫚を植えた彩色陶器が左右にふたつあり、真ん中は裏庭に向かって丸く出っ張っていた。裏庭は古い井戸を中心にジャスミンやサボテン、丸石の道が配置されていて、十一月でも様々な花が咲く道の向こうは広い果樹園で、農夫がいて、馬にまたがったガヴェロットがいた。
棚には捜査を始めると大量に必要になるインデックス付きの紙ハサミが束になって置いてあり、調査官の使うペンと相性のいいものが使えるよう様々な文房具会社のインク瓶が閲兵式の兵隊みたいに並べてあった。ドン・ニコロは客として招いただけでなく、捜査官を迎えることも考えて、この客室を用意したようだった。
その夜、夕食では焼いた去勢羊が出たが、胃の悪い調査官のために油を紙に吸わせてから薄く切ったものをアーティチョークに添え、スープをつけた。ドン・ニコロには美しい妻と娘がいて、それぞれ、ツィツェーリアとフェリーナと紹介を受けた。
「息子は軍にいるんですよ」ドン・ニコロはまるで、刑務所にいるんですよ、という調子で言った。「ピッコロミニさんは宗務院から、あの殺人事件を解決するために派遣された異端調査官なんだよ」と、妻子に説明する口調が息子について説明するときのものと酷似していた。
「恐ろしいことです」ドニャ・ツィツェーリアが言った。殺人事件が恐ろしいのだろうが、異端調査官というものがいまだに存在していることが恐ろしいと言われている気がした。
どうも、ドニャ・ツィツェーリアは古王国人らしさが欠けていた。たかだか異端調査官との夕食に、信じられない大きさのダイヤモンドのネックレスをしていて、黒いショールを頭からかぶった古王国女性の典型をどこか馬鹿にしているところがあった。
彼女の話すことは、映画や従兄弟同士の結婚、そしてパッパラルド司祭についての皮肉たっぷりのジョークだった。ドン・ニコロはそれを放置していたが、ドニャ・ツィツェーリアは許容範囲を侵すことはなく、その話は明晰で機転がきいていた。
娘のフェリーナは逆で典型的な古王国の女性だった。控えめで、なかなか考えていることを表に出さないが、油断のない目で話の行く先を追っている。寄宿学校から帰ったばかりの十八歳で飾りっけのない服装でも、その美貌は隠しようがなかった。ドン・ニコロが彼女を誇りに思っていることはひと目見ればわかった。
息子のチェーザレについては軍に入ったことをドン・ニコロは好ましく思っていなかった。アッリーゴ家の人間が上官に無条件で従うことが気に入らなかった。フェリーナももっと家族が一緒に暮らせる職を選ばなかったことに疑問を持っていた。ドニャ・ツィツェーリアはツィツェーリアだけが賛成していた。
「あの子は少尉なんですよ。騎兵少尉で、大きな剣を持っていて、惚れ惚れする乗馬の名人なんですよ、調査官さん」
「そうですか。ときどきここに帰ってくるんですか?」
「もちろんですよ」
「でも、兄さんは」と、フェリーナがおずおずと言った。「休暇もほとんど向こうで過ごしてて。やっぱり寂しいです」
ドン・ニコロは何も言わなかった。おそらくこのことがちょっとした言い合いになったとき、正しいタイミングで会話に介入し、自分の意見で結果を固めることを待っているらしく、そういう会話術は古代の独裁官が得意とするものだった。
「もっと異なる機会で、わたしたちの地所を訪れてくれればよかったのですが」ドン・ニコロが息子についての話を断ち切った。
「でも、あなた。布教団は共和国じゃ、すごい勢いだって話よ。自前の映画館を持ってるの」
「ここでは難しい人びとだよ。我々には正統な信仰がある。どうして国王を認めない政治家たちが怪しげな教団を認めるのか。ただの新しもの好きならいいが、度し難い考え方があるのではと疑いたくなる」
「ピッコロミニさんは?」ドニャ・ツィツェーリアがたずねた。「布教団はどう思います?」
「そうですね」調査官は口を拭いてこたえた。「誤った信仰に惑っていると思います。しかし、わたしの役目はそれを調べることで、彼らを正しく導くのは土地の聖職者の仕事です」
「パッパラルド司祭が? 導く?」ドニャ・ツィツェーリアは笑った。「あの方のことは知っているでしょう?」
「聖務に熱心な方だよ」ドン・ニコロが言った。
「あなただって言っていたじゃない。パッパラルド司祭が——」
ドン・ニコロがテーブルを叩いた。ワイングラスが倒れて、テーブルクロスに赤いしみが広がった。ドニャ・ツィツェーリアは怯えて、むくれて、黙り込んだ。フェリーナはうつむき、目に見えて分かるほど震えていた。