人を拒む谷
その少世界に入ってすぐ、俺の体が違和感を察知する。細胞の一つ一つが、まるで暴れまわっているかのように熱い。
「これが魔族領の濃魔、人間に有害な自然魔力か……思ったよりヤバイな」
俺はリザードマン達からこの小世界、シャドウバレーの話は聞いていた。シャドウバレーの危険は人間に敵対的な魔神族やシャドウピクシーだけではない。濃魔もまた人間にとっては危険であると。
この濃魔は魔法適正のある魔族ならばいくらか悪影響を緩和することができるが、人間にはそれが難しい。魔族ではあるが、その中では魔法が不得手とされるリザードマンも濃魔から少しの悪影響を受けるらしく、リザードマンは濃魔を嫌っていた。
濃魔の中では感覚が暴走し、鋭敏化する。歩くだけで体が痛い、体の内側がやけどしているかのような不快感で、眼球は己の意思とは無関係に動いてしまう。揺らぐ視界が、まるで船酔いのように吐き気を催す。
「長老が何故シャドウピクシーの同じ罠に掛かってしまったのかがよく分かる。これじゃあ注意力も低下する。着いたばかりだけど、慣れるまで少し休むか」
俺は休憩場所を探すため辺りを見渡す。シャドウバレーは谷、渓谷地形だ。しかし一般的な渓谷とは違い、目立つ川がない。本来であれば渓谷はそれを大地を削り谷を形成する大きな川が必要となるはずだが、それがない。ちょろちょろと流れる湧き水のような、細流しか確認できなかった。
代わりに──風が吹いている。それはただの風ではなく、精霊の風のようだ。黒く光る霧のような精霊達が砂埃を取り込んだ風を動かしている。この砂の風は、精霊達の中で目まぐるしく回転し、触れた渓谷の斜面を削っている。
「確か精霊は魔術とか魔法を使うと怒って危ないんだったか。元々濃魔があって、さらに精霊まで……意地でも魔法や魔術を使わせないような意図があるのかと勘ぐりたくなるな」
やばいなこの土地……と思いつつも地形の観察を続け、精霊達が殆ど通らない、安全な場所を見つけた。赤い大岩で囲まれたそこに俺が移動すると、臭いでこの赤色が何かを理解することができた。
「鉄か、そういえば鉄は魔術や魔法に耐性があるって聞いたことがあるな。濃い鉄の力があるから、精霊はよって来ないんだな。精霊なんて全身魔法のようなものだしな」
ひとまず大岩を背に座り込む、そうして分かったのは、この鉄に囲まれた環境では濃魔の影響がいくらか緩和されているのがわかった。明らかに体が楽だ、まだ熱さはあるが、その温度が直火から熱めのお湯ぐらいに変わった。
俺は鉄の濃魔への有効性を見るために、落ちている鉄の小石を拾う。右手にだけ小石を握り込み、左手との比較をしてみる。
結果は歴然、何も握っていない左手の感覚は狂ったままだが、鉄を握り込んだ右手は殆ど痛みが、熱さがなくなって、いつもの感覚に近くなっていた。
「見た感じ、土もかなり赤い、鉄まみれなんだ。これならなんとかなるかも、湧き水もあっちにあるし、材料は問題ない」
俺は両手に鉄の小石を握り込み、ズボンの一組あるポケットの両方にも同様の小石を忍ばせると、俺は野宿で暖を取る為に用意していた防水布をリュックから取り出し、湧き水のある所まで移動する。
湧き水の所までやって来ると、俺は防水布を瓶代わりにして水を汲む。お、重いけど、運べないことはない……こんな感じで水を元いた鉄の安全地帯へと運ぶ。そして運んだ水を赤さの目立つ土にぶっかける。これを何度も繰り返すと、やがてそこには大きな水たまりができた。
「よし! 頑張ってちゃんと仕上げないとな! これから先も、きっと役立つはずだし」
俺は水たまりの中で赤い鉄を多く含んだ土と水とを混ぜる。最初は混ぜる手が見えた水面も、次第に手の動作が確認できなくなる。濁りが強くなった所で俺は服を脱ぎ、水たまりに投入する。リュックに仕舞っていた予備の服もやはり投入。
水たまりに投入した服にヌメリのある赤土のドロを塗り込んでいく。白かった俺の服が赤土色に変わっていく。
「ちょっと、色が濃すぎるか? いやでもやり過ぎなぐらいが丁度いいか。旅をしていれば雨とかである程度抜けてしまうかもだし」
染色した服を大岩に貼り付けて乾燥させる。完全に乾燥した服は極端なオレンジ色をしていた。
「この色は目立ち過ぎるな……濃魔の影響を緩和できても、これじゃあ魔物に見つかりやすくなってしまうな……あ!」
俺は思い出したようにリュックからあるものを取り出す。裁縫セットと魔物の皮だ。防水布の修繕用に持っていたこの魔物の皮は、耐水性があり、深草色と枯草色のグラデーションをしていて、まるで迷彩柄だ。
「ネルタタ達と狩ったウッドリザードの皮がこんな形で役立つなんてな。森と一体化して潜み、獲物を待つウッドリザード、注意深く見ないと気付けないんだよなぁ~」
ネルタタとナーガ達とアルピネスは共同で狩りを行った。丁度ネルタタ達がアルピウス村にやってきて半年後ぐらいだ。俺とルンゼ、モルゲンもネルタタに同行して狩りを行った。
俺達アルピネス男三人組は森を注意深く見て、魔物を見つける係で、俺達が見つけた魔物にネルタタが麻痺の魔眼を使う。あとはしびれ状態となった魔物をタコ殴りにして倒すという、俺達からすれば楽な狩りだった。
そんな狩りの中で、一番手こずらされたのがウッドリザードだ。ウッドリザードは元々森に溶け込む色をしているし、気配を誤魔化す魔力特性を持っていたからだ。見つけるのに苦労した、その経験から俺はウッドリザードを優れたハンターであると認識した。俺の中で一目置く存在となったウッドリザードのことが、俺は好きになったというか、気に入った。
ウッドリザードの素材で出来たモノを使えば、ウッドリザードの優秀さも身にまとえる気がした。だから俺のリュックとポーチは元からウッドリザード製だし、ウッドリザードの皮というモノをかなり信頼していた。信頼しすぎて、ウッドリザードの皮をかなり持ち込んで、荷物がかさばらせてしまった。けれど、俺のある種の盲目的なウッドリザード信仰が、功を奏した。
「ウッドリザードいつもありがとう。大事に使わせてもらうからな」
俺はそう言って服の目立ちそうな部分にウッドリザードの皮を縫い合わせていく。余った皮で外套とムチを作成し、俺はウキウキ気分で完成したそれらを眺める。
「よし、フル装備だ! 最早俺はウッドリザードマンだ!」
俺は完成した服を着て、外套とムチを装備! 作成に使った諸々をリュックにしまう。
「ウッドリザードマン? お前、リザードマンの新種?」
「──っ!?」
──ゾワリ、背筋が凍る。俺の背後から響いた幼い印象のする声──
こいつはきっと──シャドウピクシーだ。シャドウピクシーに背後を取られた。作業に夢中になっていて気がつくことができなかった……う、うかつ……
俺は素早く反転し、背後の存在を目視する。そこにいたのは長い緑の髪をした小人、ハチとトンボの羽を持って、宙を浮いていた。羽はトンボとハチにそっくりなのに、羽がまるで動いていないせいで、違和感がある。こういったものは、普通うるさく音を立てて動くものだ。それが静かだと、異質だ。
「へへ! まぁいいや、中々面白そうなヤツだし、しばらく飼ってやるか! つーかまえた!」
シャドウピクシーが俺の背後を指さした。その瞬間、リザードマンの長老の長話の記憶が呼び起こされた。
『いいか、シャドウピクシーの指差す方を見てはならんぞ。見れば次の瞬間落とし穴じゃ。シャドウピクシーの指差す先の空間が捻れて横が縦になる。横に、落とされる。シャドウピクシーが指差す先の最奥に底がある。魔法の檻がな』
聞いてて良かった。面倒だと思いつつも、ちゃんと聞いててよかった。俺はシャドウピクシーの指差す方を見ず、前を向きながらリュックとポーチを装備、シャドウピクシーを無視して前進していく。シャドウピクシーを追い越し、置き去りにする。
「あれ~? お前知ってるヤツだね? 見かけない顔なのに、ふっしぎ~!」
シャドウピクシーが話しかけてくるが無視する。無視してひたすら前進、長老から貰った魔族領の地図のシャドウバレーの部分を思い出しながら、目的地である氷の魔人、カラーテル=デスロッドの住処とされる渓谷の横穴を目指す。渓谷の横穴はシャドウバレーの中心にあって、入口付近のここからはまだ距離がある。
「おい無視すんなよ! いいのか~? 飲んだ水が腐る魔法をかけてもいいんだぞ?」
っぐ、そんなことされたら死ぬけど……だがシャドウピクシーの言葉に耳を貸してはならんというのが、リザードマンの長老の教えだ。
「こんな精霊がうじゃうじゃいる所で魔法なんて使えるかよ!」
「あはは! お前知らないの~? ピクシーは魔法を使っても精霊から怒られないんだよ~? ていうかさぁ──」
音もなく、すぅーっと空を滑るようにシャドウピクシーが俺の前に再びやってきた。そして──シャドウピクシーが指で天を指す。
「落とし穴が一つだけだって思ってんの~? ここにもあるよ、ほら、こっち」
シャドウピクシーが指を天から俺の進行方向へと向けようとしている。
は……? 心臓の鼓動が早まる。極度の緊張の中で、俺の感覚が引き伸ばされていくのを感じる。ここで選択を誤れば、俺の旅はここで終わる気がした。
シャドウピクシーは間違いなく俺の進行方向を指さそうとしている。俺の進行方向にも魔法の落とし穴があるというのか? それとも、進行方向が落とし穴だと思わせて、別の方向を向かせようとしているのか?
少なくとも、俺の背後側はすでにシャドウピクシーの魔法の落とし穴が展開された後だ。前を向かない選択をしたとしても、後ろを向いてはいけない。ならば横か? 横をみればいいのか? ダメだ、もしかすると横を向かせるのがシャドウピクシーの狙いなのかもしれない……
「っく……わからん! 全ッ然ッ! わからーーん!! うわあああああああ!!」
俺はもう何も分からなくなって、目を瞑って走る。もうシャドウピクシーの指がどこを指すのかなんて見たくない。目を瞑ったまま悪路を走るなんて最悪だ。
こんなの転ぶに決まってる──
──ズシャアーー!! 俺は案の定転ぶ。が、思ったよりも痛くない。どうやらウッドリザードの皮で強化された俺の服は頑丈で、衝撃の殆どを無力化してくれたみたいだ。
ありがとう、ありがとうウッドリザード!! 俺は立ち上がってまた走る。俺は目で見ずとも、感覚を研ぎ澄ませば、地形の把握はできる。アルピネスの戦士の修行ではそういったものも存在したからだ。風と音でなんとなくの地形を把握できる。本来……ならば……
そう、このシャドウバレーには濃魔が展開されている。濃魔は感覚を過剰に鋭敏にさせ、暴走させる。勘違いを発生させやすくする。鉄の力を纏うことで濃魔の影響を緩和したとはいえ、今の俺に正確な地形の把握など不可能だった。
「小石が大岩に感じられる……そよ風は強風で、砂は礫だ……危険に囲まれてるみたいだ。感覚の暴走……過剰反応か……過剰に──反応? へ、へへへ……」
「なんだぁお前? 急に笑いだして、おかしくなったかぁ~?」
俺はシャドウピクシーの声を無視して、目を瞑ったまま、ポーチから包の一つを取り出す。乾燥したバナナの葉で包まれたその薬を、俺は飲んだ。
これは──飲み薬ではない。ましてや人を癒やす為のものでもない。
これは──麻痺毒だ。矢じりや刃に塗って使う毒薬。危険な魔物に遭遇した時に使おうと持ってきたものだった。そいつをほんの少量、俺は飲んだ。
少量だが、元々大型の魔物に対しても有効な劇薬、効果はすぐに現れた。
体のしびれと吐き気、不安感、自分の精神が蝕まれていくのが分かる。理由もなく不安で心がいっぱいになる。焦燥感で脳だとか心臓が絞られているような不快感。
「う、うう……俺はこんなんで、本当に旅を続けられるのかよ……」
「お、おい、どうした~? マジでおかしくなっちゃったのかな~?」
けれど、そんな人工的な偽物の不安の中で、俺は希望を見つけることができた。
「分かる、はっきりと。いつも訓練してた時よりもはっきりと分かる。遠くまで分かる」
麻痺毒で俺の感覚は鈍化した。そして俺の感覚の“鈍化”は、濃魔による感覚の鋭敏化、過剰反応と相殺される。
過剰反応の“過剰”を取り去って、俺の感覚を正しく研ぎ澄ます。今ではこの濃魔の中で、小石は小石のまま、そよ風はそよ風として認識できる。けれども、俺の感覚による探知範囲は、いつもより大幅に広がっていた。
濃魔の人間に対する毒が、麻痺毒によって強すぎる効果が薄まって、俺にとっての薬へと転じたのだ。濃魔は純粋な感覚強化の影響を俺に与えた。
「じゃあなシャドウピクシーの誰かさん。頼むから俺に構わないでくれ、そうしてくれたらお礼をするからさ」
「え……?」
目を瞑ったままでも、シャドウピクシーの困惑する顔が見えた気がした。走る俺を、シャドウピクシーは追ってこなかった。
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